その菊地裕介のCD第2弾は、バッハ。
本人の強い希望で提案されたこのテーマ、彼の具体的アイディアは、周囲の受け止めの更に先を行くものでした。
「ブゾーニ編の《シャコンヌ》、ラフマニノフ編の《パルティータ第3番》など、オリジナルは別の楽器のためのバッハの楽曲を後世の音楽家がピアノ曲へと編曲したものを集めてみたい!」
驚くほどの多くの編曲リスト(探せば、たくさんあるものです!)を用意していた菊地の提案は、説得力に溢れるもので、菊地ならではの独創的な企画!と期待が高まりました。
しかしながら調査を進めてゆくと、菊地本人の「眼鏡」にかなう編曲は、それ程多くはないこともわかってきました。多くはビギナー向けに「安易に」アレンジされていたり、編曲者の個性が強すぎてバッハの魅力を損ねているように感じられたり。そんな中で、アルバムの中心になるのは、やはりブゾーニ編の《シャコンヌ》になってゆきます。菊地自身の言葉をライナーノートから引用しましょう。
原曲が、ヴァイオリン独奏による不朽の名曲であるのは当然であるが、19世紀の巨匠ブゾーニによる《シャコンヌ》の編曲も実に魅力的で、ピアニストのレパートリーの一部となり、今までにも多くの演奏家が名演を残している。ここで今さら自分がこの曲を録音する意義を問われるのは当然のことであろう。
菊地の新たな「チャレンジ」
ここで菊地は、前回にもましての大きな「チャレンジ」を決意します。
「《シャコンヌ》を含む《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番》全曲をピアノ版で。シャコンヌ前の4つの舞曲は、自分で編曲することにします。」
これが、自らに課した「この曲を録音する意義」への大胆な回答なのでした。
音楽史上の偉人であるバッハを「編曲」することには、「敬虔な」バッハ愛好家からは、「冒涜行為」との非難が上がらないとも限りません。しかし、菊地に迷いはありませんでした。「いろんな評価はあるでしょう。でも、僕が真正面からバッハと向き合った結果は、きっと受け止めてもらえると思います。」 筆者には、菊地の言葉の中に、パリ仕込みの「理論」に裏打ちされた彼の並々ならぬ意欲が垣間見えました。
バッハの音楽は、ジャズ風の編曲を施されてもその輝きを失わないほどに懐が深い。「フーガの技法」や「音楽の捧げもの」(このアルバムにも「6声のリチェルカーレ」が収録されている)といった彼の最後期の作品において特徴的なことの一つは、「演奏楽器の指定が無い」ということである。(実際には鍵盤楽器での演奏が可能なように音域等の配慮がなされているという事実はあるが・・・)これも晩年に至って行き着いたバッハの哲学であり、演奏者の創造性を許容しているのだろう。
バッハへの敬愛が感動的な、菊地の編曲
録音を数週間先に控えた2009年1月。編曲の試演奏を聴いた筆者の感動をどんな言葉で表現したら良いでしょうか。バッハのメロディーは一切改変せず、その上にきわめて理性的かつ控えめに和声とバスが加えられています。そして時折盛り込まれる、非常に「趣味のよい」編曲者の個性。菊地によるライナーノートを再び引用しましょう。
冒頭の〈アルマンド〉ではクラブサン的な書法とし、和声上も極力バッハの様式に従うようにしたが、曲が進むに従ってテクスチュアが次第に濃厚になり、ロマン派的な和声書法による「逸脱」が登場し、これがブゾーニ編〈シャコンヌ〉へと自然につながっていく流れが生じるように配慮したつもりである。
筆者には、出来たばかりの菊地の編曲に、バッハへの敬愛が通奏低音として流れていることがはっきりと聴き取れ、むしろ(バッハの原曲からはかなり遠い印象の)ブゾーニ編《シャコンヌ》よりも魅力的に感じられたものです。しかし筆者のこの感想は、後に菊地が執筆したライナーノートを読み、自分の理解が浅かったことを知ることになります。
この魅力的な(シャコンヌの)編曲が、「過度なロマン主義により原曲を歪曲している」として批判されることもある。このような狭量な批判がまかり通ってしまう背景には、演奏者の姿勢に起因する部分も大きいように思える。(・・・中略・・・)今回、拙編を皆様に披露させていただくという決断に至ったのは、全曲を通すことによってしか迫れない「何か」を求めた結果である。実際に、組曲を自らピアノ曲へと仕立てていく作業を通じて、〈シャコンヌ〉(特に、ブゾーニ編)のみに触れていた時には見えていなかった、全曲に通じる古典的な整合性、といったものが見えてきて、〈シャコンヌ〉自体への解釈も大きく変化した、という偽らざる事実がある。
録音初日。まず最初に取り組んだのが、《シャコンヌ》でした。そこでスタッフが耳にしたのは、現代のピアノが持つ「ダイナミクスの幅の大きさ」、「音色の多彩さ」を極限まで活かしながらも、テンポ設定や拍節感においては「バッハのオリジナル」を強く意識した、これまでにないスタイル。彼が言う、(編曲を通じて)全曲を見通すことによって初めて見えてきたこと、それは、(かつての彼自身を含め)多くのピアニストが、ブゾーニ編《シャコンヌ》を演奏する際に、それが5曲からなる組曲の終曲であることに十分な意識を払っていないのではないかという、問題提起なのでした。
ニューヨーク・スタインウェイのポテンシャル極限に挑む!
それにしても、楽器の限界に挑むような凄みのある菊地の演奏に、スタッフは唖然。まるで別の楽器かのような柔らかな音色のpp(ピアニシモ)を絶妙のコントロールで聴かせたかと思えば、ff(フォルテシモ)では戦いを挑むような鬼の形相に一変。余りに強い打鍵に、通常想定される幅を超えて弦が振動して雑音を出してしまうなど、これまでに経験のないことです。実は、録音に先立ち、今回使用したタカギクラヴィア(株)所蔵のニューヨーク・スタインウェイを試弾した菊地は、この楽器のもつ桁外れのポテンシャルに大いに触発され、録音前の準備は「8割程度に止めておいた」のだといいます。つまり、録音の前に、目指すものを「固めてしまう」と、本番で「それ以上」の可能性を求めるのが難しくなるというのです。
今回使用したタカギクラヴィア所蔵のNYスタインウェイについてもひとこと触れておきたい。この楽器のppの音の美しさは特筆に値するが、だからといって今日の多くの楽器のようにやみくもに「いい音」を追求しているのではなく、「ffの、歪をも伴った、生の叫び」といったものの表現も可能な、とても懐の広い楽器であるように思える。
グレン・グールドのバッハにも心酔したという菊地裕介。バッハから新たな魅力を引き出し、ヴァイオリンの模倣ではなくピアノならでは表現を目指した、真摯にして意欲的な新録音です。ぜひお聴きいただきたいと思います。
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