音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.41

クラシックメールマガジン 2016年12月付

~How Does It Feel? -ベートーヴェン/交響曲第9番 ~ バッティストーニ指揮東京フィル~

ベートーヴェンの「第9」を聴くたびに思うことがあります。
一体、何回聴けば、何度演奏すれば、何冊の本を読めば、私は「第9」を理解できるのだろうか、この音楽が私を子供の頃からずっと魅了し続ける源はどこにあるのか、そして、結局のところ、「第9」とは私にとって何なのだろうか、と。
きっと答えはあるのだろうけれど、簡単には見つかりません。答え探しに疲れ果て、途方に暮れていると、どこからかこんな言葉が聞こえてきます。
The Answer, my friend, is blowin' in the wind. (友よ、答えは風に吹かれている)
ボブ・ディラン「Blowin' In The Wind 風に吹かれて」
そう、答えは風に吹かれている。どこにも書かれていないし、誰も教えてはくれない。自分で見つけねばならない。でも、歳を重ねるごと、聴体験を増すごとに、答えは遠ざかっているような気がする。理解できていなくても、聴いて楽しめていれば十分かと半ば諦めの境地へと達する。そんなことの繰り返し。
では、先日発売された、バッティストーニ指揮東京フィルが演奏する「第9」のディスクを聴いて、私は、自らの問いに対する「答え」を見つけられたでしょうか?
2015年12月にオーチャードホールでライヴ録音された、彼らの新しい「第9」は、第1楽章冒頭から最後まで、あっと驚くような超快速テンポで一気呵成に駆け抜ける演奏です。そのテンポは、バッティストーニ自身がライナーノートに寄せた長文のコメントで書いているとおり、ベートーヴェン自身の指示に近いもので、結果、トータルの演奏時間58分25秒という、音盤史上最短の部類に入る「第9」となりました。
また、概して、最新の文献研究の結果を反映したクリティカル・エディションの楽譜に準拠し、作曲時に、ベートーヴェンが思い描いたであろう音楽の像を、現実のかたちとしてはっきりと結ぶことに注力した、いわゆる「スコアに忠実な」演奏でもあります。
それ自体は、バッティストーニが初めてやったことではありません。今やベーレンライター版準拠の演奏はごく普通のことになり、かつて新鮮だった「従来版との差異」もすっかり耳に馴染んでしまいました。それに、古楽系の指揮者たちが聴かせてくれた数々の先駆的な演奏や、近年、例えばシャイー、P.ヤルヴィ、ロトらが聴かせてくれた刺激的な演奏によって、初演時の衝撃を再現したような新しい「第9」像は何度もアップデートされてきました。それらを聴いてでさえ、とうとう見つけられずにきた私の問いへの答えは、バッティストーニらの新盤を聴いて見つけられたでしょうか?
正直なところ、やはり、私の問いへの「答え」はいまだ見つかっていません。でも、バッティストーニと東京フィルによる「第9」は、それでも、私にとっては、久しぶりに、大きな「ショック」を与えてくれる演奏でした。
尋常ならざる強靭な集中力をもって、音楽の核心へとまっすぐに斬り込む激しい表現。叩きつけるように痛烈に刻み込まれるビート。時折、強い揺さぶりを見せながらスリリングに展開していく鮮やかなドラマ。それらの仮借のなさは、ただ一つ、1939年にトスカニーニがNBC響を指揮した有名なライヴ盤以外に思い出せないほどに激烈。そんな演奏を聴いて、私が強く感じ取ったのは、前述の指揮者自身のコメントにもある通り、ベートーヴェンの交響曲第9番が本質的に孕んでいる「常軌を逸した狂気」です。
冒頭の空五度の虚無の響きの中から生まれた短いモチーフが、新たな音楽を次から次へと導き出す。それらは、調和しながら絡み合い、成長し、時に反発して軋みを上げ、激しい相互反応を起こしながら、3つの小宇宙のような楽章を形作る。そして、最後のフィナーレに至って、声楽をも動員し、すべてを肯定へと導く宇宙へと膨れあがっていく。
私たちがよく知っていると思っていた「第9」とは、実は、こんなふうに、ほとんど狂気の沙汰としか言いようのない、気宇壮大なプロセスによって生成される音楽なのだということを、この演奏から教えられ、初めて痛切に実感できたたような気がします。
しかも、バッティストーニは、ロマン派以降、伝統の名のもとに背後に押しやられてしまった、音楽が本来もつ簡潔さ、野蛮さ、切迫感を蘇らせることで、音楽の狂気を余すことなく表現しています。そのおかげで、特に20世紀以降、作曲家の意志に反して、この曲に付与されてしまった歪んだヒロイズムや、集団ヒステリー的な熱狂に絡めとられることなく、私たちは、ただベートーヴェンの音楽が、音楽としてしか語り得ないものに、静かに耳を傾けることができます。
しかし、バッティストーニの演奏に激しく胸を打たれて聴きながら、またしても私の中で新しい「問い」が湧き上がってきます。
ベートーヴェンは、どうして狂気に満ちた音楽を書いたのか?常軌を逸した狂気の中から、なぜ、あの「歓喜の歌」が、私が小学二年生の頃にクラシック音楽に興味を持つきっかけを与えてくれた、シンプル極まりない旋律が生まれたのか?どうして私は、ベートーヴェンの音楽の狂気に感動し、何度も何度も「第9」を聴かずにいられないのか?
ああ、分からない。やっぱり私はベートーヴェンの「第9」を、何にも理解できていない。私が、まだ自身に問うたことのない問いは数えきれないほどある。あれほど愛していて、いつも私のそばにあって、身近に感じている音楽が、実は、はるか星の彼方遠く、決して私の手の届かないところにあるものなのだと思い知る。
激しく心を揺さぶられながら、そして、迷いを深めながら、バッティストーニの「第9」を聴いていると、こんな言葉がどこからか聞こえてきます。
How Does It Feel? (どんな感じがする?)
ボブ・ディラン「Like A Roling Stone ライク・ア・ローリング・ストーン」
「第9」とは私にとって何か?という問いへの「答え」は、風に吹かれているというよりもむしろ、私自身が何を感じているのか、そこの中にしかない、まっすぐに見つめよ、と、バッティストーニから、そして、ベートーヴェンから言われているような気がしてくる。
ベートーヴェンの第9、いや、彼が遺した音楽のすべては、私にいつもそんな「問い」を投げかけてくるのであって、私はそこにこそ尽きせぬ魅力を感じているのではないかと思います。他人の評価とか、世間の評判とか、そんなものはとりあえず横に置いておいて、私自身は、この音楽に何を感じ、自分の中でどんな変化が起きているのか。それを厳しく問うことからしか、思考は始まらない。
そもそも、ベートーヴェンという作曲家は、聴き手に向けて、まさにその”How Does It Feel?”という問いを発し続けた人だったのかもしれない。 ベートーヴェンの生きていた時代、フランス革命以降、社会は急速に民主化し、音楽も王侯貴族や教会のものから、市民のものになった。身分の高かった人も、そうでなかった人も、転がる石ころみたいに、名もなく、帰るところもない、ただ一人の人間として生きていかねばならない。そう認識した上で、この音楽を聴いて、あなたは何を感じる?どんな気分だ?共感するのか?反発するのか?それはどこから生まれたもの?この音楽はあなたにとって何か?200年ほど前に、ベートーヴェンから大衆に向けて発せられた問いは、21世紀の私たちにとってもまだアクティブなものであり続ける。
「第9」とは、広く大衆に向けて作られた交響曲でありながら、同時に、一人の作り手から、一人一人の受け手に向けて発せられた個人的なメッセージでもある。聴き手それぞれが自らに厳しく問いかけるべき問いを、包み隠さず、むき出しのまま投げかける音楽である。一人一人が、そうした問いについて答えを探すのは、とても孤独な作業だけれど、それなしでは、世界はひとつになる、人類は兄弟というシラーの思想は成り立たない。だから、この音楽が聴き継がれるうちは、いつまでも、”How Does It Feel?”という問いを発し、人々に覚醒を呼びかけ続ける。 バッティストーニ自身も、そんな問いを自らに課しながら、「第9」に対峙したのだろうと思います。だからこそ、彼自身がスコアから見出したという狂気や、音楽のもつ野蛮さ、狂気、切迫感といったものが、演奏者自身の実感のこもったものとして、ナマナマしい切実さをもって立ち現れていると思うからです。そして、彼が投げかけてくる問いの内容や重さに驚いた。そんなふうにまっすぐに問いかけてくる演奏を聴いたのは、初めてだったからですが、私はそれをとても好ましいものとして、深い共感を覚えながら聴きました。
バッティストーニの「第9」には、たくさんの聴きどころがあります。
例えば、第1楽章の風雲急を告げるようなドラマティックな表現。第2楽章の切れ味鋭いリズムの横溢。第4楽章のオペラ指揮者としての才能がはっきり刻印された鮮やかな声の饗宴。いずれもふるいつきたくなるほど魅力的ですが、私は、第3楽章の、古楽奏法によりかからない「スコアに忠実な」演奏に、とても惹かれます。
昨年、この音盤が収録された演奏会の2日前の公演を聴いたときには気がつかなかったのですが、音盤でじっくり聴いてみると、バッティストーニは、特に弦楽器に対して、デュナーミク(強弱)に細心の注意を払い「楽譜通り」に弾くように要求していることがよく分かります。
つまり、クレッシェンドや、アクセントが書かれていない音には強弱をつけず、ヴィブラートも控えめにし、表情づけもごく簡素なものにとどめているのです。そんなことは、どんな演奏でもごく普通にやっていますが、バッティストーニの演奏には、そうした場面では、禁欲的なまでに何もしない。それにより、ベートーヴェンが書いたさまざまな指示が、はっきりと浮かび上がってくる。
ストイックなまでに謙虚な態度とは裏腹に、産まれてくる音楽は、何としなやかで清らかな歌に満ちていることでしょうか。「かつてほかに存在しえなかったほどに最も重要な作曲家に向けた愛の表現」というバッティストーニの言葉の意味を重く感じますし、その結果生まれてきた音楽の愛情の深さに打たれずにはいられません。
続く第4楽章も忘れ難い。冒頭の低弦のレシタティーヴォの強烈なテンポの伸縮に驚きます。まるで言葉を喋っているかのような自在さは、これまで聴いたことがありません。また、「幾百万の人々よ、抱き合え」の部分での切実な呼びかけ、続く二重フーガでのヘンデルを思わせる壮麗でスケールの大きな賛歌の輝かしさは特筆すべきものです。そして、コーダでの、狂気をもって駆け抜ける演奏を閉じるに相応しい、すべてを解放した熱狂。
声楽陣も充実した演奏で、特に東京オペラシンガーズの輝かしい合唱は強く印象に残りますし、これからバッティストーニと長く共同作業をしていく決意をした東京フィルも、バッティストーニの指揮に食らいつき、迫真の演奏を聴かせてくれていて素晴らしい。またいつものことながら、鮮明で臨場感豊かな録音も魅力的です。
バッティストーニと東京フィルの2015年の「第9」は、これまで聴いてきた数多くの演奏の中にあっても、独特の存在感と価値を持つ演奏だと思います。勿論、10年後のバッティストーニは、きっとこれとはまた違う「第9」を聴かせてくれることでしょう。でも、この音盤は、28歳の若き天才指揮者にしかなし得なかった輝かしい演奏の記録として、そして、私が「第9」について新しい視点を持つきっかけになったかけがえのない音盤として、これからも大切に聴いていきたいと思います。
そして、「第9」を聴くときには、常に「どんな感じ?」と自らに問いかけ、風に吹かれた答えを探しながら、「第9」という音楽が投げかけてくる問いを存分に楽しみたいと思います。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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