大澤壽人の芸術 The Art of Hisato Ohzawa〔UHQCD〕商品情報

大澤壽人の芸術 The Art of Hisato Ohzawa〔UHQCD〕

大澤壽人の芸術 The Art of Hisato Ohzawa〔UHQCD〕

[ALBUM] 2018/07/18発売

大澤壽人の芸術 The Art of Hisato Ohzawa〔UHQCD〕

COCQ-85424-5 ¥3,600+税

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大澤壽人(1906〜53) Hisato Ohzawa

[DISC1] 
コントラバス協奏曲 【世界初演】
(1934)
Concerto for Double-Bass and Orchestra [World Premiere]
1. I. Allegretto moderato
2. II. Monologue : Moderato
3. III. Aria : Andante non troppo
4. IV. Dialogue : Moderato espressivo
5. V. Finale : Allegro con brio

ピアノ協奏曲第3番 変イ長調 神風協奏曲 (1938)
Concerto No.3 in A-flat major “Kamikaze” for Pianoforte Solo and Orchestra
6. I. Larghetto maestoso - Allegro assai
7. II. Andante cantabile
8. III. Allegro moderato - Allegro vivace

[DISC2] 
交響曲第1番 【世界初演】
(1934)
Symphony No.1 [World Premiere]
1. I. Adagietto – Allegro scherzando
2. II. Double Theme and Variations
3. III. Larghetto non troppo – Allegro con brio


山田和樹指揮、日本フィルハーモニー交響楽団
佐野央子(コントラバス)、福間洸太朗(ピアノ)

ライブ録音:2017年9月3日 サントリーホール〔サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2017〕
Recorded on 3 September, 2017 at Suntory Hall [Live Recording]

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今なお輝きを増し続けてやまない、モダニズムとロマンティシズム−
日本音楽史を塗り替える、驚くべき天才作曲家の再発見

ほとばしる才能が楽譜から匂い立ってくる。
ときにむせかえりそうにもなるほどの音楽の圧力がそこにある。
山田和樹
21世紀に入りふたたび脚光を浴びるまで、日本洋楽史において存在を消失されていた天才作曲家・大澤壽人。1930年代に欧米で学び、当時最先端の音楽技法を会得して生み出された作品は、モダニズムとロマンティシズムが同居した驚くべき傑作が連なることがいま、徐々に明らかになってきています。80年の時を経て世界初演を迎えた幻の≪交響曲第1番≫と≪コントラバス協奏曲≫、さらに福間洸太朗の切れ味鋭いピアノが光る、大澤再発見の引き金となった《ピアノ協奏曲第3番》。この歴史から謎の忘却を余儀なくされた作曲家の真の評価を引き出す、山田和樹の熱情あふれるタクトが光ります。
大澤壽人(おおざわひさと) プロフィール
1906(明治39)年8月1日、兵庫県神戸市生まれ。父は神戸製鋼所創業時からの技術者、母はクリスチャン。幼時からキリスト教に囲まれて育ち、20年関西学院中学部入学。山田耕筰が籍をおいたグリークラブで活躍し、25年初来日したフランスのピアニスト、H.ジル=マルシェクスの神戸公演に感銘を受け、作曲家を志した。26年高等商業学部進学。ピアノを在留外国人、ロシアのA.ルーチンとスペインのP.ヴィラヴェルデに師事。神戸オラトリオ協会を設立して自ら指揮者になるなど、関西学生音楽界で知られていた。
1930年関西学院卒業、宣教師らの勧めによって渡米。ボストン大学音楽学部で正式に作曲を学び始めた。32年日本人初の作曲専攻生としてニューイングランド音楽院にも入学。F.コンヴァースに師事した頃から才能が一挙に開花した。
ボストンは当時の世界的な音楽最先端都市で、ボストン交響楽団定期演奏会に登場したA.シェーンベルクや周囲にいたアメリカ急進派からの影響を受け、「交響4部作」と呼ぶべき作品を圧倒的な勢いで作曲。日本最初期の《ピアノ協奏曲》(33年)、バレエ組曲《3つの田園交響楽章》、日本初の《コントラバス協奏曲》、屈指の大作《交響曲第1番》(34年)で総譜枚数500超。無調を取り入れながら「ウルトラモダン」を目指した作品群は、戦前の日本洋楽史に燦然と輝いている。
また、1933年にはボストン響(ボストン・ポップス・オーケストラ)を率いて自作《小交響曲》を披露。新進作曲家・指揮者として注目を集め、指揮者のS.クーセヴィツキに認められた。同響を指揮した初めての日本人であり、ボストンは、生涯に数多くの「日本初」を打ち立てた大澤のスタート地点となった。
1934年大志を抱いてフランスに渡り、エコールノルマル音楽院でP.デュカのクラスに出席、N.ブーランジェのプライベートレッスンを受ける。35年コンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮して、パリで日本人初の自作自演の大演奏会を開催。J.イベールや「フランス六人組」のA.オネゲルなど、西洋音楽史の巨匠たちが来場した。《交響曲第二番》《ピアノ協奏曲第二番》、歌曲《桜に寄す》は新聞各紙で絶賛され、指揮も高く評価され、華麗なパリデビューを果たした。大戦前のヨーロッパで「欧米楽壇で通用する一流の作曲家・指揮者」と称えられたキャリアは、邦人作曲家が海外進出を模索した時代に、輝かしいの一語に尽きる。
1936年帰国。凱旋のはずの帰朝演奏会では先鋭の作風が理解されず、日中戦争下の38年に発表した《ピアノ協奏曲第3番 神風協奏曲》は、「愛国的」でないと批判された。戦局の悪化に伴い、活動の場をコンサート会場からラジオや映画、宝塚や松竹の舞台へと余儀なく移すが、このことが逆に、幅広いジャンルの開拓につながり、詩人・画家・映画監督らとの豊かな交流が始まった。かたわらで、神戸女学院の教壇に帰国翌年から立ち続けた。 戦中も創作力は旺盛で、1940年の「紀元二千六百年」に関連した「奉頌3部作」、《交響曲第3番 建国交響曲》《海の夜明け》《萬民奉祝譜》を発表。ラヴェル《クープランの墓》の指揮本邦初演も戦中に行っている。
1945年以降、音楽による戦後復興を目指し、上質で親しみやすい「中間層の音楽」の普及に努めた。49年の《ペガサス狂詩曲》を頂点に、それぞれの楽器の日本初作品である《サクソフォーン協奏曲》(47年)や《トランペット協奏曲》(50年)には、ジャズの要素が前面に打ち出されている。これらはNHK大阪放送局や朝日放送で担当していた毎週の音楽番組から流れ、さらに番組用に、欧米で認められたオーケストレーション技術を磨き、作曲に匹敵する「編曲の世界」を築き上げた。
並行して、ポップス系オーケストラ3団体を設立。1952年には《大佛千二百年祝典譜》で民間放送連盟音楽賞などを受賞、朝日放送1周年記念《電波へのハレルヤ》を発表するなど、超人的な活動を展開。53年には2万人の聴衆が集う西宮球場で「たそがれコンサート」を陣頭指揮、メノッティ《電話》を本邦初演、脚本まで手掛けた放送オペラ《邯鄲》を発表。時代の寵児として多忙をきわめた。
その最中、1953(昭和28)年10月28日に47歳の若さで急逝。作曲・編曲を合わせ1000近くの膨大な作品を遺した。欧米楽壇で活躍できる実力を持ちながら戦争に阻まれ、総作品のうち、演奏会用の多くを作曲したボストン時代の「交響4部作」のいずれも、自身で初演を聴くことのない運命だった。
没後は半世紀以上忘れられた存在だったが、21世紀になる頃、音楽評論家片山杜秀氏と神戸新聞記者藤本賢市氏による「発掘」と尽力によって、再脚光を浴びた。奇跡的な「平成の復活劇」がブームを起こす中、2006年に大澤家は3万点に及ぶ遺品資料を神戸女学院に寄贈。見上げるような業績が明らかにされて、ようやく全貌が現れた天才作曲家である。

生島 美紀子(大澤資料プロジェクト代表)
*当日公演パンフレットより修正・加筆

■高音質CD「UHQCD」

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