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嘉手苅林昌作詞。「花口説」の曲にのせてうたう。
琉球放送が首里城跡に設立された琉球大学構内にあった頃(一九五四〜五九年)、
嘉手苅林昌が琉球放送に出演した帰りに、首里山川のバス停でバスを待っている間に、
道行く人々を眺めながら作詞した。

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普久原朝喜作詩・作曲。旧暦三月三日の行事「浜下り」の舟遊びを題材にした
民謡であるが、歌詞は即興でうたわれている。速テンポの曲である。
沖縄芝居の歌劇でも使用される曲である。

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「なーくにー」の解説については前出。「なーくにー」「はんた原」ともに歌詞は
即興でうたわれる。嘉手苅林昌は即興の歌詞でうたうことを得意としていた。
歌数の多さでは驚異的なものをもっていたのである。沖縄の風土、歴史、文化
といったものすべてが、嘉手苅林昌にはウタ(民謡)となって表現されたのである。

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恋の歌。一九五〇(昭和二十五)年、嘉手苅林昌三十歳のとき、
初めてレコーディングしたのがこの民謡である。
それだけに、林昌にとっては思い出の民謡ということになる。

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三線の速弾きで演唱される。祝宴や遊びの座で即興的に踊られる踊りを
「カチャーシー」という。カチャーシーは、沖縄の人々の自然で率直な喜びの
表現であるといえよう。カチャーシーの語源は、掻き合わす(合わせる)ということ。

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「口説」の歌詞は、七五調の句の連続を基調とする和文調である。
沖縄の口説の内容は、道行物、叙景物、祝儀物、教訓物、念仏物に分類される。
うたう際、大和言葉風にするのが本来であるという。
「道輪口説」は、組踊「義臣物語」(一七五六年初演)で道行きの歌詞をうたって
いるが、近年、ここに収録した歌詞をうたい、それに舞踊が振り付けられていて、
曲名も「秋の踊り」と称している。

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沖縄の歌舞劇である組踊の演目に「束辺名夜討」があるが、ここに収録する
「束辺名口説」は、組踊「束辺名夜討」にうたわれている歌詞と異なった歌詞を
うたっている。

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「さらうてぃー」とは、新たに遊女に身を落とした者の意である。
首里士族の娘は、夫の出稼ぎ中に別の男と一緒になる。結果家を出て遊女と
なってしまうが、元どおりになりたいと願う、という内容の歌詞である。

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組踊「万歳敵討」(田里朝直作、一七五六年初演)の一場面を抜き出して
独立させ、一曲の舞踊曲に仕立てたものである。二才踊として人気のある
舞踊曲である。「万歳口説」「万歳かふす節」「おほんしやり節」「さいんする節」
の四曲で構成。

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組踊「久志の万歳」(摩文仁親方の作といわれるが、初演年代ともに未詳)
の一場面の道行口説である。久志の若按司が、敵の虜になっている従弟の
天願の若按司(千代松)と乙鶴を助けに行く場面の道行口説で、
「久志の若按司道行口説」と呼ばれることが多い。

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組踊「忠臣身替の巻」(辺土名親雲上の作といわれるが、初演年代ともに未詳)
の一場面の道行口説。波平大主が、仲間を裏切り敵に主君の若按司を渡した
平安名大主と吉田の子に真意を確かめに行く場面の道行口説である。

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古典音楽の音曲だが軽快であるために、舞踊曲としても用いられる。第一節目が
本歌で、歌意は「蘭の匂いは清く上品で人に好かれる。この心持ちを朝夕持ち続けて、
いつまでも人に飽きられることがないように心掛けなさい」というものである。

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沖縄本島中部東海岸の与那城町屋慶名の番所に生えているクワディーサの木
(モモタマナ。シクンシ科の高木、コバテイシともいう)や、屋慶名の娘、
屋慶名や対岸の島々の風景をうたっている。カチャーシーに用いられることもある。

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悲劇的な最期を遂げたひめゆり学徒隊の鎮魂歌が「姫百合の歌」で、
一九六六年、小宗三郎の作詞。演唱の最後に「南無阿弥陀仏」と唱えるのは、
嘉手苅林昌の鎮魂の心情である。

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一四二九年に成立した琉球王国は、一八七二(明治五)年に琉球藩となり、
七九(明治十二)年に沖縄県となる(廃藩置県)。その世替わりの様子を歌った
のがこの民謡である。嘉手苅林昌の母である嘉手苅ウシの作詞、作曲はウシと林昌。

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一九四四(昭和十九)年十月十日、米軍機が沖縄に爆撃を加え、翌四五年
三月二十六日、米軍は慶良間諸島に上陸し、四月一日には沖縄島にも上陸して、
日本軍との間に激しい戦闘が繰り広げられた。沖縄は灰燼と帰してしまい、
沖縄県民の四人に一人が死亡した。この沖縄戦のことを、沖縄の人たちは
〈鉄の暴風〉と呼んでいる。戦時中は、その向きの民謡もうたわれたが、沖縄戦で
悲惨な体験をしただけに、戦後の沖縄民謡には反戦や恒久平和を切実に願うものが多い。


解説(財)国立劇場おきなわ運営財団企画制作課長 大城 學氏 (抜粋)