第21回:あのSACDがLPレコードになる
牧野 良幸
昨年SACDハイブリッド盤で発売され、2008年度レコード・アカデミー賞など、各界で好評に迎えられた田部京子&カルミナ四重奏団『シューベルト:ピアノ五重奏曲「ます」/シューマン:ピアノ五重奏曲』が、LPレコードで発売される。
クラシックファンにとって、現在、音質的に一番のご馳走はSACDでしょうが、どっこいアナログレコードの音も負けていない。
たとえゴージャスなSACDマルチチャンネルの世界に浸れる今日でも、ぶ厚く、暖かみのあるアナログの音は“何物にも替え難い音”として、オーディオファンに愛されている。もちろん懐古的な意味ではなく、「ハイファイな音」として。
田部京子&カルミナ四重奏団の演奏、録音が素晴らしかっただけに、今回のLP化でどんな音になるか楽しみだ。さっそく話をうかがいにコロムビアのスタジオに行ってきた。

☆チューリッヒでの録音について

田部京子&カルミナ四重奏団
『シューベルト:ピアノ五重奏曲「ます」/シューマン:ピアノ五重奏曲』 |
スタジオにいらっしゃるのは、プロデューサーの国崎さん、録音エンジニアの塩澤さん、そしてカッティングエンジニアの武沢さん。
まずお話をうかがったのが、録音エンジニアの塩澤さん。SACDハイブリッド盤の音源を録音された方だ。
「LPでもSACDと同じマスター音源が使われるそうですね? そもそも、この録音は、どんな感じでしたでしょうか?」
「録音はスイス、チューリッヒのZKOハウスでおこないました。当初、ZKOハウスの響きが予想と違い、あわてましたね。残響感が足りなかったんです」
たしかにクラシック演奏では残響音は重要な要素だ。しかし問題はこれだけではなかったそうだ。
「実はシューベルトの〈ます〉は、録音するには難しい編成なんですよ。コントラバスが入っているので、楽器の音量差がすごくあるんです」
確かにヴァイオリンとコントラバスの音量差はすごいだろう。これにさらにグランドピアノが加わるのだから、アンバランスなことはなはだしい。聴く人にとってはバラエティな編成で楽しそうだが、録音エンジニアにとっては苦労の多いのが〈ます〉なのである。
この責任は、もちろんシューベルトにある。シューベルトは、この編成のアマチュア音楽家のために〈ます〉を書いたらしいのだ。〈ます〉はステレオで聴くのと生演奏では、同じバランスと思ってはいけない。
このように会場、編成とも不安材料があった録音作業。それでも最終的には見事な音を録ってしてしまうのだから、さすがである。
「いろいろ試してみて、ピアノにピックアップマイクを立てました。あとはメインマイクだけ。最終的にはワンポイント的な録音に落ち着きました」
と塩澤さん。
出た、ワンポイント。
クラシックのレコードファンは「ワンポイント」が好きである(そんなことありませんか?)。そこでは、演奏会場の自然な音が広がるよう。80年代の話で恐縮だが、思わず同じデノンレーベルの、インバルがマーラーを指揮した名録音を思い出してしまった。ワンポイント的録音の白眉だったと思う。なのでつい生意気な質問をしてしまう。
「ワンポイントでも、ピアノのピックアップマイクは要るのですか? 演奏者全体を、そのままメインマイクで録音すればいいのだから、要らないような気がしますが……」
「ピアノは弦の奥にあるので、もし1本のマイクだけで録音すると、遠くで鳴っているだけで、何をやっているか分かりにくくなりますね。タッチ感も伝わらないでしょう」
と塩澤さん。なるほど。ここでも生演奏を録音する難しさを実感。現場は机上の理論とは違うのだ。
「録音を終えて、最終的には日本でミックスしました。上手くピアノと弦のブレンド感を出すことができました」
「出来上がった音を聴かせたら、カルミナのメンバーもワンダフル!と感嘆していましたよ」
とここで、プロデューサーの国崎さんが言う。

田部京子&カルミナ四重奏団 |
確かに僕もSACDで、この〈ます〉を聴いてそう思った。
ピアノと弦がすごく溶け合っているのだ。昔からいろいろな〈ます〉を聴いてきたのだが、なぜか、どれを聴いてもピアノと弦が溶け合わない印象があった。両者が勝手な演奏をしている、という印象なのだ。
もちろん〈ます〉はシューベルトの代表曲だ。そんな名曲に「ピアノと弦がバラバラだ」とケチをつけるなんて、「やっぱり自分はシロウトだ」と、聴くたびに自己嫌悪していたものである。
しかし田部&カルミナの〈ます〉を聴いて、「ピアノと弦がブレンドしている! 両者がアンサンブルしている!」と驚嘆したのを憶えている。ようやく自己嫌悪から開放され、僕としては、この録音で初めて〈ます〉の素晴らしさを認識できたのだった。
「今までと違った〈ます〉になったと思いますね」
と国崎さんがおっしゃるのもわかる。
録音エンジニアとしての、塩澤さんのこだわりもあったそうだ。
「今までの室内楽のイメージを変えて、カッコよく、美しさをアピールできる録音にしたかったんですね。あと、各声部がいろいろなことをやっているのが、伝わるようにも」
正直、室内楽を聴く時って、ちょっと地味で忍耐の要る(?)時間だったのだけれども、この演奏は、聴き手も“ハツラツと”聴けたのだった。もちろん田部京子とカルミナ四重奏団の演奏が素晴らしいからこそ、なのだが。
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☆シューマンでも問題発生、音楽の不思議さ
カップリング曲のシューマンの五重奏曲の録音も、最初はスンナリといかなかったようだ。
〈ます〉で満足できる録音ができたから、シューマンの五重奏曲も、マイク位置、演奏者位置をそのままで開始した(もちろん編成は違う。コントラバスなしの普通のカルテットとピアノ)。
しかし、どうも響きがしっくりこなかったそうだ。〈ます〉ではあんなにうまく響いたのに。
「曲が変わっただけで、あんな響きになってしまうなんて。あれは不思議でしたねえ」と国崎さん。
「あらためて、シューマンはシューマンで、最適な位置を探しました。結局、奏者の位置関係は維持したまま、全体を少し移動させたところで、ベストな響きを得られましたね」
と塩澤さん。
シューベルトとシューマンなら年代も近い作品だ。演奏者も同じ。それでも曲を替えただけで響きが変わってしまうなんて。
音楽というのは、物理特性の音なのではなく、「生き物」なのだなあ、と思った。そんな生き物のような音楽を捕らえる録音は、まぎれもなく匠の仕事なのだと思う。
では、録音エンジニアの捕えた高音質が、アナログレコードになってどんな音になるか。いよいよLPの話である。今までの話を、横で微笑みながら聞いていらした、カッティングエンジニアの武沢さんに話を伺おう。
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☆LPレコードについて

カッティングエンジニアの武沢さんと |
LP世代の人なら「カッティング」と聞いただけで、心トキメク人も多いだろう。青春時代、手にしたLPジャケットには〈カッティングヘッドに○○を使用!〉などと、うたわれていたものだ。
「カッティングでレコードの音が変わる」というのは、オーディオファンには常識であり、そこにはロマンさえ感じられた。言ってみれば、音楽家と録音エンジニアの造りあげた音楽の魂を、LPに宿らせる仕事なのだ。さっそく武沢さんにLP制作のお話を伺った。
まずはラッカー盤について。
ラッカー盤とは、レコードの原盤だ。ラッカーマスター盤(凹)をメッキして、メタルマスター(凸)を制作。そこから更にマザー(凹)、スタンパー(凸)を制作して、スタンパーで大量プレスをする。
しかしコロムビアでは、メタルマスターで直接プレスする「マスタープレス」方式をとっている。これだと剥がす行程が少ない分、音溝のシャープさが失われない。ラッカーマスター盤の音質クオリティが保たれるのだ(今回のレコードもそうである)。
初めてラッカー盤を見た。直径は普通のLPよりも数センチ大きい。表面はツルツルで、ちょうどLPの外周の所あたりから溝が掘られて(カッティングされて)いる。
ラッカー盤には当然レーベルはなく、ただの黒い円盤。無機的である。
しかしそれゆえ、刻まれた「溝」が我々に語るところも大きい。音楽という無形なものが、有形なかたちとなって刻み込まれているのである。
録音エンジニアと同じく、カッティングエンジニアも匠であるのは間違いないところだが、なんだか、僕にはカッティングエンジニアが、ロダンのような彫刻家に思えてきた。黒いラッカー盤は、武沢さんの作品なのだ。
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☆ラッカー盤で〈ます〉を聴く

これがラッカー盤です |
いよいよラッカー盤のリスニングである。
目の前にはカッティングマシン(ああ、これもレコード好きにはロマン!現在日本には4台くらいしかないそうだ)。
カッティングマシンのターンテーブルには、カッティングされたばかりの『シューベルト:ピアノ五重奏曲「ます」/シューマン:ピアノ五重奏曲』のラッカー盤が載っている。
「では、かけますね」
武沢さんがラッカー盤に針を下ろす。カッティングマシンには、カッティングヘッドだけでなく、再生するトーンアームもついているのだ。
曲は〈ます〉の第4楽章。
最初の音が出た瞬間、「アナログだぁー!」と心の中で叫んでしまった。
SACDで聴き慣れていた音だったが、LPだと明らかに音の肌触りが違った。心地よく暖かい音。オーディオマニアでなくともすぐに分かるだろう。
それにしも、僕もいつも家でアナログレコードは聴いているので、「こんな音になるだろう」という予想はしていたのだが、今回はそれを越えるアナログ音だった。
なかでも中音域と低音域のぶ厚さは、快感だ。聴いていると「耳が気持ちいい」では言い足りない。「脳まで気持ちいい」が正直なところ。
録音では問題児(?)だったコントラバスがまたいい。この楽器がソロを奏でるときの、チェロをも越えるザラザラ感(またはゴリゴリ感)がたまらない。もちろんヴァイオリンやチェロも倍音が豊かに響く。
こんな弦楽とうまくブレンドして現れる田部京子のピアノは、耳にツンとこないまろやかさがある。
演奏がいいだけに、音として室内楽を聴く快感が、このLPにはある。やっぱりアナログレコードは“何物にも替え難い音”とあらためて実感した。
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☆現代ならでは、のLP制作のこだわり
「今回はデジタルのコンソールではなく、アナログのコンソールを使って制作したんですよ」
武沢さんがラッカー盤から針を上げながら言った。
コンソールとは、大まかに言ってしまえば音質を調整する機材(調整卓)。ここからカッティングマシンに信号が送られるので、レコードの音質に影響が大きいのだ。これがアナログコンソールと聞いて、ちょっとうれしい。
「いやあ、アナログ臭い音ですねえ。SACDと音源が同じとは思えません」
「オリジナルの音がいいので、バランスを大事にして、忠実にアナログに落とし込みました。アナログならでは、の〈なめらかな音の伸び〉を聴いてほしいですね」
と武沢さん、SACDの音はあえて聴いていないそうだ。
「個人的にはシューマンのほうも聴いてもらいたいですね。いい演奏です。音が太くなって」
「いいところを見つけると、それを生かしたくなるのはエンジニアの性(さが)ですね(笑)」と、国崎さんが武沢さんに言う。
「はははは」
場がなごんだところで、僕はミーハー心を出し、ラッカー盤を持たせてもらった。ずしり。おおー。レコード好きとしては感激の一瞬である。
持たせてもらったのは、もちろんマスター盤ではない。テスト盤のラッカー盤である。カッティングエンジニアは満足のいくカッティングができるまで、何枚もテスト盤を作るそうだ。見るとカッティングマシンの横には、ボツになったラッカー盤が数枚立て掛けてあった。
(ちなみに試聴したラッカー盤もマスター盤ではない。マスター盤は出来上がると、音質が変わってしまうから、一度も針を落とさずに工場に送られるのだそうだ。出来あがったか、は最終テスト盤から判断をくだす)
「最初切ったのは、もう少しデジタル寄りの音でしたが、なにか違うと思い、やり直しましたね」と武沢さん。
「切る」とはカッティングのこと。ちなみに刃の切れ味が悪いと、溝がシャープでなくなる。そのラッカー盤も捨てるらしい。カッティングエンジニアは、シェフのようでもある。
「溝、見ますか?」
「いいんですか? ごちそうになります!」
カッティングマシンにはルーペが付いており、ルーペを覗くと3本くらいの溝が拡大されて見える。1本1本の溝がグニャグニャと蛇行している。
「今回のレコードは2枚組みなので、収録時間に余裕があります。ですから、溝と溝の間隔をたっぷりと空けてあります」
「どうしてですか?」
「溝が接近していると、プレスして剥がすとき、そこにノイズが出やすいんです。溝を離してやればノイズが出にくいですね」
「ああ、昔から〈長時間録音のLPは音が悪い〉と言っていたのはそういうことですね。長時間録音は溝の間隔が取れず、詰め込んでいたから」
「そう。あと収録時間に余裕があるので、出力レベルも大きくとれています」
「どういうことですか?」
「出力レベルを大きくすると音はよくなりますが、溝が広がります。さきほどの溝と同じですが、収録時間が長いと、出力レベルを小さくして詰め込むしかない。収録時間に余裕があると、出力レベルもたっぷり取れるんです」
「なるほど」
このように現代のアナログレコードは、じっくりと時間をかけ、贅沢に作られている(重量も180グラムと重い)。アナログの良さは、現代のほうが味わえる、とも言えるだろう。
それにしても、お話をうかがっていると、カッティングエンジニアの武沢さんも、やはり匠である。
塩澤さんが、音楽という生き物を捕える仕事としたら、武沢さんは、それを形あるものに定着させる仕事か。我々がいい音で音楽を聴けるのも、お二人のような匠の存在あればこそ、である。
そんな匠たちの作り上げたアナログの音。このLPを聴くと、まちがいなく“唯一無二”の音に触れられるだろう。

☆ 執筆者プロフィール
牧野 良幸(まきの よしゆき)
1958年、愛知県岡崎市生まれ。関西大学社会学部卒業。80年より版画家として活動を始める。83年からはイラストレーターとしても活躍。絵以外にも音楽や映画が大好きで、エッセイを雑誌に寄稿している。2007年に『僕の音盤青春記1971-1976』(音楽出版社)を、2009年3月には自らのオーディオ遍歴をイラストエッセイにまとめた『オーディオ小僧の食いのこし』(共同通信社)を出版した。

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2009.4/22発売
田部京子&カルミナ四重奏団/ます
COJO-9274-5 ¥5,880(税込) 
レコード・アカデミー賞に輝く「田部京子&カルミナ四重奏団」の名演を、ファンの要望に応えLP化! |
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