[この一枚 No.40] ゲルバー/ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ集-5第17番《テンペスト》、他

この一枚

1960年代、アルゼンチンから3名の世界的なピアニスト、アルゲリッチ、バレン ボイム、そしてゲルバーが次々にデビューした。 ゲルバーは当初から「その若さからは想像できない巨匠的な堂々とした演奏」と して、同国の先輩ピアニスト、アラウの後継者と高く評価される一方で、幼い頃 に罹った小児麻痺の影響で足が不自由であることや、ステージ上の照明にも拘る など、周辺の話題にも事欠かず、世界中の音楽市場で成功を勝ち得ていった。

しかし、70年代以降、他の二人が活動の幅を益々拡げていったのとは対照的に、ゲルバーの録音活動は減少してゆき、やがてEMIとの契約も解消された。
すっかり「過去の人」と人々の記憶から忘れ去られた1987年、彼は突然録音を再 開する。レーベルはDENON、しかも「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集」と いう一大プロジェクト。録音会場には彼が住んでいるパリのリバン教会が選ばれ た。この会場はエンジニアのピーター・ヴィルモースにとってはエラートの仕事 で数多くの名録音を残している場所で、またDENONにとっても第1回PCMヨーロッパ録音の最初、パイヤールによるモーツァルトの協奏交響曲などを録音した思い出の会場だ。

DENONの録音チームから丁重に迎えられたゲルバーはこの空白の時期を経て「大 きな変貌を遂げる」というより、「さらに円熟した」という言葉が相応しい堂々とした音楽を奏でた。「ゲルバー復活」、このニュースは多くの音楽ファンを驚かせた。

同年7月、10月、また翌年6月と、初期の3枚、10曲の録音は順調に進んだ。しか し、全集の4枚目は1年半空いて、89年12月にオランダ、ライデンに会場を移して行われた。

一方では、ゲルバーによる協奏曲の録音計画が立てられて、指揮者、オーケスト ラとの交渉が進行していた。最終的に本人の承認が得られたプランは指揮者はク リヴィヌ、協演はロンドンのオーケストラ、そして曲目はラフマニノフのピアノ 協奏曲第3番、時期は1991年11月という内容だった。

しかしながら、指揮者、オーケストラ、録音会場、録音スタッフ、機材の移動手 配など全てがブッキングされ、録音まで数日という時、まさに耳を疑う「キャンセル」の連絡が入ってきた。
全関係者は慌てふためき、パリの音楽事務所、東京の日本コロムビア、デュッセ ルドルフの録音スタッフ、そしてロンドンのオーケストラ、この四者間をめまぐ るしく電話、FAXが飛び交った。
結果、ブリジット・エンゲラーを代役ピアニストとして起用、曲目はチャイコフ スキーとシューマンに変更されて録音は行われた。現在では毎年東京でのラ・フォル・ジュルネで活躍するピアニストとしてエンゲラーの名は知られているが、 当時日本では全く無名のため、CDセールスは最低枚数だった。しかしながら両曲 目とも当時DENONの音源に無かったために幅広く流用され、隠れたベストセラー となっている。
この協奏曲録音キャンセルのドタバタから半年後、ゲルバーから「ベートーヴェ ンではなく、ブラームスのピアノ・ソナタ第3番を録音したい」という提案が寄 せられ、92年7月にオランダ、ライデンでの録音が実現した。彼は前年の騒動は 無かったかのように、巨匠としての風格を周囲に漂わせ、凄いエネルギーで鍵盤 に向かって濃厚な音楽を奏で、そして、満足したかのようにパリに帰って行った。

録音スタッフが様々な気疲れから解放され、「やれやれ」という思いでデュッセ ルドルフに戻ってきた直後、パリの音楽事務所から、またも信じられない連絡が 届いた。
「ゲルバーが9月3日からベートーヴェンの録音の続きを行いたいと言っています。 つきましては録音の手配をお願いします。会場はオランダは避けてください。また録音前の練習用にピアノとリハーサル室を確保してください。そしてホテルの ランクは…」

9月3日といえば、準備に1ヶ月半もないため、急遽、過去録音で用いた会場の空 き状況、調律師のスケジュールを調べるために電話によるローラー作戦を開始し た。しかしながら主な会場はどこも予約済みだったり、日程が合わなかった り・・・。これまでの経緯より、ゲルバーの「体調」ではその先の日程が簡単に提 示されるとは考えられないので、スタッフは会場に関連する些細な情報でも入手 しようと必死だった。
そんな中、ダルベルトのシューベルト/ピアノ・ソナタ全集録音の調律師から 「ダルベルトの録音会場コルソーは駄目だが、近くのヴヴェのカジノはどうだろうか?以前は録音に使われていたし、日程的にも大丈夫じゃないか。一度下見に来ないか?」との連絡が入った。
ヴィルモースに話すと「そこなら以前録音したことがあるよ、響きも悪くない」 との心強いアドバイス。早速調律師と日程を調整して会場の下見に飛び立った。

スイス、レマン湖畔のヴヴェはチャプリンが晩年を過ごした地として、またチョ コレートやコーヒーで有名なネスレの本社があることで知られている風光明媚な 街である。目指す会場は街一番の広場と船着き場に面して建っており、内部は舞 踏会場として数百人は収容できそうな広さを持ち、天井は高く、木の床で、響き も悪くなかった。問題は周囲にあった。まず、広場に面しており、建物の横も道 路なので自動車の音が入ってくること。2番目は広場の真ん中に時計台(ここは 時計の国スイス)があり、定時に鐘が鳴ること。最後は船着き場に着く定期船の 汽笛の音。しかし、演奏家の集中力を乱すものは排除しなければならない。
その足で街の役場を訪ね、「9月に録音で会場を使いたいのだが、障害となる要 素を除くのに協力していただけないか?」と持ちかけたところ、上記の2番目まではあっさりと承認された。「道路は封鎖しましょう。時計は止めましょう。た だ船は難しいが、発着時間が決まっているので、その間録音を中断しては?」
また、練習用ピアノと練習会場については調律師が近くの映画館を手配することで、そして毎年ジャズ・フェスティバルが開かれるモントルーが隣町なので、高 級ホテルの問題も解決できた。
朝、ドイツを飛び立つときは不安で一杯だったが、半日で視界が良好となり、爽やかなスイスの夏といった気分で帰路についた。

こうしてゲルバーの録音日と会場は決定したが、この急遽舞い込んだ録音と前から計画されていた同時期のイタリア合奏団の録音を並行して行うために人員、機 材や搬送計画の見直しが必要だった。
結果、録音機材は2チーム分を1台のトラックに載せて、ドイツからスイスへ、 そこで1チーム分降ろして、イタリアに向かう。そしてゲルバーの3日間の録音 日程が終わった頃、イタリアからスイスに帰り、機材をドイツに持ち帰る。運搬 費削減のため、最終的にはそのようなプランだった。

9月2日、ゲルバーは上機嫌でスイスに現れ、早速映画館で練習を行った。隣では調律師が固唾を呑んでピアノの状態を確認していた。
練習を終えたピアニストは微笑んで調律師に1つの依頼をした。「この練習用ピアノはとても素晴らしい。明日、録音会場に運んで貰えないだろうか?緩徐楽章 で用いたいのだが」
スタッフは一瞬顔を見合わせたが、彼の要望は録音キャンセルを防ぐため受け入れるかしかなかった。

翌日の録音は街の広場と道路が封鎖されたため、心配された交通騒音や時計台の鐘も聞こえず、順調に、いや、それ以上に凄い勢いで進んでいった。
そして、緩徐楽章録音のテイク1。最初から最後まで通して素晴らしい演奏が行 われた。通常ライヴで無い限り、「まさか」という事故やミスを防ぐためにも、 ある楽章が1つのテイクしか無いという録音はまず行わない。しかし「もう1つ のテイクを」という要求を「ではプレイバックを聴いてみよう。もしミスがあれ ば録音するけれどね」とピアニストは反論した。プレイバックを全員で聴いた結 果、「ほらね」と彼は微笑み、再録音は行われなかった。
そして、たった1日で全録音は終了し、ピアニストは最高の気分でホテルに引き上げた。

残った関係者は翌日からの広場の封鎖の解除、ピアノ運搬の手配、ホテルのキャ ンセルなどなどに奔走したが、中でもイタリア、コンタリーニ宮に向かっている 機材運搬車の帰りの日程を早めることは簡単ではなく、翌々日5日中に当地に着 ける日程が最短であった。
中1日完全に空いた私は盗難防止のため、ホテルの部屋に貴重な録音済みテープ を持ち帰り、翌日は湖畔のチャプリンの銅像を眺めながら今回の様々な出来事を 振り返り、録音の成功を一人祝って過ごした。

まるで古代ギリシア彫刻を思わせるような均整のとれた音楽作りを目指すゲル バーは「私はハンマークラヴィア・ソナタが完璧に演奏できたら死んでもいい」 と常々話しており、全集の完成に否定的だったが、この不安は的中し、DENONへの録音も95年の6枚目で中断してしまった。
しかしながら、彼の真摯な鍵盤の前の姿に接した者として、29番ハンマークラヴ ィアや30番、31番の名演奏は是非残してもらいたい、と切望する次第である。

(久)


アルバム 2005年10月19日発売

ゲルバー/ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集5
COCQ-84054 ¥1,500+税

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