音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.28

クラシックメールマガジン 2015年9月付

~突破力のピアニスト ~反田恭平「リスト」~

反田恭平というピアニストの最大の魅力は何かと問われたら、私はその「突破力」にあると答えます。
「突破力」とは、困難を乗り越えて目的を達する力のことですが、サッカーの世界でもよく使われます。巧妙なドリブルやパスで敵の守備をくぐり抜けシュートする能力、というような意味でしょうか。私は、反田というピアニストには、例えばスーパースターと称されるエースストライカーだけが持っている強烈な「突破力」があると思うのです。
それは、彼が子供の頃、サッカー少年だったという情報から生まれてきた連想ではありません。彼のコロムビアからのデビュー盤「リスト」を最初に聴いた時、強烈な印象が残った箇所ゆえのものです。
具体的に言うと、アルバム1曲目「ラ・カンパネラ」のコーダです。その直前の3小節(4分55秒あたりから)で、右手がオクターヴ奏法で半音ずつ上昇、左手が同じくオクターヴで下降しながら猛烈にクレッシェンドし、激しい打鍵がひたすら続く圧倒的なコーダをもって曲が閉じられるのですが、その部分の異様とも言える凄みをもった演奏に、私は完全に射抜かれてしまったのです。
いったい何が起きたのだろうかと思いました。
そこに到達するまでの演奏も十分に卓越したものでした。御存知の通り、「ラ・カンパネラ」は、パガニーニの書いた美しい旋律を編曲した曲で、2オクターヴにも及ぶ広い音域を高速で跳躍したり、軽やかに同音を連打したり、それ単独でも難しい技を駆使して聴かせるという名人芸が必要とされます。
反田は、ホロヴィッツが愛奏したニューヨーク・スタインウェイのヴィンテージものとして名高いCD75の独特の音色とタッチを自在に操り、羽毛のように繊細な弱音から、厚みと重量感のある力強い轟音まで縦横無尽に引き出し、振れ幅の大きい音楽をそのまま振れ幅大きく演奏しています。そのニュアンス豊かで彫りの深い演奏は、それだけでも十分に凄いものであり、タカギクラヴィアの高木裕社長や、コロムビアの制作スタッフの方々という百戦錬磨のプロが惚れ込んだだけあって、素晴らしい逸材が登場したなと感服しつつ聴いていました。
しかし、3小節の猛烈なクレッシェンド以降のコーダでは、音楽の様相はがらりと豹変します。
反田は、CD75という名器全体が軋みを上げ、ほとんど音色がなくなってしまう寸前まで鍵盤を深く鋭く押し込み、しかも、これ以上早くしたら音が出なくなってしまうギリギリのテンポで一気呵成に駆け抜けます。ピアノを性能限界寸前にまで追い込んで鳴らし、彼自身のテンションも崩壊寸前にまで高め、尋常ならざる狂気の世界を表出しているのです。何度も聴いてよく知っていると思っていた曲ですが、実はこんなにも激しいパッションを秘めた曲だったのかと腰を抜かしてしまいました。
そして、技術的、精神的な難所を易々と乗り越え、自分の音楽の生命を燃やし切る反田の演奏からは、並み居る敵のディフェンスを突破し、凄まじい勢いで電光石火の如くゴール前を駆け抜けて強烈なシュートを放つサッカーの名選手の姿を思い浮かべずにはいられなかった。それが、反田恭平の魅力が「突破力」にあると感じた理由です。
彼がその突破力を発揮して到達した先の音楽は、言葉にはなかなかしづらいのですが、ある「一線」を超えてしまったというのか、人間の脳の、言語化されない未分化な部分に直接訴えかけてくるようなものだと感じました。そう、このたった数十秒の音楽は、聴き手である私の意識の殻を突破し、未知の領域へと導いてくれる力に満ちたものだったのです。
私はその凄まじい音楽に度胆を抜かれてしまい、曲が終わってしばらくの間は、プレーヤーを一時停止して深呼吸せずにはいられませんでした。興奮したというのとは違う。茫然自失というのとも違う。まったく新しい道の場所に導かれ、ああ、私の中にはこんな風景があったのかと目を凝らし、耳を澄まさずにいられないような、覚醒の度合いが増したかのような不思議な体験。
あまりにも印象的な音楽だったので、「ラ・カンパネラ」の楽譜を引っ張り出してきて、見直してみました。そこで私は意外な発見をしました。この曲の中で最大の強弱指示として「フォルティッシモ」の文字が最初にようやく現れるのは、コーダなのです。あくまでも最大のクライマックスはコーダにあって、そこに至るまでは助走に過ぎないのだから、まだ全力を出し切ってはいけない。ならば、さほど大きな音量を求められていなかった部分からコーダのフォルティッシモに達するためには効果的なクレッシェンドをしなければなりません。しかもたった3小節で。
反田は、ここぞとばかりに持ち前の突破力を発揮し、鬼気迫る勢いでクレッシェンドをかけてコーダへと突入します。そして、曲の結びまで、情け容赦ないフォルティッシモを保ち、一瞬たりともテンションを弛めるむことなく強靭な精神力で見事に弾き切り、魂が叫んでいるとしか表現しようのない絶大なクライマックスを築き上げる。
しかし、その効果抜群のドラマティックな演奏は、決して彼独自の解釈による演出などではなく、シンプルに作曲家の意図を正しく音に反映したものに過ぎません。クレッシェンドの部分には"molto crescendo(最大限にクレッシェンドして)いうと指示がありますし、コーダには、"animato(生き生きと)"という指示があるのです。つまり、彼のクレッシェンドの尋常ならざる"molto"ぶり、コーダの信じがたいほどのアグレッシヴな演奏は、すべて作曲者の意図に沿ったものなのです。
彼は、自由に振る舞っているように見せて、ちゃんと作曲家の楽譜への敬意は示している訳で、その楽譜の読みの深さに驚きます。しかも、彼はそれをものの見事に、誰よりもうまくやってのけているのですから、私の感嘆はさらに大きくなります。
このように、ピアノという楽器、自分という音楽家が持つ限界を突破し、さらに先の世界へ到達しようと難しい課題に果敢に立ち向かう彼のありようは、「ラ・カンパネラ」に限らず、このディスクに収められたすべての曲で強く実感することができます。
例えば、トラック5の「タランテラ」。「ナポリの歌」というタイトルのつけられた部分の末尾(8分8~35秒にかけて)、凄まじいテンポアップをしてプレスッティシモへと雪崩れ込んだ後、気が触れたかというくらいの躁状態に遷移する音楽。あるいは、超絶技巧練習曲から2曲で連発されるマッシヴなオクターヴ奏法。スペイン狂詩曲で、フォリアとホタ・アラゴネーザというスペインの民謡風の主題が交錯して新しい局面へと推移する際の余りにも鮮やかな音楽。ボーナス・トラックの「カルメン変奏曲」で、ジプシーの歌が変容しながら目の据わった狂気へと突入していくさま。
これらの場面で、反田は楽器の性能の限界に挑みかかるような激しい表現をぶつけます。しかし、迎え撃つCD75はびくともせず、彼の凄まじい表現意欲に応え、反田と一体となって、これまで見たこともないような異次元の音空間への「突破」を実現します。息をするのも忘れてしまうような音楽の展開に、ただ圧倒されるばかりです。
一方、「愛の夢」「コンソレーション(慰め)第3番」という静かな曲でも、彼の異次元の音空間への「突破力」は、前述の曲とはまったく違う形で味わうことができます。
反田は、前者を5分44秒、後者を6分1秒と、どちらも音盤史上最長の部類に入るであろうような長い時間をかけて演奏していますが、そのこと自体を指して異次元と言っているのではありません。聴いていても、遅いという感覚を持つことがまったくないからです。
例えば、「コンソレーション」。この曲の余りにも切なくて甘美な旋律を、反田は、微妙で変幻自在のルバートを駆使して、たゆたうように奏でています。特に、フレーズの切れ目で、音量を落として大きく間合いをとるところがとても印象的です。
私は、いつもこんな感覚を持ちながらこの演奏を聴きます。
まるでエアポケットのように現れる間合いによって歌は断ち切られる。心の内側から溢れ出てくる歌は前へと進もうとするけれど、傷ついた心はもうこれ以上痛みに耐えられないと、時計の針を過去の幸福な思い出へと戻そうとする。儚げな歌はそれでも溢れ続け、時計の針は仕方なく小節をまたいで前に進む。そんな葛藤が続けられていくうちに、心の痛みはより深くへと沈潜していく。痛みが深くなるにつれ、時計の針が止まる瞬間は「時よ止まれ、お前は美しい」というゲーテのファウストのセリフを思い起こさずにはいられないような愛おしいものへと変容していく。前向きと後ろ向きのベクトルの葛藤に従って、時間が伸縮しながら進行していく不思議な浮遊感の中で漂っているうち、心の傷は徐々に癒され、大きなカタルシスに包まれる・・・。
実際に作曲家や演奏家がそんなイメージを抱いてこの曲を書いたり演奏したりしている訳ではないでしょうけれども、その余りにも甘美で、しかも生きることの根源的な痛みや哀しみをも表現してしまったような切実な歌こそ、反田恭平によって誘われた異次元の音空間なのです。これがまだ録音当時20歳の若者の手によってなされたということが何度聴いてもいまだに信じられません。彼はこれまで一体どんな人生経験を積んできたというのでしょうか?
しかし、このアルバムの中で、彼の「突破力」が最も雄弁に発揮された曲は、トラック8の「水の上を歩くパオラの聖フランチェスコ」ではないでしょうか。
この曲は、タイトルの通り、聖人フランチェスコが波の上を歩いたという伝説を題材にしたもの。聖人の威厳を表したような聖歌風のメロディが提示されて繰り返されていくうち、左手の低音部には波を表現したような半音階のスケールが現れます。だんだん波は高くなり、水しぶきが上がり、風が吹いてうねりが生まれ、聖人らの行く手を阻む。しかし、聖人はまったく動じることなく厳かな聖歌を歌いながら悠然と水の上を歩き、最後には、輝かしい栄光と永遠の幸福に満ちた大団円へと歩を進める。困難を排して波の上を歩くという「突破」のみならず、威厳と寛容をもってすべてを赦すという理念的なの「突破」の両方を、ただ音の動きだけで余すところなく表現し尽した演奏には、もうただただ聴き入るしかありません。
それにしても、反田の類まれな「突破力」はどのようにして彼の中に生まれたのでしょうか。誰かに教えられたのか、自分で体得したのか。それは、私には分かりません。
ただ、その力の源泉となっているものが何なのかは分かる気がします。それは、彼の音楽への強い「好奇心」なのではないでしょうか。
タワーレコードのレビューサイトに掲載されたインタビュー記事で、反田は「メロディの中にある半音」が大好きだと言っていますが、それを受けて、音楽評論家の片桐卓也氏は、彼のことを「半音階マニア」と評しています。そう、彼は半音階だけでなく、楽譜に書かれた音の並びに対して非常に強い好奇心を持っているのではないでしょうか。
楽譜を見ながら彼の演奏を聴いていると、反田の「音型マニア」ぶりは痛いほどに分かります。ただ機械的に楽譜の音をなぞるのではなく、フレーズなりモチーフなりの音の連なりの中に、生命を持ち、自在に動き回る歌、言葉、リアルな風景を見出し、楽譜には書かれていない強弱、抑揚、間合いの変化を織り交ぜ、それをピアノの音として漏れなく描き出しています。
ですから、彼の演奏を聴いていると、ただの無味乾燥な音符の羅列でしかない地図としての楽譜が、その中を自在に動き回れるようなストリートビューのような生き生きとした空間へと変わっていくかのようです。最近、あの真っ黒なリストの楽譜を読んでいるとワクワクと楽しくて仕方なくなってしまいました(全然弾けないのですが)。
反田恭平にとって、曲のあちこちにフレーズやモチーフの持つ音の連なりが形作る面白い「かたち」を見つけること、その「かたち」に一番合った音や表現、キャラクターはどんなものかをイメージすること、それを実際の音として表現すること、それらの一連の作業は、もう楽しくて仕方がないものなんじゃないでしょうか。彼の演奏から、音の「かたち」への強い好奇心と、その好奇心が満たされた時に彼の内面で湧き起こったであろう「音楽する喜び」が、聴き手である私にもありありと伝わってくるからです。
さしずめ、反田は、NHKの人気番組「ブラタモリ」で、その土地の高低差や暗渠、河岸段丘などを見つけて狂喜し、その街の歴史をさらに深堀りして楽しむタモリや街の専門家と同じような視点で楽譜を読んでいるというところなのかもしれません。
考えてみると、フランツ・リストという作曲家も、音楽への強い「好奇心」から出発して、「ここではないどこか」という未知の領域への「突破」を生涯にわたって繰り返した人でした。
若い頃は稀代のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして、当時は進化の途中だったピアノという鍵盤楽器の可能性を押し広げるような斬新な作品を書いて演奏し、その次は、交響詩という新しいジャンルのオーケストラ作品を作ることに没頭し、晩年はほとんど調性を超越した革新的なピアノの小品を書いた。それらはすべて、彼自身の新しいものへの好奇心と、困難に立ち向かって理想へと突き進む突破力ゆえに可能になった業績であるはずです。
反田は、リストの音楽の中に、自分と同じような音楽への好奇心、未知の領域への憧れのようなものを見出したに違いありません。前述のインタビューで「リストの楽譜を見た時に、パッと、この音を出せばいいんだと分かる。僕にとっては、それがリストの印象です」と言っているのも、リストの音楽をあたかも自分が書いた音楽であるかのように身近に感じ、心から共感しているからなのではないかと私は推察します。
こんな風に、自分の内側から湧き起こる純粋無垢な喜びを原動力にした彼の演奏は、外面がたとえ個性的なものであったとしても、演奏者のエゴだとか、自己顕示といったものとは無縁です。難しいパッセージを「より早くより大きく」弾き聴き手を力でねじ伏せて征服しよう、というようなマッチョイズムが入り込む余地もありません。そこで響いているのは、作曲者や演奏家という属性をすっぽり呑み込んだ「音楽」そのもの。どんな聴き手も、その音空間には自由に入り込むことができます。だから、反田恭平の演奏は、クラシック音楽に馴染みのない人から、じっくり聴きこんできたマニアに至るまで、多くの幅広い聴き手の好奇心を誘発し、魅了するに違いありません。
現在と未来のクラシック音楽のありようを考えれば、彼のように多くの新しいファン層を引き寄せる可能性を秘めた若い音楽家の出現は、コロムビアに限らず、音楽界すべてが待ち望んでいたものに違いありません。でも、だからこそ、業界の方々には、反田恭平という音楽家が長い音楽家人生にわたって、のびのびと活動できるように大切に育ててあげてほしいと一介のファンである私は切実に思います。
私は、反田恭平が「リスト」のアルバムで見せてくれた、限界を突破した先にある美しい世界を心から愛します。これからの人生の糧となるような、ここでしか得られない特別な「居場所」」が、そこにあるからです。かけがえのない音楽を届けてくれた反田恭平、日本コロムビア、そしてタカギクラヴィアに心から感謝します。そして、反田恭平の今後の輝かしい活躍を心から願っています。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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