中野忠晴プロフィール

PROFILEプロフィール

中野忠晴

中野忠晴

◇ 生年月日:明治42年5月27日
◇ 出身地:愛媛県

武蔵野音楽学校卒業後、作曲家の山田耕筰にスカウトされ、昭和7年にコロムビアへ入社。格調高い歌謡曲を主として歌っていたが、もともと洋ものを好み、重唱コーラスに興味を持っていたこともあり、武蔵野音楽学校の卒業生4人が組織した四重唱カルテットである、コロムビア・アイキー・コルテットに目を付けて、この4人組にジャズ・コーラスの唱法を指導、昭和8年10月に自分のソロ・ボーカルにコーラスを加えた中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズの名で「山の人気者」を録音する。これが好評を博したため、リズム・ボーイズとしての録音が発展することになる。
しかし昭和10年初めに、ポリドールによってリズム・ボーイズ4人全員が引き抜かれたため、中野忠晴は歌唱力ある合唱経験者を集め、中野忠晴とコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズの名を冠して再出発する。昭和14年まで活動を続けた。
戦後はキングレコードに移籍し、作曲家として活躍。
昭和45年2月19日、60歳で死去。

 中野忠晴は1909年(明治42年)5月27日に愛媛県喜多郡大洲町に牧師の子として生まれ、幼少時から賛美歌を耳にしていた事と聖歌隊員としての経験が後の人生に大きな影響を与えました。父親の転勤にて神戸の小学校に上り、次いで四国に戻り北与中学校を経て大洲中学校へ進み、1929年(昭和4年)に上京して武蔵野音楽学校声楽科に進学。声楽家の木下保(1903〜1982)に師事して研鑽を積み、在学中に本名を含め複数の芸名にて中小会社にレコード録音があります。
 1932年(昭和7年)に同校を卒業の後は直ちに日本蓄音器商会の歌手となり、4月25日に第一作の「夜霧の港」が発売され、29日には音楽学校の新卒業生による「新人コンサート」第5部武蔵野音楽学校の中で、クルト・ヴァイル(Kurt Weill 1900〜1950)の歌劇「三文オペラ」より「メッキー・メッサーの殺人行為」を独唱し、異色の存在として知られます。東京音楽学校在学中のレコード録音の露見により卒業まで活動中止を余儀なくされた藤山一郎に代わり、同社の声楽系流行歌手として主力の存在となり、6月1日に専属に昇格しました。この時期には数多くの流行歌のレコードを発売する一方で、外部からの委託製造品にも足跡があり、これは依頼主の指名か会社の推薦ですので、実力と知名度如何に因るものです。更には関西の太平蓄音器にも別名で録音する等、八面六臂の活躍でした。
 次いで、一時期下火であった外国の軽音楽の日本語版が各社で制作される様になり、同社では武蔵野音楽学校卒業生で結成した四重唱団を「コロムビア・リズム・ボーイズ」と改名して中野の独唱を配する手法を採り、奥山貞吉(1887〜1956)と仁木他喜雄(1901〜1958)の編曲の良さと相俟って他社を引き離し、更には大日本蓄音器株式会社からの移籍に中野が協力した服部良一(1907〜1993)が編曲に加わり、支那事変の末期まで全盛時代となりました。これ等の作品は原題・原詩を踏まえた場合と、全く独自の題名・作詩の場合がありましたが、常に受け手への浸透を配慮して臨機応変に対応してる辺りは流石ですし、自由な時代の雰囲気が感ぜられます。また、その中で外国の軽音楽レコードを伴奏として使用する異色の録音方法があり、ピックアップによるレコードの電気再生音とマイクロフォンによる歌唱を合成しますが、中野は全く違和感のない出来を見せ、音感の良さを如実に示しております。
 この時期には流行歌、外国作品の日本語版、社歌・校歌と幅広い分野の作品を歌う一方で作詩・作曲も手掛け、本名の他に柏木晴夫、野瀬宇多男の別名も使用しており、更には同社文芸部にて制作担当も兼務の活躍ぶりでした。また、同社では松平晃、伊藤久男、霧島昇と実力派の声楽系流行歌手が台頭して来ますが、夫々の個性を生かした企画の為に競合する事は殆どありませんでした。1937年(昭和12年)7月の支那事変勃発後も以前と同様の路線の企画が続き、愛国歌・時局歌の比重は少な目でした。やがて、時局の進展による物資不足と世情の変化により、レコード産業自体が少しずつつ衰退の傾向を辿り、それに比例する様に中野の作品が減少し、事変末期の1941年(昭和16年)にて同社での録音・発売が終了しましたが、実演での活躍は継続しました。
 同社との契約終了後の1944年(昭和19年)には召集により3ケ月程兵役に就きますも、中野の才能に理解ある上官により除隊措置が取られました。戦後は飲料事業に進出しましたが成功には至らず、1952年(昭和27年)早々に旧知の松村又一(1898〜1992)を頼りキングレコード株式会社に移籍、同時に全音楽譜出版社とも契約を結びました。歌手としては同社で1枚2曲を発売したのが最後のレコードとなり、以後は作曲家に転じての活躍が始まり、外国軽音楽風の作品から民謡調流行歌まで幅の広い作品を生み出し、特に「おーい中村君」は同社での最大のヒット作品となりました。
 その一方で、通信教育による流行歌手の育成に尽力し、1956年(昭和31年)には「日本歌謡学院」を設立して特に地方の歌手志望者への便宜を図り、更に1961年には「日本フォノ・レコード歌謡学院」を設立、簡易レコードとして世の注目を集めたソノシートを教材に採用して視聴覚による通信教育を開始します。新時代の媒体を逸早く採用する辺りの卓見は流石と言え、旧態依然に満足せず常に時代の流れを見つつ、様々な発想を実現して行く姿勢を歌唱にも作曲にも事業にも貫きましたが、1970年(昭和45年)2月19日に肺癌にて病没しました。

郡 修彦(音楽史研究家)