[この一枚 No.43] 〜インバル/マーラー交響曲全集とアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ〜

この一枚

インバルのマーラー交響曲全集は個々のCDジャケット・デザインがどれも中央 にマーラーの横顔が置かれたシンプルなもので、レコード店頭や雑誌面上でも一 目でインバルのものと判る。
しかし、1点だけマーラーの顔が使われていないものがある。それは1907年に作 曲が開始された「大地の歌」。ジャケット表にはハンス・ベートゲの詩集「中国 の笛」1907年初版の表紙のイラスト「笛を奏でる中国人」が使われている。 この絵は1988年、「大地の歌」の録音直後にパリでアンリ=ルイ・ド・ラ・グラ ンジュに依頼し、彼から貸し出されたものである。
今回はインバル/マーラー交響曲全集を最初に高く評価したフランス人で世界的 なマーラー研究家ド・ラ・グランジュについて紹介する。

1924年にフランス上流階級の父とアメリカ人の母との間に生まれたド・ラ・グラ ンジュはフランスとアメリカで音楽を学び、音楽批評家としてニューヨーク・タ イムズやヘラルド・トリビューンなどに記事を投稿していた。彼が初めてマー ラーの音楽を聴いたのは1945年12月、ブルーノ・ワルターがニューヨーク・フィ ルハーモニックを指揮した交響曲第9番だった。ド・ラ・グランジュはこの音楽 の素晴らしさに驚かされたのと同時に、あまりにもこの作曲家を知らないことに 気付いて、それからマーラーの作品と人生について強い探求を始めた。
1952年には未亡人アルマ・マーラーを訪ね、娘のアンナとは親友となり、二人に マーラーについてのあらゆることを尋ねた。またヨーロッパや北米各地に出向き、 マーラーと同時代の作曲家に関する様々な資料を収集しはじめた。

この彼の熱意は10年以上を費やして書かれた3冊の3600ページに及ぶ「マーラー 伝」(フランス語版、英語版)に結実し、それまでに未亡人アルマによって描か れてきた「病弱で禁欲的で厳禁な」マーラー像を覆し、新たなマーラー像を打ち 立てた、と賞賛された。
この本は世界中で数々の賞を受賞し、「マーラー研究の第一級資料」と認められ ている。また「マーラーの眼鏡」や数々の自筆譜、手紙など、集めた貴重な資料 は当初パリ8区の自らが館長を務める「ビブリオテカ・グスタフ・マーラー」 (マーラー博物館とでも訳すのだろうか)に置かれていたが、その後、「メディ アテーク・ムジカーレ・マーラー」と呼ばれる音楽博物館に生まれ変わり、現在 は音楽家や研究者のみならず広く音楽愛好家に公開されている。

日本ではインバル/マーラー交響曲第1番《巨人》は1985年7月にLPとCDで発売さ れ、大々的な宣伝や営業施策を行ったにも係わらず、指揮者、オーケストラの知 名度の低さからか、批評でも、店頭でも苦戦していた。しかし、海の彼方で、こ れを「新たな解釈の優れた演奏」として真っ先に高く評価したのがド・ラ・グラ ンジュだった。彼はフランスの音楽誌「ディアパゾン」や「ル・モンド・ラ・ム ジーク」に推薦評を寄せ、さらにフランクフルトの演奏会・録音現場にも姿を現 した。
ド・ラ・グランジュは、まさに新しい優れた演奏を紹介するためには自ら先頭に 立つマーラー殉教者であった。こうして、真っ先にフランスでインバルのCDは売 れ始めた。しかしながら、続いて発売された第2番、第3番もフランス以外の日本 や他国では苦戦が続いていた。

86年秋、ヨーロッパで録音中のインバル担当ディレクターから1本の電話があっ た。「近々西日本の音楽大学と日本のマーラー協会の招聘でド・ラ・グランジュ が来日するらしい。音楽誌面で彼と評論家の対談はできないだろうか?」との依 頼だった。
「ド・ラ・グランジュ?誰その人」当時、社内では彼について知っている人間は 誰もいなかったが、藁をも掴む気持ちで雑誌編集者に記事提案を行い、またマー ラー協会に彼の都合を尋ねた。
数々の交渉の後、ド・ラ・グランジュと音楽評論家との対談がホテルで昼食を摂 りながら行われたが、30年間マーラーを研究し、その間、世界中の数々の演奏を 聴き、そして「マーラー伝」を書き上げたばかりのド・ラ・グランジュの話は多 彩で、強い説得力があった。
中でインバルの演奏の話になると彼は「マーラーが譜面に記載した美や多面性や 醜さまでも、全てを表現している」と述べ、評論家の同意を誘った。

数ヶ月後、対談が音楽誌に掲載されると、レコード業界関係者や音楽ファンのイ ンバルのマーラーに対する見方が「ただ録音の良いCDから演奏、録音共に良いC D」へと変わっていった。

話は前後するが、評論家との対談の後、日本マーラー協会例会でド・ラ・グラン ジュは講演を行った。私は先の対談に同席し、その話の素晴らしさからもっと聞 きたいと思い、マーラー協会に頼んで講演を聴講させていただいた。講演の中で 彼は晩年のマーラーを「彼は心臓の欠陥を抱えていたが、決して病弱では無く、 痔に悩んでいたものの、演奏会をキャンセルすることは殆ど無い丈夫な体であっ た。死への恐れはあったかもしれないが、生きることに積極的な人だった」と強 調した。

88年3月、フランクフルトで「大地の歌」の録音に立ち会った私はその足でパリ に向かった。パリではBMGフランス(当時DENON CDのディストリビューターだっ た)やオーディオ機器販売会社DENONフランスとの打合せとド・ラ・グランジュ との再会が待っていた。

ド・ラ・グランジュと会う目的は三つあった。第一は録音したばかりの「大地の 歌」のラフ・テープを渡すこと。次に「ビブリオテーク・グスタフ・マーラー」 を見学させていただくこと、最後に、ベートゲの詩集「中国の笛」の表紙絵を借 りてくることだった。
ビブリオテークの中はまるで貴族の館を思わせる佇まいで、通された食堂のテー ブル・セット、ラベルの無い自家製の黄金色の白ワイン、美味しい食事、全てが フランスの上流階級とはこのようなものかと驚くものばかりだった。 食事の後、彼の説明で膨大で貴重なコレクションを見て回ったが、そこには夥し いマーラーと同時代作曲家たちの自筆譜、手紙、絵、小道具の数々が整然と展示 され、彼のマーラーに対する情熱と強い意志による深い研究が漂っていた。

「大地の歌」のテープを渡した後、詩集の表紙絵を貸していただきたい、とお願 いしたところ、最初ド・ラ・グランジュはけげんな顔をした。まるで「何だっ て?」と言わんばかりに。改めて「Chinese Flute」の表紙絵を貸していただけ ないか?とおねがいしたところ、ニコッと笑って「Chinese Fluteね、Chinese Fruitsじゃないよね」と返事してくれた。エル(l)とアール(r)の発音の 区別ができなかった私は恥ずかしかった。

ド・ラ・グランジュから始まったインバル/マーラー交響曲全集への高い評価は 次第に世界中に拡がっていき、「新しいマーラー像を打ち立てた」という理由で フランス、ドイツ、オランダ、日本のレコード賞を次々に受賞し、それと共に世 界中へのCD輸出も伸びていった。改めて彼の慧眼に驚かされると同時に、日本で のインバル/マーラーの音楽評を変えたことに深く感謝している。

もし、あの時ド・ラ・グランジュが「中国の果実」のイラストを送ってくれたら どうなっていただろう。
「大地の歌」のCD表紙にライチの絵が描かれ、あやうく「大地の恵みの歌」にな るところだった。
あぶないあぶない。

(久)


アルバム 2002年6月21日発売

インバル/マーラー:大地の歌

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アルバム 2010年5月19日発売

インバル/マーラー交響曲全集
COCQ-84805-19 ¥9,000+税

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