[この一枚 No.38] インバル/マーラー交響曲第6番《悲劇的》

この一枚

インバルによるマーラー交響曲第6番《悲劇的》のライナーには以下のコメントが記されています。
「この録音はB&K社製録音用マイクロホン 4006 2本だけによる録音を基本とし、一部にデジタル遅延補正をおこなった補助マイクロホン出力をミックスしております」


ここに書かれている「デジタル遅延補正」とはどのような録音手法でしょうか?
デンオンがクラシック録音で心がけたのは「リスナーがコンサートホールに居るかのような自然な音場感」です。具体的には、オーケストラでは手前に弦楽器、奥に木管、金管、さらに奥に打楽器が位置するように聴こえることです。
小編成の録音では各楽器間のバランスが悪いときに、ある楽器をマイクから離し、距離感と各楽器間の明瞭度を最適化することができます。しかし大人数のオーケストラでは音楽に沿って各パートを動かすことは簡単ではありません。(昔ストコフスキーが試みたという話が伝わっていますが)


少し難しくなりますが、具体例を挙げてみましょう。
ベルリオーズの幻想交響曲第4楽章「断頭台への行進」ではステージ最奥に陣取る2人のティンパニ奏者が大活躍します。このシーンを指揮者頭上のメインマイクのみで収録するとティンパニの音がモコモコと歯切れ悪く、他の楽器の音も隠されてしまい、迫力が伝わってきません。そこで録音エンジニアはティンパニの前に補助マイクを立てて、楽器の音をクリアに捉えようとします。このマイクで拾った音とメインマイクの音を組み合わせると歯切れ良く、しかも迫力あるシーンが作り出せるのですが、勢い余ってティンパニのマイクの音量を上げすぎると、あたかもティンパニが奥から飛んできて、ステージ最前列、指揮者の横で演奏しているように感じられます。


この原因は音の波とマイクで電気に変換された信号との伝搬速度の違いによるものです。
ティンパニの音は近くに置かれたマイクで直ぐに電気信号に変えられ、録音室に届きますが、オーケストラの頭上を伝わる音の波はティンパニから約15m離れたメインマイクに約50ミリ秒遅れて届くことになります。結果、録音では実際の空間ではありえない「ティンパニの直接音が50ミリの間隔で2つ生じる」ことになるのです。
マイクの本数がメインマイクとティンパニだけならばまだ話は簡単ですが、オーケストラの中にマイクを林立させるとその数だけの時間差が生じることになり、結果、不自然な音場を作り、音を濁らせる原因となるのです。
マーラーのように大編成で、しかも各楽器の明瞭度が求められる録音の場合、多くのマイクを使いたい、しかし音の混濁は少なくしたい、とエンジニアは頭を悩ませるのです。
マーラー交響曲全集録音では、高性能のマイクを少なく用いる、という解決手法で、B&K社の4006がメインマイクとして使われましたが、編成の小さな第4番では可能でも、その他の交響曲では難しいものがありました。
そこで、第6番からは補助マイクに「デジタル遅延補正」という手法を用いたのです。


「遅延補正」とは、先ほどの例を用いると、ティンパニに置かれたマイクの電気信号を50ミリ秒遅らせて、メインマイクに到達した時と同時に出せば、あたかも「ステージの奥から、明瞭に聴こえる」というものです。


アナログ録音技術ではこの正確で、高品質な「遅延(ディレイ)」を作り出すことができませんでしたが、デジタル録音ではメモリーに音を貯めて、好みの時間に高品質で出力することが可能なのです。
デンオンではこの手法をまず、1985年2月に旧東ドイツ、ドレスデンのゼンパー・オペラ復興記念公演ウェーバー「魔弾の射手」の録音で試みました。
オーケストラ・ピットのマイクと舞台のマイクの距離と時間差を測定して、舞台の録音信号に「遅延」を施し、手前にオーケストラ、その奥の舞台で歌手が明瞭に歌う、というサウンドステージを作り出しました。舞台とオケ・ピットの時間差補正がうまくいくと「スッーと奥行きが見えてくる」不思議な体験でした。この音は現在もCDとして聴くことができます。
しかしながら、同時に録音したR・シュトラウスの「薔薇の騎士」ではなぜか、原因不明の不自然な音場となり、この手法によるCD化は断念しました。


「遅延補正」の効果とその使用法の難しさを経験したデンオンはマーラー交響曲第6番で再度の導入を試みました。まず、ステージ上の楽器配置と使用する補助マイク、そしてその位置、高さ、位置関係をメジャーで計ります。また競技用のピストルを用いて、その信号音の遅延をオシロスコープで測定、解析します。
余談ですが、このピストルの信号音はデンオンの海外録音では録音中に必ず行う作業の一つとなり、多くの録音会場の音響データを集めました。


1986年秋には第6番の4チャンネルのマスターテープを用いてメインマイク出力と遅延時間を細かく変えた補助マイク出力をミックスした試聴が何度も行われ、好結果が得られたものはその物理的な裏付けを考える日々が続きました。
結果、遅延補正を行わない補助マイクミックスより適切な遅延補正を行ったほうが混濁の少なさと奥行きの再現に優位性がみられ、以降のマーラー交響曲CDにもこの手法が採用されたのです。


今日の録音ではマイクごとにPC上で記録波形が表示されるので、細か遅延補正はエンジニアの必須作業となり。各社のオーケストラ録音の透明感、明瞭度が上がり、不自然な楽器の飛び出しが少なくなってきました。改めてデジタル録音技術の進歩の早さと25年前の苦労を比較する日々です。


インバルのマーラー交響曲第6番の録音で忘れられないのがもう一つあります。
それは録音日。25年前フランクフルトでの録音最終日4月26日は旧ソ連、チェルノブイリで原発事故が起きた日でした。当時はこの曲の副題のように《悲劇的》。


原発事故のニュースが伝えられると、放射能が北西に流れてゆく先の地域、特に北欧諸国やドイツでは「雨に濡れるな」「子供は外出を控える」「食料は何が安全?」など流言が飛び交い、ヨーロッパの人々は今の日本と同じパニックに陥りました。今回の原発事故で「何故、四半世紀前の事故を遠い国の過去の出来事とし、教訓に出来なかったのだろうか?」と忸怩たる思いです。

(久)


アルバム 2003年03月26日発売

エリアフ・インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団
マーラー交響曲第6番《悲劇的》

★現在この商品は取り扱っておりません

アルバム 2007年09月19日発売

ヴォルフ=ディーター・ハウシルト指揮、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団・合唱団ほか
ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」

COCQ-84372-3 2枚組 ¥2,800+税

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