音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.60

クラシックメールマガジン 2018年7月付

~風街のさすらい人 ~ シューベルト/白鳥の歌(松本隆現代語訳版) 鈴木准(T)巨瀬励起(P)~

シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」を、作詞家の松本隆が現代語訳したアルバムを聴きました。演奏は、テノールの鈴木准と、ピアノの巨瀬励起。昨秋、松本が拠点を構える京都で、自身がスーパーバイザーを務めてセッション録音されたものです。
昔から堀内敬三の訳詞で愛唱されてきた「セレナーデ」を除けば、初めて日本語で聴く「白鳥の歌」。研ぎ澄まされた言葉を通して、この歌曲集の世界を心ゆくまで味わい、リアルに体験することができました。いや、これでようやく真の「白鳥の歌」の姿に触れられた、そんなふうにさえ思えます。
もちろん、ドイツ語の詩を日本語に訳すのですから、言葉の足し算や引き算、並び替えは当然あります。歌われる言葉の数は、原詩の半分くらいでしょうか。クライマックスを形成するフレーズで、オリジナルとは異なる意味の単語が歌われる場面もあります。しかも、文体は、間違いなく「あの松本隆」のもの。もはや「作詞 松本隆」とクレジットしても差し支えないほどに再創造された「白鳥の歌」。
しかし、実際に音を聴けば、松本隆がシューベルトの音楽と、オリジナルの詩に対してどれほど「忠実」であろうとしているかは容易に感じ取れるはずです。
例えば、シューベルトの音楽のリズムへの忠実さ。
全曲にわたって、原則として「一拍、一文字」、つまり、一つの音符に対して一つの音だけが割り当てられています。字余りや字足らずはなく、早口言葉になるような場面は皆無。音楽の息遣いとリズムの律動を邪魔せず、旋律と合わせて最も美しく響く言葉が、細心の注意を払って選び抜かれている。
それによって、原語で聴くのと同じように、シューベルトの音楽の「生命」をすぐそこに感じ、味わうことができる。長‐短‐短の音符からなるダクトゥロスのリズムも、「さすらい人」音型に見られる特有のリズムも、原曲通り明瞭に聴きとれます。
思えば、松本隆は、伝説のバンド「はっぴいえんど」のドラマーとして世に出た人。何しろ、リズムが命の楽器ですから、彼がシューベルトの音楽のリズムを尊重するのは、当然のことかもしれません。
そして、原詩が表現するものへの忠実さ。
松本の訳詞は、オリジナルに拘らず自由に言葉を選んでいるように見えて、レルシュタープ、ハイネ、ザイドルという三人の詩人が詩の中に作り上げた世界、歌の主体の心象風景や感情には、何一つ手は加えられてはいません。
小川のせせらぎ、とどろく急流やざわめく森林、セレナーデを歌う小夜鳥、街を去る男を連れた馬車、海辺の漁師小屋、手紙を運ぶ白い伝書鳩。戦場の寝床で恋人を思い、失った恋を嘆き、孤独の痛みに身をやつし、苦悩を背負って叫び、自らの分身の姿に恐怖する人間の心。それらは何の夾雑物もなく純正なかたちで言語化され、原曲よりもむしろ深化した世界が描かれているのです。
例えば、ギリシャ神話を題材にハイネが書いた詩による第8曲「アトラス」。
ゼウスに抗ったかどで地球を背負わされたアトラスの苦悩が、重々しく、激しく歌われる。
曲の最後、フォルティッシモで歌われる長い音符は、原曲では”tragen(背負う、担う)”と歌われます。一方、松本版では「張り裂けそうだ」となっていて、背負った天球の重みに耐えかねたかのような悲痛な叫びに置き換えられています。
初めて聴いたとき、この肺から血を吐くかのような言葉に衝撃を受け、思わず原詩を見直しました。オリジナルの宿命を呪う呻きよりも、「張り裂けそうだ」という断末魔の絶叫の方が、この痛切な響きには相応しい気がしました。シューベルトが聴いたら、きっとこの選択を祝福するでしょう。
あるいは、第7曲「じゃあね」。
ドイツ歌曲らしからぬ、くだけたタイトルにアッと声を上げてしまいますが、普段、私たちが「別れ」とか「別離」と呼んでいる曲です。レルシュタープの原詩のタイトルは “Abschied”。同じタイトルをもつマーラーの「大地の歌」の第6楽章は、通例「告別」と呼ばれています。
今生の別れのような題名の割には、なぜこんなに明るい民謡調の曲なのだろうかと、昔から疑問に感じていました。馬車に乗り、愛した街の風景や娘に“Ade!(さようなら)”と次々に別れを述べていく。ならば、もっと悲壮な決意や、後ろ髪引かれる思いに満ちた曲になるべきではないかと。
しかし、「じゃあね」という言葉なら、この曲調は腑に落ちる。いつかまたきっと会えるよねという希望を胸に、「じゃあね いい街だったよ」と笑顔で手を振って歌うなら、音楽はこうでなければならない。
気になって調べてみると、“Ade”という言葉は、ドイツ南部では「バイバイ」くらいの軽い挨拶として使われているのだそうです。「あばよ」という日本語で説明している辞書もある。シューベルトは、そんな軽いニュアンスを感じ取ったからこそ、馬の蹄が弾むようなリズムに乗せ、楽しげな旋律をつけたかもしれません。
この“Ade”は、2つの音符で構成されています。日本語なら「さよなら」「さらば」「あばよ」では字余りだし、「バイバイ」では前後とうまく調和しない。「じゃあね」こそ、意味的にも、音楽的にも最も正しい選択であるように思えます(専門家の方の判断は分かりませんが)。松本隆の鋭敏な言葉のセンスと、作曲者や詩人への深い敬意を感じずにはいられません。
あるいは、第5曲のレルシュタープの詩による「仮住居」。
「すみか」と呼ばれている曲です。詩の主人公は、急き立てられるような三連符の伴奏の上で、森羅万象の厳しさを次々と歌い上げる。そして、最後に「それこそが私のすみかだ」と歌う。ここは、松本隆訳では「そいつが ぼくらの/若さの仮住居(かりずまい)」になっています。
若者が自分のすみかだと思っているのは、仮住居にすぎない。若者はいつか大人になり、そこを去る。人間は、いつも仮の場所をさすらいながら、ほんの一瞬を生きるだけ。永遠などどこにもない。
「さすらい人」シューベルトの音楽すべてに通底するモチーフが、この短いフレーズの中で鮮烈に表現されています。何と素敵な言葉でしょうか。普段はさらっと聴き流していた曲でしたが、見方、感じ方がガラリと変わってしまいました。
そして、この歌曲集のハイライト、第13曲「ドッペルゲンガー」。
夜更けすぎ、思いを寄せる女性が暮らしていた古い家の前に佇む。すると、そこには自分と同じ顔をした男がいて、自分と同じように苦悶の表情を浮かべている。
弔鐘のように響くピアノの重苦しい和音にのって、主人公の心の奥底からちぎりとられた言葉が、ぽつりぽつりと発せられる。苦悩にあえぐ自分そっくりの分身の姿を目の当たりにして、彼の声は、自我が崩れてしまいそうなほどの恐怖の絶叫へと変化していく。
音と言葉が一体となって、人間の深層心理にある絶望、恐怖、哀しみを深く抉り出していく、そのさまの何と凄絶なことでしょうか。自己の真実を否応なく見せつけられることの重さや辛さは、この日本語を通してでなければ追体験できない。そう思えるほどに、深く印象に残る歌です。
シューベルトの音楽と、テキストの詩の本質的なものを見事に表現しきった松本隆の言葉の数々を挙げれば、枚挙に暇がありません。
以前、松本隆が、テレビだったかラジオだったかで、こんなことを述べていました。作詞するときには、何かをしながら歌を聴き流している人を、ふと振り向かせるような言葉を選んでいるのだと。
いま挙げた「張り裂けそうだ」「そいつが若さの仮住居」「じゃあね」という言葉は、まさに手を止めて、じっくり聴き入ってしまうような力を持ったものです。ながら聴きなどしていられないほどに。
そして、どの言葉にも、独特の余韻がある。「この苦しみはいつまで続くのか」「本当の住居はどこにある?」「またいつか会えるよね」とか何とか、その続きを思わず口走ってしまいそうな後を引く余韻。
松本の詞には、聴き手を、音楽が鳴りやんだ先にあるものへと導き、イマジネーションを刺激するような不思議な力があるのだと思います。
考えてみれば、それはシューベルトの音楽のありようそのものです。曲が閉じられても、音楽は終わっていない。完成された作品であっても、それは永遠に未完の作品。「未完成」交響曲だけではなく、「美しき水車小屋の娘」も「冬の旅」も、すべてそう。本当の結末は、聴き手の想像に委ねられている。
歌曲集の最後の曲、ザイドルの詩による「鳩」も例外ではありません。
あの「ドッペルゲンガー」に続いて、十分な間合いをとって、その歌は軽やかに歌い始められます。
コロコロと転がるようなピアノ伴奏にのって、明るく優しい旋律が、鳩のように羽ばたく。愛しい女性の家を往復し、自分の思いや涙を彼女に届けてくれる白い伝書鳩への溢れんばかりの愛情が、綴られていく。
この曲の最後では、「ああ白い羽の鳥の名は『憧れ』/『憧れ』だよ」というフレーズが何度も繰り返されます。憧れに満ちた旋律に乗せ、どんなメッセージを込めた手紙が鳩に託されたのでしょうか。彼の思いは誰かに届いたのでしょうか?その彼とはシューベルト自身なのでしょうか?それとも、彼こそが音楽の女神から現世に遣わされた「憧れ」という名の鳩だったのでしょうか?
はるか遠くに視線を向けた切ない調べが閉じられた後、心地良い余韻の中で思うことは、松本隆が明らかにしてくれたのは、シューベルトの音楽の完結を拒むかのような未完の響きと、そこに隠された永遠の問いなのかもしれない、ということです。シューベルトの音楽の根源にあるものは、見果てぬ「完成」への憧れなのだろうかと。
ロマンティックな想像が止まりません。
鈴木准の歌と、巨瀬励起のピアノは、掛け値なしに素晴らしい。
リリカルで軽い声の持ち主の鈴木ですが、その歌い口は、どちらかというとオペラ的でドラマティック。エネルギーに満ち、詩の言葉と音楽がもつ熱量をストレートに表現した歌に強く打たれます。
「アトラス」や「ドッペルゲンガー」での凄絶な表現、「愛の使い」「じゃあね」「鳩」での軽やかな歌はもちろん、「セレナーデ」の真摯な愛の懇願、「肖像画」でのナイーヴでみずみずしい抒情に惹かれました。
巨瀬のピアノは、言葉のニュアンスや曲想の変化に敏感に反応し、多彩な表現を聴かせて耳を楽しませてくれます。ダイナミックレンジも広く、鈴木の体当たり的な熱唱を十全にバックアップしている。この伴奏なら、歌い手はさぞかし触発されることでしょう。
どれか1曲選ぶとしたら、最近、松本がゲスト出演したテレビ番組で披露された「ドッペルゲンガー」を挙げます。二人の演奏は、深淵を覗き込むようなシューベルトの音楽の恐ろしい力を十全に表現していて、息を呑みます。これだけでも、当盤を聴いた価値は十分にあると思えるほどの絶唱。
続編はあるのでしょうか?ハイネつながりでシューマンの「詩人の恋」でしょうか?シューマンなら「女の愛と生涯」やケルナーの詩による歌曲、「ミルテの花」も聴いてみたい。いや、マーラーの「リュッケルトの詩による歌曲」や、R.シュトラウスの「子守歌」「あした!」なら、どんなタイトルと訳詞がつけられるでしょうか。あるいは、松本が若い頃に傾倒したというジャン・コクトーが台本を書いたプーランクの「人間の声」の日本語版も。数々のヒット曲で、あれほど見事に女性の心理の綾を表現した人ですから、是非女声の歌を聴いてみたい気がします。
このアルバムのジャケットには、書道家の川尾朋子の手による、白鳥の姿を彷彿とさせる美しい題字が印刷されています。
ライナーノートに掲載された松本の詞は、視覚的にも美しい。彼の重要なキーワードである「街」「都市」という漢字は、松本ファンにはたまらないものでしょうし、原詩とは違う行の組み方も目を引きます。これはさしずめ、「白鳥の歌」を、耳で体感し、目で味わえるアルバムと言えるでしょうか。
まだお聴きでないようでしたら、是非。シューベルトの音楽に乗って、風街の蒼空を翔けてみませんか?
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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