日本の軍歌大全集
~若鷲の歌・海行かば~

解説

日本最古の軍歌と言われる、「宮さん宮さん」は官軍の東征のとき歌われたが、曲調リズムは大名行列の槍持の所作に合いそうである。本格的軍歌の誕生は、欧米先進国を目標に国軍がつくられ、陸軍はフランス、海軍はイギリスに範をとり立ち上げられてからである。そして軍楽隊もまた外国人の指導のもとに歴史の幕を開けた。ちょうど音楽取調掛が作られ音楽教育の基礎がためを初めた頃であり、両者によって日本人の音楽的感性が形成されていった。

陸軍軍楽隊の指導者であったフランス人シャルル・ルルーによる「抜刀隊」「扶桑歌」は分列行進曲として一世紀半近い今も現役の行進曲である。海軍軍楽隊の俊英瀬戸口藤吉による「軍艦」もまた世界に誇る、マーチとして健在である。「抜刀隊」はまた、流行歌の世界にも遺伝子を残した。
軍歌が飛躍的に国民的に広がったのは、日清戦争による日本のナショナリズムの形成が大きいのではないだろうか。「抜刀隊」「敵は幾万」「元寇」「勇敢なる水兵」「雪の進軍」世界に珍しい従軍看護婦を描いた「婦人従軍歌」はこの頃に作られた。日露戦争では日本は勝利したとはいえ、ダメージも大きく、「橘中佐」「広瀬中佐」と軍神を讃える歌、日露の痛みわけの「水師営の会見」、戦友の死と遭遇体験を描いた「戦友」と生硬で勇ましい歌ではない。日露戦争が始まる頃作られ定着した「日本陸軍」は出征時歌われたことにより定着し、艦船を読み込んだ「日本海軍」は演歌節に変じても愛唱された。この頃一校寮歌として生まれた「アムール河の流血や」が「歩兵の本領」となり中学の校歌となりメーデーの歌となるなどの例を見るように、明治の軍歌は唱歌と並んで国民的大衆音楽として定着した。
昭和に入ると、上海事変、満州事変と大陸で戦火が広がった、軍の監修のもと作られ、タイトルは勇ましいが「討匪行」は決して勇ましいものではない。だが歌謡曲も大陸での戦いを前提にするものも増え、「麦と兵隊」「湖上の尺八」が生まれた。そして「露営の歌」など勇ましいものが生まれ、緊迫感の増す様を見ることができる。 昭和12年、国民精神強調のために「海行かば」が新たに附曲されたように、精神運動のための目的を担った音楽が企画されるようになると、軍部の肝いりで、新聞社、雑誌社が詩を公募、レコード会社が曲を作ったり、競作したりと強力に軍歌を世に出した。国策的に作られた「愛国行進曲」「愛馬進軍歌」「暁に祈る」「紀元二千六百年」「大政翼賛の歌」「そうだその意気」「若鷲の歌」「あゝ紅の血は燃ゆる」から、公募作「父よあなたは強かった」「太平洋行進曲」「出征兵士を送る歌」「空の勇士」「海の進軍」とこの時代を代表する多くの曲が該当する。「くろがねの力」は体育の歌だがこの範疇に入るだろう。

一方、前線兵士の活躍を伝える明治来の戦争時局歌も多く「荒鷲の歌」「空の神兵」「戦友の遺骨を抱いて」「加藤隼戦闘隊」「ラバウル海軍航空隊」と曲が優れたものはストレートに大衆の支持を得た。娯楽の王者映画やラジオを通しても「燃ゆる大空」「轟沈」「勝利の日まで」「艦隊勤務(月月火水木金金)」と名曲は生まれた。当CDに唯一SP時代の音で収録されている昭和18年発売の「雲のふるさと」もまた映画主題歌であった。最近存在が発見され話題になった李香蘭歌唱のバージョンとはかなり表現された世界は違うが、従軍作詩家大木惇夫が昭和17年「海を往く歌」で歌謡曲化し、多くの青年の心を捉えた「戦友別盃の歌」より更に悲しい表現が見られる。18年19年20年と戦況は悪化、戦時歌謡も時局歌も悲壮感を増す中の微妙な時代がこのあたりに見えてくるようである。
戦地の兵士の中で広がり戦後流行歌としてブレイクした数多くのヒット曲が昭和40年くらいまで数多くあった。替え歌として世に残った「ラバウル小唄」「同期の桜」もまた明治来の兵隊ソングといえる。このように多様な背景を持つ“軍歌”だが明治初期から昭和の太平洋戦争にいたるまで、生まれ続け生き続けたものがこのCDに収録されている曲でありこれに比べ、消えていったもののほうがはるかに多い。格調高い名曲から軽いものもある、だが総じて感じられるのは悲しみではないだろうか、「海を往く歌」「雲のふるさと」で大木惇夫が書いた「生き死に」そのものを表現しているが故に“軍歌”は悲しいのではないだろうか。