「レコード芸術」などで活躍する気鋭の評論家、広瀬大介さんが、オペラに登場する日の当たりにくい脇役になりきり、そのオペラの魅力と鑑賞のツボを押さえた作品解説、対象映像の演出について語る、世にも不思議ななりきり一人称ガイド。
これぞ自己言及のパラドックス!ねじれの向こうに真実がみえる!
1973年生。一橋大学大学院言語社会研究科・博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『リヒャルト・シュトラウス:自画像としてのオペラ』(アルテスパブリッシング、2009年)、『レコード芸術』誌寄稿のほか、NHKラジオ出演、CDライナーノーツ、オペラDVD対訳、演奏会曲目解説などへの寄稿多数。
Twitter ID: @dhirose
最近、無味乾燥な歴史書の代表格『徳川実記』に現代語訳が登場しはじめ、うれしさを噛みしめつつも、昔苦労して読んだのは何だったのか、と一抹の寂しさも感じているところ。好きな食べ物は相変わらず甘いチョコと甘い梅酒。
《ローエングリン》とは
『アーサー王伝説』の一部を取り上げた内容なのだが、実はれっきとした史実に基づいた「歴史オペラ」でもある。10世紀(日本で言えば平安時代中期・菅原道真の時代に当たる)、現在のドイツの前身となった東フランク(ドイツ)王国を建国した王ハインリヒ一世(875?~936)が、度重なるマジャール人(ハンガリー)の侵攻を食い止めるため、諸国を治める貴族とその軍勢を招集した場面が舞台とされている。オランダ・アントヴェルペン(英語読みでアントワープ)、スヘルデ河畔で起きたと言われる「白鳥の騎士」を巡る騒動。その顛末は国王が御自ら、ご自身の視点から語ってくださるだろう。国王は狩猟を好み、「ハインリヒ狩猟王」「ハインリヒ捕鳥王」とも呼ばれたという。そんなところから考えると、今に語り伝えられている白鳥の騎士伝説は、実は国王そのひとのことを伝えたものなのかもしれない。リヒャルト・ワーグナーは1848年にこの曲を完成させるが、作曲直後にドレスデンで革命騒ぎに加わったためにドイツからの亡命を余儀なくされ、長年実際の上演に触れることができなかった。
第1幕終了直後。貴族、兵士、平民たちは、突如現れた「白鳥の騎士」が、大貴族で威勢並ぶものなしと言われ、ブラバント公国の乗っ取りを策していたフリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵を打ち倒したことに狂喜している。一応その歓呼の仲間に和しながらも、どこか釈然としない国王ハインリヒ。帰り道、陰のように寄り添う伝令に対し、独り言のように語り始める。
国王ハインリヒ(以下H): わからぬ、全く持って度し難い…。
伝令(以下D): …。
H: 何が正義か、何が悪か、あのような時、わしはどうすればよいのだ…。
D: ……。
H: そもそもあ奴はいったい何者じゃ。得体の知れぬ白鳥に乗り昭和期の日本では、「白鳥に乗る」という慣用句があった。幼児がそれ専用に作られた便器(いわゆる「おまる」)にまたがって用を足す、という意。平成期の用法は定かでない。、エルザ・フォン・ブラバントが進退窮まった折を見計らったかのように出てきおった。騎士たるもの、堂々と名乗りを上げ、相手に挑みかかるが正道であろうに、名を名乗ろうとせぬのも気に入らぬ。
D: ……。
H: ブラバント公国中世ヨーロッパ講座その1: 現在のオランダ南部とベルギー北部を合わせた地域を治める公爵の領地。1795年にフランスの革命軍が同地を占領するまで続いた、名門中の名門。と言えば大国じゃ。世継ぎのおらぬ今の状態は好ましくない。わしらがハンガリーに遠征している間に、西フランク(フランス)のカール中世ヨーロッパ講座その2: シャルル三世(879~929)のこと。ロートリンゲン(ロレーヌ)地方の領有を巡ってハインリヒと争い、敗れている。ハインリヒはここで、シャルルのことをドイツ語でカールと呼んでいる。などに侵攻されては一大事。テルラムント伯爵のような立派な方に後を継いでもらうのが上策かと思うたが、エルザがテルラムント伯と結婚したくないばかりにだだをこね、さらにはあの騎士が出しゃばって全てをひっくり返しおった。あるいはあのような大領を治めるのは、伯爵では荷が重かったか…中世ヨーロッパ講座その3: 貴族の階級は上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。ヨーロッパでは、基本的に、治める土地の豊かさ・広さと、称号の偉さは正比例する。伯爵にとって、公爵領を領有するということは、自身の貴族としての位階を進めることを意味した。だからこそ、テルラムントはブラバントにこだわったのである。ちなみに、騎士を最下層の貴族として、男爵の下に位置づける国もある(イギリスなど)。。
D: 陛下、恐れながら…。
H: ああ、ビックリした。突然話しかけるでない。何じゃ、どうした?
D: 恐れながら、あまり公の場で、かの騎士をあしざまに言われぬほうが宜しいかと…。
H: なぜじゃ! あいつは虫が好かん!
D: ご心中、お察し申し上げます。ですが、軍と民のあの熱狂ぶり、ご覧になられたでございましょう。初めのうちこそテルラムント伯の言い分を是としていたのに、あの騎士が出てくるや、状況は一変してしまいました。
H: それこそ合点がゆかぬ。確かに元々伯爵は傲岸なところがあった。とはいえ、決して悪人などではない。
D: 仰せの通りにございます。ですが、かの騎士殿が神前裁判中世ヨーロッパ講座その4: 裁判の当事者同士を決闘で争わせ、勝ったほうが「神意」を享けたものとして、その言い分を通すという、めちゃくちゃな、ジャイアン万歳的裁判制度。そもそも1000年前のローマでも、そんな野蛮なことはしなかった。同時代のイスラムや中国に比べても、中世のヨーロッパ社会は著しく立ち後れていたと言うよりない。で勝利した以上、いまや騎士殿は皆の英雄。エルザ姫と結ばれるとなれば、かのものがブラバント公となられる定め。英雄はお身内に取り込み、利用なさるが得策かと。
H: わかっておる、わかっておるが、民とはこうも周りに流されやすいものか。恐ろしいものよ。それにエルザはすっかり正気を失っておるではないか。あのような得体の知れぬ騎士と添わせてよいのか。
D: この一件、決してこのままでは収まりますまい。何より、テルラムント伯が黙っておられぬはず。まあ、我らはしばらく様子を見守りましょう。それから打つべき手を打っても、遅くはないかと。
H: ふむ、そなた、意外と策士じゃの。お互いが相争い、共倒れとなれば、漁夫の利を獲るのは我らという訳か。よかろう。では、あの騎士殿とやらのご機嫌伺いに参ろうか。
第2幕終了直後。エルザと白鳥の騎士の婚礼は、予想通りテルラムント伯とその妻オルトルートによって妨害される。エルザは騎士の独善的な発言とその真意を測りかね、疑念を抱き始めている。結婚式から引き上げる途中、国王は笑いを抑えられない。
H: ハッハッハ、目論見通りじゃのう、うまくいったではないか。
D: 御意。
H: 伯爵を拘束せず、泳がせておいたのが、ここまで効果を上げるとは、わしもおもわなんだぞ。これで奴らの反目は決定的じゃ。やがて相争うて、自滅するは必定。わしの力も相対的に高まるというものじゃ。
D: ですが、あの単純な伯爵が、あそこまで周到な非難を騎士殿に浴びせられたとは、どうにも不思議な話ですな。
H: なんじゃと?
D: 伯爵の背後には、どなたか黒幕がおられるのでは…。
H: そう言えば、奴が最近娶ったオルトルートなる女が、最初に行列を遮ったのう。
D: おそらく、その妻が書いたシナリオで、伯爵はそれに乗って動いているだけなのではは…。音楽もそれを証明するようですし第1幕でオルトルートは最後に歌うだけだが、その彼女を示すライトモティーフ(訴訟の動機と呼ばれる)にのせて、テルラムントはエルザへの訴えを語る。つまり、テルラムントはオルトルートの考えに操られていることが、音楽で示される。。
H: なぜ妻がそこまでしてやらねばならぬ? 出しゃばりすぎではないか?
D: それがしにも、しかとはわかりかねます。エルザ姫か、騎士殿に個人的な恨みでもあるのか…。
H: おっと、その騎士殿は、自分のことを「ブラバントの守護者」と呼んで欲しい、とお望みであったぞ。そなたもそれに従わねば。
D: これは失礼を致しました。それにしても、なにやら聞き慣れぬ称号でござりまするな。
H: 自分は公爵にならぬ、ブラバント公爵領の正式な跡継ぎではない、ということを満天下に示そうというのだろう。「謙虚」を装っておるのよ。いかにも小狡い、身分低き奴の浅はかな知恵とは思わぬか? せっかくわしが民に、ありがたい治世の正義をハ長調で諄々と説き聞かせておるというのに、奴は突然場違いなイ長調で乱入してきて、美味しいところを全てさらっていくのだ。立場もわきまえぬ、許し難い所業ではないか。
D: では、陛下はあの「守護者」殿を葬れと?
H: おうさ、ついでに伯爵もな。このような不祥事を起こした責任はとってもらわねば。わしにはもはや奴も用済みじゃ。奴が持つ、いかにも邪悪さの固まりと言った音楽の調性も「守護者」殿のイ長調から見れば平行調たる嬰ヘ短調。所詮、二人は同じ穴の狢(むじな)ということよ。
D: なるほど、そこまでは考えませなんだ。さすが陛下。とはいえ、伯爵殿はもうすでに墓穴を掘られたも同然。まあ、「守護者」殿も、そこまで周到な計算のできるお方ではございますまい。放って置かれれば、いずれ馬脚を露す でありましょう。
H: ふむ、なぜそう思う?
D: そもそも名前を名乗らぬ、ということに無理がございます。「守護者」殿では、日々の生活にも何かと障りがございましょう。精神的に不安定なエルザ姫は、早晩あの方との結婚生活に音を上げられるに違いありませぬ。そこで、テルラムント伯をけしかけて、今晩にでも奴を襲わせるのでございます。姫も、自らの不和が招いた結末とあれば、強く不満も仰いますまい。どちらか一方が倒れた時こそ陛下の出番。神前裁判の決定を覆す不埒者として、喧嘩両成敗の名の下に、残った一方も処断しておしまいなされませ。目障りな奴が二人とも消えてなくなりましょう。
H: 越後屋時代劇ファンにはお馴染み、悪代官が良からぬ事をたくらむ際の決まり文句。なぜ決まって越後屋なのかは、今もって謎。しかし国王様を悪代官キャラに仕立て上げるこの暴挙、国王が後述するように、筆者が本当に処断されないか心配である。、そなたもワルよのう、ハッハッハ…。
D: 越後屋と同じにされては困りまする。金のためにすることではございません。あくまでも、陛下の御代の安らかなるを願えばこそ。
H: わかっておる、わかっておるぞ。それにしても、今回の我々の言い回しは常にもましてクドイのう。普段より分量も多いようじゃ。
D: おそらく、このコラムの筆者が、ようやく自分の専門であるドイツ・オペラについて書けるからといって、やたらと張り切っておるのでございましょう。
H: 迷惑な話じゃ。その筆者とやらも処断せねばなるまいの。
第3幕終了直後。「ブラバントの守護者」は、自らの寝首をかこうとしたテルラムント伯を倒し、それが正当防衛であることを群衆に納得させる。長い自分語りの後に、自らが「聖杯の騎士パルジファル日本ではあまり知名度の高くない『アーサー王伝説』。実はトリスタンも、パルジファルも、そしてその息子ローエングリンも、もとはといえば、全てこの伝説の登場人物だったのだ。の息子・ローエングリン」であることを明かし、その場を去ろうとする。夫を失うオルトルートは逆上のあまり、自分があの騎士を追い払ったと「勝利宣言」。ところが、白鳥の姿となっていたのは、行方不明と思われていたブラバント公国の正式な跡取り、ゴットフリートだった。その魔法を解き、立ち去るローエングリン。あまりのことに、オルトルートも、エルザも、その場に倒れ伏してしまう。群衆が次々と起こるドラマティックな展開に目を奪われている中、イヤに冷静な二人がひそひそ声で話し続ける。
D: へ、陛下! あれはまだ稚(いとけな)いゴットフリート・フォン・ブラバント殿では?!
H: ふむ、やはりあの得体の知れぬ騎士め、自らの立身を図るため、ゴットフリートを白鳥の姿に変えて隠しておったのか。どこまでも油断のならぬ、腹黒い奴じゃ。自分こそ被害者と言わんばかりの面で振る舞っておるが、きっとろくな死に方はするまいよ。作者不詳の叙事詩『リゴメール』に拠れば、その後、ローエングリンはまたしても(!)別のやんごとなき姫君と結婚するが、怪しげな魔法で娘をたぶらかしたと信じる両親によって、殺害されてしまう。フランス国境に位置するロートリンゲン(ロレーヌ)地方という名前の由来は、そのローエングリンにちなんでいるとかいないとか。
D: 「守護者」殿が去って行かれます。
H: 聖杯とやらを守らねばならぬか。まったく、騎士とは気楽な商売じゃのう。自分の名誉さえ守れればそれでよいとは。民草の暮らしを守らねばならぬわしの苦労など、及びもつかぬのであろう。
D: 陛下、ブラバントの今後、どうされます?
H: どうもこうもない。行方不明のゴットフリートが出てきたからには、あの幼子(おさなご)を叙爵王が臣下に爵位を与え、貴族の列に加えること。してブラバントの跡継ぎにするよりあるまいが。本当ならばあの騎士を喧嘩両成敗で処断してやろうと思っておったが、やはり英雄には手をつけぬが得策じゃな。
D: 事ここに至っては、致し方ございますまい。あと、摂政主君が未成年者の時に、その政務を代行して行う役職。日本では代々藤原氏がこの官職を独占した。として、陛下の息のかかったものをブラバントに送り込めば、公爵領は陛下のもの同然。さらに陛下のお力も、お強くなるでございましょう。
H: ふふふ、まっことその通り。ゴットフリートをこれへ呼べ。
D: 御意。ゴットフリート、陛下がお呼びである。これへ参れ!
幼いながらに作法をわきまえ、ハインリヒの御前ににじり寄るゴットフリート。ハインリヒは佩剣をすらりと引き抜き、ゴットフリートの両肩に剣の峰を乗せる。伝令が高らかに宣言する。
D: そのほうをこれよりブラバント公爵に叙する。心して任地の治世に励み、陛下に忠勤を尽くすべし!
ゴットフリート(以下G): 承りました。及ばずながら、誠心誠意、相務めまする。
H: うむ、そなたには、心優れた後見人をつけてやろう。そのものの言うことをきき、姉の面倒もしっかり見てやるのだぞ。
G: はっ!
H: さあ、ブラバントの内紛はこれにて一件落着。我が軍はこれより、マジャール人の横暴を止めるべく、ハンガリーへと向かう。皆のもの、抜かるでないぞ!
群衆一同: おう!
再び小声でささやく主従。
H: これでよいのだな?
D: 完璧でございます。やっかいな二人をともに処分することができました。陛下の御代は、ますます栄えることでございましょう。いずれ、陛下の麗しき業績の数々を、あの騎士と重ね合わせて、後世に伝えねばなりますまい。
H: 奴の人気を横取りしてやるというわけか。白鳥を捕まえた「ハインリヒ捕鳥王」、それも一興じゃ。詩人をしっかり籠絡して、わしを称える詩を書かせるのだぞ。
D: 抜かりはございませぬ。
H: 出発じゃ!
第4回・了
ワーグナー 《ローエングリン》
バーデン・バーデン祝祭劇場 2006
ケント・ナガノとニコラウス・レーンホフのコンビによる 《ローエングリン》の映像。ケント・ナガノによる明晰なワーグナー解釈と、レーンホフのシンプルながらも印象的な冷たい美の世界から、新たなローエングリン像が浮かび上がります。ワーグナー歌いの概念を覆す話題のテノール、フォークトと、クリンゲルボルンの叙情的でしなやかな歌唱が指揮者に呼応し、オルトルートの第一人者マイアーが圧倒的な存在感を示します。
ローエングリン:クラウス・フローリアン・フォークト
ハインリヒ王:ハンス=ペーター・ケーニヒ
エルザ:ソルヴェイグ・クリンゲルボルン
テルラムント:トム・フォックス
オルトルート:ヴァルトラウト・マイアー
王の伝令:ローマン・トレーケル 他
演出:ニコラウス・レーンホフ
指揮:ケント・ナガノ
ベルリン・ドイツ交響楽団
マインツ・ヨーロッパ合唱協会
2006年6月1、3、5日 バーデン・バーデン祝祭劇場