音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.48

クラシックメールマガジン 2017年7月付

~公園のような音楽 ~「マチネの終わりに」福田進一(g)~

私は、昼休みになると、気分転換のために職場の付近を散歩します。考え事をしながらブラブラ歩き回ったり、川のほとりの折々の景色に見入ったり、時には、公園のベンチに座り、そこに集まる人たちの姿をボーッと眺めて過ごすこともあります。 お昼どきの公園には、いろいろな人がやって来ます。一人で、あるいは、何人かで現れ、それぞれのやり方で、憩いの時間を過ごしています。
木々の緑や、花壇の彩りの中で、気の置けない仲間と語らう人たちの声、遊具や噴水で遊ぶ子供達の弾けるような歓声などがシンフォニーのように混じりあい、風と共に公園を吹き抜けていく。それを見聞きしているだけで、幸せな気分になります。 公園に集まった人たちは、やがて、晴れやかな表情で、でも、少し名残惜しそうにそれぞれの現実へと戻っていきます。私も、ベンチから腰を上げ、午後からの仕事のために職場に向かう。
後ろを振り返ると、そこには、公園があり続けていて、次から次へとやって来る人たちを迎え入れ、楽しませ、和ませています。災害時には避難場所になり、行き場を失った人たちが身を寄せ合う場になったりもする。公園というのは、ありがたい場所だなと、しみじみと思います。
昨秋発売された「マチネの終わりに」は、まさに公園のようなアルバムだと思いました。 このディスクは、周知の通り、平野啓一郎のベストセラー小説に登場するギター曲を収録したものです。主人公のギタリスト蒔野聡史と、ジャーナリストの小峰洋子の、短くて、切ない恋愛ドラマの、重要な局面で奏でられる音楽を、時系列に沿って聴くことができます。
演奏は、平野にギタリストを主人公とした小説を書くきっかけを与え、小説の成立にも深く関わったという福田進一。彼がコロムビア専属時代に録音した音源と、今回このアルバムのために新たに録音したトラックを組み合わせたアルバムには、既存のものを集めて一丁上がり、といった安易さはありません。小説を愛する人たちが、心を込めて丁寧に作ったことがひしひしと伝わってくるディスクです。
私は、このアルバムを聴く人たちの姿を思い浮かべます。
小説「マチネの終わりに」の巧みなストーリー展開に引き込まれ、登場人物の一挙手一投足と、ドラマのなりゆきをハラハラして見守り、ページをめくるのがもどかしいような、でも、ちょっともったいないような気持ちの間で揺れ動きながら、とうとう最後まで読んでしまった人たち。
彼ら彼女らは皆、読後の余韻と、癒しがたい「マチネ・ロス」を感じながら、家族や友人と感激を分かち合い、ネットに思い思いの感想を投稿し、映画化するなら誰を起用すべきかとか、ラストシーンの後、あの二人はどうなっただろうかなどとおしゃべりを楽しんでいる。
その場は、もう既に「マチネの終わりに」という名前の公園として実在しているのかもしれない。SNSやブログ、作家のオフィシャルサイト、最近できたコミュニティサイトを見ると、そう思わずにはいられません。
公園に集まった人たちは、あの場面で流れていた音楽がどんなものなのかが知りたい、音楽を通して小説を追体験したいと、このディスクにたどり着き、耳を傾ける。音楽が、作り手と受け手の橋渡しとなって、あたたかな交流の場を生みだし、公園の景色はますます美しいものになっていく。
私も公園の訪問者の一人です。私は、小説を読んで、恋愛模様の進展を追って楽しんだだけでなく、登場人物が直面する普遍的な現実、心に抱く葛藤や、ある種の諦念、あるいは、随所に散りばめられた作家自身の思想の断片に深く共感し、感銘を受けました。だから、タイアップCDの存在を知っていてもなお、聴かないでいることは不可能で、嬉々として、この小説と音楽が渾然一体となった「マチネの終わりに」という公園に足を踏み入れたという訳です。
この美しい公園で音楽を奏でているのが、他ならぬ福田進一であることは、とても幸福なことです。福田の音楽をこよなく愛する平野にとっても、私たち聴き手にとっても。
なぜかというと、福田進一の演奏それ自体が、まさに「公園のような音楽」だからです。 彼の演奏は、どんな曲であれ、平明なものです。緻密な設計と周到な準備に裏打ちされた手練手管は、常に背後に隠されていて、どんなに複雑で錯綜した曲でも、聴き手は安心してその音楽に身を委ね、音楽を共に生きることができます。誰もが気軽に立ち寄り、その場で楽しめるようにと細やかな心遣いが施された音楽には、たくさんの人々が、磁石で引きつけられるように集まる。そして、その音楽は、皆が幸福を感じながら、思い思いの時間を過ごせる公園のような場となる。
「むずかしいことをやさしく」という井上ひさしの言葉を地で行くような福田の演奏こそ、小説「マチネの終わりに」が作った、多くの人たちが集う公園のありようをそのまま表現した音楽なのだと、私はそう思います。
どれも素晴らしい音楽ばかりなので、特に印象的な曲は?と聞かれると、返答に困ってしまうのですが、前述のブローウェルの「黒いデカメロン」からの2曲(「戦士のハープ」「恋する乙女のバラード」)をまず挙げます。
切れ味鋭いリズムに乗って、ドライで辛口の旋律と、独特の色彩をまとって漂うハーモニーが絡み合いながら、クールに展開していく音楽。早すぎず遅すぎず、熱すぎず冷たすぎず、絶妙の塩梅で奏でられた演奏からは、一瞥ですべてを見通してしまうような眼光を感じます。美術や、牛肉の部位などの付け焼刃の蘊蓄を傾けずとも、意中の異性はこうやって落とすんだよ、とでも言うような究極のダンディズムに痺れます。
その他、コロムビア時代の名盤として名高い武満徹の作品集からとられた「イエスタデイ」、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」の第2楽章、フェルナンデスとのデュオによるピアソラ、今回新録音されたバッハの無伴奏チェロ組曲第3番のプレリュードなど、掛け値なしに素晴らしい音楽が満載なのですが、ハイライトは、トラック5~8の、「第5章 洋子の決断」の4曲であるということに異論はあまりないのではないでしょうか。 その4曲とは、まず、ギター曲の定番中の定番、バリオスの「大聖堂」、次いで、ヴィラ=ロボスの「ガヴォット・ショーロ」、ルイ・アームストロングが歌った「この素晴らしき世界」、そして、洋子の父親が制作したパルチザン映画の主題曲という設定の「幸福の硬貨」。「大聖堂」以外は新録音で、「この素晴らしき世界」は、福田の弟子の一人でもある鈴木大介の編曲、「幸福の硬貨」は、ピアニストとしても活躍する作曲家、林そよかが書き下ろしたものです。
「大聖堂」は、つい最近、別レーベルから彼の最新録音がリリースされましたが、落ち着いたテンポをとり、線の太い音楽を聴かせてくれる新盤に大きな魅力を感じつつも、どこか思い詰めたようなナイーヴさをもった旧録音も、これはこれで好きです。ライナーノートでの平野と福田の対談にもありますが、アルバムを初めて聴いたときは、「途中で止まったりしたらどうしよう」とドキドキしましたが、実際にはそんなことはなくて良かった。 続く「ガヴォット・ショーロ」の、恐怖に震える背中を撫でつけるような優しい響きも印象的ですが、続く「この素晴らしき世界」が、とてもいい。
サッチモの独特の歌声で耳に馴染んだ旋律に、快い違和感を孕んだ響きが蔓のように絡み合い、たゆたうように音楽が流れていく、その道筋は涙が出るくらいに心に沁みます。 地上の美しい景色に酔いながら、自分の意志で選んだ道の向こうに見えるものと、選ばなかった道の先にあったかもしれない未来とに思いを馳せて揺れ動く。消しゴムで消したいような過去の記憶を、何とか折り合いがつけられるように変えていきながら、すべてを受け容れ、「この世界は何と素晴らしいのだろう」と独りごち、歌う。小説の二人の恋愛と、自分の人生とをこの音楽に重ねつつ、しみじみと聴き入ってしまいます。
そして、「幸福の硬貨」。蒔野聡史と小峰洋子の二人の心が、あたたかく結ばれる場面に相応しい、シンプルで美しい曲。素朴で、穏やかな安らぎに満ちた調べは、途中で短調になって翳りを見せますが、すぐに最初の音楽が戻ってきて、やがて静かに円環を閉じる。手をかけすぎると壊れてしまいそうな小さな音楽を、福田は、慈しむように、あたたかく歌っています。それは、男女の結びつきを歌った曲というだけでなく、公園に集う人たちの結びつきを生むような広がりをもった曲でもあります。
「幸福の硬貨」は、アルバムの最後でリプライズされるのですが、そこでは、心持ちテンポを落としてしみじみとした情感を加えて演奏されていて、映画のエンドロールを思い起こさせるような趣があって、そちらも素敵。終始控えめで、決して何かを主張したりはしない音楽ですが、聴き手がイメージを広げるのを邪魔せず、たった3分足らずで、このドラマのエッセンスを描いた佳品だと思います。
私にとって、「マチネの終わりに」というアルバムは、こんな姿をしていますが、他の聴き手の方々の目の前には、もっと違う、素敵なものとして立ち現れていることでしょう。
平野啓一郎の持論である「分人」という概念を適用すれば、聴き手のイメージの違い、それこそが「マチネの終わりに」の分人そのものなのかもしれません。分人は、時とともにその構成比率を変えていくということですから、10年後、20年後には、この「マチネの終わりに」の総体は、違った姿を見せてくれるのかもしれません。私はそのとき、そこにどんな公園を見いだすことができるでしょうか。
最後に、一つだけ付け加えておきますが、この「マチネの終わりに」は、小説を読んだ人だけが楽しんでいるのは、もったいないアルバムだと思います。
素晴らしい曲が並んでいて、アルバムの構成もしっかりと考えられているので、自然に聴き通すことができる。聴き手を大きく包んでしまう福田進一の新旧の素晴らしい演奏が聴けて、「この素晴らしき世界」、「幸福の硬貨」という素敵な新曲にも出会える。 ジャケットから何からすべて小説に依存しているように見えて、実は、とても普遍的な魅力を備えた音盤に仕上がっているのではないでしょうか。
まだ小説は読んでいないけれど、福田進一の音楽は聴いてみたい、あるいは、小説を読む前に聴いておきたいという方々が、気軽にこの公園に足を踏み入れ、音楽と素敵な出会いをされますようにと願わずにはいられません。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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