古賀政男プロフィール

PROFILEプロフィール

古賀政男

古賀政男

◇ 本名:古賀正夫
◇ 生年月日:明治37年11月18日
◇ 出身地:福岡県三潴郡田口村(現:大川市)

明治大学在学中に明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画し、在学中に音楽家を志す。
昭和4年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にて処女作「影を慕いて」を発表。昭和6年にはコロムビア専属の作曲家となり、昭和9年にはテイチクに移籍したが、昭和13年にコロムビアへ復帰。半世紀近くに渡っていわゆる“古賀メロディー”を発表し、数々のヒット曲を生み出した。
作曲活動のかたわら、昭和13年には外務省の音楽文化親善使節として世界各地を訪問、昭和49年には広島平和音楽祭を開催するなど、音楽で平和を訴える活動を続けた。また、昭和34年には日本作曲家協会を創設して初代会長に就任。日本レコード大賞を制定するなど、音楽界の発展に尽力した。
昭和53年7月25日、73歳で死去。翌8月4日、“古賀メロディー”作曲による実績が認められ、国民栄誉賞を受賞した。

 古賀政男は説明するまでもなく日本を代表する作曲家である。昭和5年、ビクターから「文のかおり」「影を慕いて」を出し作曲家としてデビューしてから、昭和53年7月、73歳で死去するまで約50年間の作曲生活を送った。生涯に送り出した作品数は、4000とも5000ともいわれる。8歳から18歳までを韓国(旧朝鮮)で過ごし、15歳の時に贈られたギターが音楽への道のきっかけだったという。その韓国時代の経験が、古賀メロディにある“韓国メロディの影響”とされる。
 古賀政男は、明治37年11月18日、福岡県三瀦(ミズマ)郡田口村(現大川市)で、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれる。ただし父親・喜太郎は、政男が5歳の時に死去してしまう。それがきっかけになって、韓国・仁川に住んでいた長兄・福太郎のもとに身を寄せることになる。その後京城(現ソウル)に移った後、18歳で日本に帰り明治大学の予科に進学し、すぐに明治大学マンドリン倶楽部創設に参加することになる。
 そしてこのマンドリン倶楽部での活動が、作曲家・古賀政男のスタートに大きく役立つことになる。そして同時に、韓国での記憶が古賀メロディの根底にあるといわれるのも、この幼少時代の経験が生きているからであろう。
 昭和4年、明治大学マンドリン倶楽部の第14回コンサートに当時の人気歌手・佐藤千夜子が出演、その縁で古賀の作品「日本橋から」「影を慕いて」など4曲が佐藤によってレコードに吹き込まれ、その翌年発売されることになったのである。そして昭和6年、コロムビアと専属契約を結び正式に作曲家としてスタートすることになる。
 藤山一郎の「酒は涙か溜息か」など初期のヒット曲を連発し、たちまち売れっ子作曲家となっていったのである。
 昭和10年代から20年にかけての作曲家活動は、まさに順風だった。昭和13年、外務省音楽使節として渡米、「男の純情」「丘を越えて」などをNBCラジオで放送して大きな反響を呼び、アメリカ作曲家協会の著名作曲家の写真額の一つに選ばれるなど、まさに一流作曲家としての地位をかためたのである。
 そして昭和11年、「東京ラプソディ」のほか、「男の純情」「人生の並木路」「うちの女房にゃ髭がある」「青い背広で」「人生劇場」などヒットを飛ばし、まさに戦前の全盛期を迎える。さらに戦後、日本人に欠けているのは愛情であるとして、そのような愛情がみんなに伝わるようにと作曲を続け、「悲しき竹笛」「三百六十五夜」などを発表する。その後、大ヒットとなる「湯の町エレジー」を発売。昭和34年、日本作曲家協会を設立し初代会長となる。
 戦後も旺盛な制作力で、二葉あき子「恋の曼珠沙華」、久保幸江「トンコ節」、神楽坂はん子「ゲイシャ・ワルツ」、美空ひばり「娘船頭さん」、島倉千代子「乙女心の十三夜」、村田英雄「無法松の一生」、そして三波春夫「東京五輪音頭」など、数多くの作品を残している。
 昭和14年、東京・代々木上原に新築した自宅は敷地3000坪。それを弟が無断で売却してしまっていたが、昭和27年に買い戻して再度家を建て直し、そこに住む。これが旧古賀政男記念博物館である。(その後、老朽化が進んだため取り壊され、跡地には平成9年に現在の古賀政男音楽博物館が開館、邸宅の一部が移築・展示されている。)この家には応接間に100号のビュッフェの絵が飾ってあり、公衆電話の赤電話が置いてあった。それだけ来客が多かったことを示すエピソードである。
 昭和53年7月25日、急性心不全で死去、73歳だった。同日付で従四位に叙せられる。また国民栄誉賞を受賞。母校の明治大学からは名誉博士号も贈られた。作品の殆どはコロムビアからリリースされているが、オリジナルの「浜昼顔」は五木ひろしの歌唱によって、ミノルフォン・レコードから発売されている。

文章:伊藤強