赤坂小梅プロフィール

PROFILEプロフィール

赤坂小梅

赤坂小梅

◇ 本名:向山コウメ
◇ 生年月日:明治39年4月20日
◇ 出身地:福岡県田川郡川崎町

17歳の時、小倉の旭検より梅若を名乗って芸者デビュー。まもなく歌のうまさが話題になる。
昭和4年、小倉を訪れた野口雨情らに認められてレコードデビュー。昭和6年には上京して赤坂に移り、赤坂小梅と名乗る。
昭和8年、コロムビアより「ほんとにそうなら」を発売し、大ヒット。
以降、流行歌はもとより、端唄、小唄、民謡などを多く吹込んでヒットさせ、大衆音楽にこれらを深く浸透させることとなる。
昭和48年には第10回文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞。昭和49年には紫綬褒章を、昭和55年には勲四等宝冠章を受章したが、昭和56年4月、国立小劇場で「感謝引退記念公演」を開催し、芸能活動より退いた。
平成4年1月17日、85歳で死去。

 赤坂小梅は本名を向山コウメと言い、1906年(明治39年)4月20日に福岡県田川郡川崎町に9人兄姉(3男6女)の末娘として生まれ、生後程無く母親が亡くなり長姉の養女となります。幼少期より邦楽に親しみ、16歳の時に周囲の猛反対を押し切り自ら芸者を志望し八幡市の置屋「稲本」にて芸者修業、「梅若」の名にて芸者となり「稲本」の小倉市移転にて同地の旭町の検番「旭検」に所属しました。既に唄の技量にては周囲に名が知られる存在であり、「小倉に梅若あり」と言われる程でした。
 1929年(昭和4年)、作詞家の野口雨情と作曲家の藤井清水は日本全国を行脚し、古謡の採譜・新民謡の制作・美声芸者の発見等の文化事業を行っており、九州来訪の折に小倉の料亭「津田倉」にて梅若の芸に接します。そして、藤井清水の推薦にて日本ビクター蓄音器株式会社に録音を行い、「小倉旭券梅若」の名にて同年2月新譜として発売された「異国船」・「千代の松原」が最初であり、以後も散発的ですが藤井清水作曲の新民謡を中心に「ビクター」レコードに録音があります。途中から新譜月報に顔写真入りで作品紹介が掲載される様になり、1930年(昭和5年)8月号には“未だ若いけれど、藤井清水氏に依って見出された小唄の天才で、その美声は嘗て其の地に遊んだ藤原義江氏も推讃されたほどです。”と、同社の首位声楽家の賛辞がある程であり、1931年(昭和6年)8月新譜の「粟津小唄」まで、合計16面の梅若名義の発売作品があります。
 その後に上京し、小倉出身の後援者清水行之助(1895〜1981)の紹介にて赤坂の料亭「若林」へ移り「小梅」と改名、御披露目を経て以後は鶯芸者として活躍を始めます。レコードは引き続き「ビクター」にて11月新譜の新作民謡「別府「まっちょる」節」、端唄「時雨して」・「浅くとも」から「赤坂小梅」と表記され、新譜月報にも新芸名の紹介があります。なお、同社には1933年(昭和8年)5月新譜の新歌謡「娘と船大工」・新民謡「豊後風景」まで、合計8面の発売作品があります。
 一方、株式会社日本蓄音器商会の主力銘柄「コロムビア」レコードには1932年(昭和7年)7月新譜の俚謡「博多節(博多帯しめ)」・「博多節(百万石の)」が最初であり、翌年の3月1日に同社の専属になる迄は「コロムビア」と「ビクター」の双方から同一芸名にて新譜が発売されるとの異例の状況が続きました。当初は俚謡・端唄・新作民謡でしたが、新人作曲家の古賀政男の「ほんとにそうなら」が大ヒットしますと日本調流行歌の企画も立てられ、同社専属の様々な作曲家の作品を何れも見事に唄い上げました。
 当時のレコード録音は1作品1時間を単位として蝋原盤に同時録音し、出来の良いテイクの原盤を型取りしてテスト盤を作り、試聴の上で商品のテイクを決定しますが、不出来の場合は再度日程を決めて楽団・作曲家を再集合せしめ再録音します。小梅の場合は再々録音のテイクにて漸く上出来となる場合や、再録音の結果よりも初回の方が上出来等の、最上の出来となる迄の苦労と精進が録音日誌やテイク番号から偲ばれます。
 邦楽と流行歌の路線は好評でしたが、次第に邦楽に比重を置き様々な作品を世に送り、好評にて今日でも周知の作品が多くあります。「熊本甚句」は「おてもやん」として、「黒田武士」は「黒田節」として広く流布し、「白頭山節」「炭坑節」「ぶらぶら節」等も同様であり、全国各地の民謡を広く世間に知らしめた功績は大きいと申せましょう。
 この間の1936年(昭和11年)に邦楽の杵屋勝松(勝右衛門、1901〜1939)と結婚しますが、1939年(昭和14年)に外地での軍慰問中に内地の夫君の病状が悪化して急逝されました。
 戦後は日本放送協会の「紅白歌合戦」には1951年から1956年の間に合計4回出場し、当時の人気の程が伺われます。また、レコードがLP・EP盤になり、更にはステレオ録音の時代にも新録音を継続して活躍を続け、テレビ出演等もあり、常に現役としての地位にありました。その長年の活動に対して、1973年(昭和48年)に文化庁芸術祭賞優秀賞、1974年(昭和48年)に紫綬褒章、1980年(昭和55年)には勲四等宝冠賞を受賞、1981年(昭和56年)春には自伝「女の花道」(けいせい出版)を刊行、4月21日に国立小劇場にて「感謝引退記念公演」を行い、60年の芸能生活に終止符を打ちました。引退後は房総半島に転居して「小梅民謡教室」を主催、1992年(平成4年)1月17日に亡くなりました。なお、2007年(平成19年)には生誕百年を記念したドキュメンタリー映画「小梅姐さん」が制作され、貴重な記録となっております。

郡 修彦(音楽史研究家)