音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.36

クラシックメールマガジン 2016年7月付

~アファナシエフの技法 ~ モーツァルト/ピアノ協奏曲第9、27番 アファナシエフ(P)円光寺雅彦指揮読売日響~

尺八音楽の世界には「一音成仏」という言葉があります。「たった一つの音でも、徹すれば仏に通じる」という意味ですが、作曲家の武満徹は「ひとつの音の中に宇宙の様相を見きわめるというような音の在り方」と捉え、仏教とはあまり関係なく、日本人の音に対する感受性を表現していると書いています。
例えば、ヴァレリー・アファナシエフのピアノ演奏から、そんなふうに森羅万象すべてを包含してしまうような「一音成仏」の音が聴こえるなどと言うと笑われてしまうでしょうか。しかも、昨年コロムビアから発売された、彼の弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第9、27番のディスクで。
アルバム冒頭の第9番第1楽章、短いオーケストラの前奏に続いて登場するところから、彼のピアノの音は、終始、鍵盤を深く押さえた重いタッチで奏でられた克明なものです。それは決して聴き手を拒むような近寄り難い音ではないのですが、それぞれの音には、ありきたりの形容詞を寄せ付けない複雑な色合いや味わいがあります。
音に宿った生命の痕跡を空間に刻み込もうとする、強い意志に貫かれた「たった一つの音」たちに聴き入っていると、そこには、言葉では語り得ぬほどに豊かで深いものが込められているように思えて、やがて、その背後には世界の全体が、そして宇宙が見えるような気がしてきます。
しかし、ただ音が一つ鳴り響いただけでは、音楽にはなりません。演奏家は、一つ一つ完結した音たちを次々に空間に解き放ち、同時に、連続して鳴り響く音たちを相互に関連付けて調和や対立を生みながら、時の流れとともに音楽を生成していく必要があります。
音階がめまぐるしく鍵盤を駆け巡り、転調を繰り返しながら快活におしゃべりを続ける愉悦感に満ちたモーツァルトの音楽であればなおのこと、一つ一つの音にすべてを込めようとする余り、流れが澱み、時間が停滞してしまったのでは音楽のかたちは壊れてしまう。
その点、アファナシエフの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏は、そんな危惧とはままったく無縁です。そこから聴こえてくるのは、垂直方向に屹立する音の響きを極めつつ、同時に水平方向に饒舌に語り歌い進行していくという相反する音のあり方をも包含してしまうような独特の「一音成仏」の響きであり、まるでマジックのような音楽なのです。
一体どうすればそんなことが可能なのだろうかと不思議に思いますが、冒頭で言葉を借りた武満徹の著書から、彼が邦楽について述べた言葉を引用して考えてみます。
一撥、一吹きの一音は論理を搬ぶ役割をなすためには、あまりに複雑であり、それ自体すでに完結している。一音として完結し得るその音響の複雑性が、間という定量化できない力学的に緊張した無音の形而上学的持続をうみだしている
-武満徹「一つの音」~ 武満徹エッセイ選 小沼純一編(ちくま学芸文庫)-
完結した音は、その複雑性ゆえに後続する音に対する斥力として無音の「間」を生み出す。緊張を孕んだ無音の連続には、哲学的な意味が隠されている。そして、その「間」は、隣接する音と音との関連性によって自在に伸縮し、完結した音たちを素材とする音楽のかたちの予感となって、聴き手の心に影響を及ぼす。その水平方向への予感は、現実に鳴らされる次の一音の垂直方向の響きと直接触れ、時に共鳴し、時に衝突し、うねりを発生させながら音楽の脈動を生み出し完結へと至り、静寂に満たされた永遠の「間」へと還っていく。
そんなふうに、邦楽に固有の「一音成仏」という哲学とも、音と音とのつながりが音楽を構築するという西洋音楽の流儀とも矛盾しないまま音楽を美しく演奏するための「技法」を、彼はついに手に入れたのかもしれません。武満の言う「音は厳然として自立し、しかも他と一体であるというような響き」を生み出すための秘技を。
その彼の技の美しさ、凄さを最も強く体感することができるのは、第27番の第2楽章でしょうか。切り詰めた簡素な音の成り立ちの中で、ぽつねんと孤絶した響きが解き放たれ、その余韻が次の音と交錯し、波紋のように空間に広がりながら景色を時々刻々と変化させていく、そのさまの何と美しいことでしょうか。
痛切な短調の響きをもつ第9番の第2楽章も忘れ難い。哀しみは疾走したりなんかしない、ただゆっくりと漂って空間を満たし、聴き手の心にしみじみと浸潤していく。個々の哀しみは孤独の中にあるけれど、音楽によって共有された時空間の中で互いに寄り添うことはできる。そんなあたたかさをもった音楽の佇まいに、聴くたびに深い感銘を受けます。
一方、快活な曲想で埋め尽くされた両曲の両端楽章は、その「一音」の重みゆえにゴツゴツした手触りの音楽になっています。時折、ぶっきらぼうなアーティキュレーションを見せたり、恐らく意図的に単調な音を羅列したり、あるいは、カデンツァでは完全に時間の流れを寸断したりして、聴き手の足場を揺さぶるような仕掛けも忘れてはいない。第3楽章の終盤に挿入されたメヌエットの後ろ髪引かれるようなゆったりとした音楽では、彼は時間の進行を逆行させたような後ろ向きのまなざしを見せ私たちを驚かせる。そんな風に、モーツァルトの音楽にある「ゆらぎ」を彼にしかできないやり方で見事に表現しながら、音楽は、垂直に楔を打ちながら水平に転がっていく。
彼は、尺八奏者が当然身に着けるべき技法を、一体どうやって体得したのでしょうか。日本文化に造詣の深いアファナシエフが、日本の伝統音楽の真髄ともいうべき言葉を知って実践したのでしょうか。私はそうではなくて、彼が恩師ギレリスからの教えを演奏の中で生かしてきた結果、ようやく辿り着いた地点に「一音成仏」と同質のものがあったということなのだろうと思います。
彼は最近のインタビューでこんなことを言っています。
私は演奏する時、世界に耳を澄ます。
ベートーヴェンを演奏する時は、彼の音楽だけでなく世界を聴く。
聴くことは大切なことだ。音楽は眺めるべきものじゃない。
優秀な演奏家でさえそのことを忘れがちだ。
ギレリスは聴くという行為を教えてくれた。演奏中だけでなくその前後にもだ。
まず静寂を聴いて演奏を始める。演奏後の静寂に耳を澄ます。
そうすればあらゆるものを聴くことの大切さが分かる。
-ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ集 付録DVD(ソニークラシカル)-
「世界に耳を澄ます」という言葉は、冒頭で引いた「ひとつの音の中に宇宙の様相を見きわめる」という武満の言葉と激しく共鳴してはいないでしょうか。
武満はまた、邦楽器奏者の役割をこんな風に書いています。
演奏家の役割は音を弾くだけではなく聴くことでもある。演奏家は、つねに間(空間)に音を聴きだそうとする。聴くことは発音することに劣らない現実的な行為であり、ついにこの二つのことは見分けられなくなる。
-武満徹「十一月の階梯-<<November Steps>>に関するノオト」~ (前掲書所収)-
音楽において、「弾く」ことと「聴く=耳を澄ます」ことは一体であるという考え方は、洋の東西、ジャンルを問わず、すべての音楽に共通する真理のようなものかもしれないと思います。だから、アファナシエフが、尺八奏者と同じ理念に辿り着いたとしても、それは偶然などではなく必然なのかもしれません。
であるならば、聴き手の側からすると、音楽を聴くということは、音楽の中に提示された世界に耳を澄ますということなのだろうかという気がします。立ち現れる音を耳を澄ましてきちんと聴かねば、音楽は完結しないのではないかと。
ただ集中して聴くというのではなく、世界に耳を澄まして音楽を聴くというのは、とても難しいことです。少なくとも私にはできる自信がまったくない。自分の心の修練が足りない素養がないという以上に、「一音成仏」というように、たった一つの音から世界を感じるような環境、すなわち真の静寂が身の回りに、ない。
私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちの周囲にはいつも音が溢れています。耳を澄ます前に、まず耳栓や防音装置が欲しい。でも、それでは耳を澄ますことにはならない。自然や宇宙から疎外されてしまうから。
耳を澄ますことの難しさとは、実のところ、静寂に身を置いて自分と正面から向き合うことの難しさ、なのかもしれません。自己にじっくりと向き合い、より深く自分を知るのは怖いことです。傷ついてしまうことが往々にしてあるからです。音楽を聴いて自分と向き合っているつもりでいても、実のところは、空白を埋めるかのように周囲を必死で音で満たし、自分から目を逸らしているだけなのかもしれません。 ですが、それでもアファナシエフの「一音成仏」の響きを聴いていると、音の中に現れる世界の中にたしかに自分の存在を見出し、ここには自分の居場所があるのだと感じることができます。そして、自分の存在が許された世界の中に身を置くことで、私はたしかに音楽の内部を生き、世界を体験したのだという実感を得て、大きなものに包み込まれるような幸福感を味わう。このような音楽を通してならば、世界に耳を澄まして聴くということが私にもできるような気がしてくる。
私の単なる勘違いなのかもしれません。でも、その喜びに満ちた体験は、私が生きていく上で欠かせない糧となることと信じて、このモーツァルトのピアノ協奏曲をこれからも愛聴していくのだろうと思います。聴けて良かったと心の底から思える、素晴らしい音盤です。
付け足しのようになってしまいますが、円光寺指揮読売日響の演奏も、アファナシエフの音楽をデリカシーに満ちた響きで包み込みながら、ユニークな音楽の宇宙を一体となって作り上げているのが素晴らしい。ピリオド奏法とはまったく別の、そして伝統的な方法論に依ってもなお、こんなにモーツァルトの音楽の素晴らしさを見事に引き出すことができるのだという美しい例がここにあると思います。
また、アファナシエフのピアノの独特の響きを、近接したマイクで克明に記録しながら、サントリーホールの残響を適度に取り込み、美しいパースペクティヴを感じさせてくれる録音も、本当に目覚ましく優秀なものなのではないでしょうか。
可能であるなら、是非、続編が制作されることを心の底から願ってやみません。
それにしても、アファナシエフの音楽とは、どうしてこんなに聴いた後でいろいろなことを語りたくなるのでしょうか。聴き手を饒舌にする彼の「技法」とは何か、それもちょっと考えてみたい気がします。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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