「レコード芸術」などで活躍する気鋭の評論家、広瀬大介さんが、オペラに登場する日の当たりにくい脇役になりきり、そのオペラの魅力と鑑賞のツボを押さえた作品解説、対象映像の演出について語る、世にも不思議ななりきり一人称ガイド。
これぞ自己言及のパラドックス!ねじれの向こうに真実がみえる!
1973年生。一橋大学大学院言語社会研究科・博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『リヒャルト・シュトラウス:自画像としてのオペラ』(アルテスパブリッシング、2009年)、『レコード芸術』誌寄稿のほか、NHKラジオ出演、CDライナーノーツ、オペラDVD対訳、演奏会曲目解説などへの寄稿多数。
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最近、無味乾燥な歴史書の代表格『徳川実記』に現代語訳が登場しはじめ、うれしさを噛みしめつつも、昔苦労して読んだのは何だったのか、と一抹の寂しさも感じているところ。好きな食べ物は相変わらず甘いチョコと甘い梅酒。
《こうもり》とは
オーストリア・ハプスブルク家が傾きつつある時代のウィーンを、この上なく巧みに写し取ったと言われる《こうもり》。だがその台本は、純粋なウィーン産ではなく、ベルリンのロデリヒ・ベネディクスによる喜劇《牢獄》(初演:1851年)がそのおおもとである。オッフェンバック作品の台本の多くを手がけていたアンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィが、この喜劇を元に《晩餐(大晦日の夜の大騒ぎ)》というヴォードヴィルに仕立て上げ、リヒャルト・ジュネーとカール・ハフナーが翻案し、舞台をパリからウィーンへと移して書き直すという、何人もの手が入ったもの。自身の楽団を率い、ワルツ王として令名を馳せたヨハン・シュトラウス2世は、この《こうもり》をわずか42日間で作曲してしまったという。初演は、アン・デア・ウィーン劇場で、1874年4月5日に行われた。
オッフェンバックが自身のオペレッタで、辛辣な社会風刺・政治批判を繰り広げるのに対し、《こうもり》ではさほど社会に対する風刺と言った要素は前面には出てこない。これはパリとウィーンの政治的風土の違いもさることながら、当時のウィーンが置かれていたあまりに暗い世相とも関連があるのだろう。「全てはシャンパンのせい。飲んで全てを忘れよう」というのが、シュトラウスを含む大方のウィーン人の率直な気持ちだったに違いない。
1874年1月8日早朝。ウィーン市内の刑務所。ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン氏が、8日間の拘置期間を満了し、出所することになっている。アイゼンシュタイン夫人ロザリンデは、オルロフスキー公爵に引き抜かれたアデーレの代わりとなる小間使いがすぐに見つからないため、とりあえずその姉であり、バレリーナを務めるイーダに中継ぎを頼んでいる。夫の浮気騒動に未だ釈然としない思いを持ち続けているロザリンデは、自ら出所に立ち会うのを躊躇し、とりあえずイーダを迎えとして刑務所へと赴かせた。
イーダ(以下I): 何なんだろうね、ここは。辛気くさくって、寒いったらありゃしない。前回は警察で、今回は刑務所? 勘弁してほしいよね。何であたしがご主人さまの迎えになんか来なきゃいけないんだろうね、まったく。あの鼻持ちならないロザリンデ奥様が、自分で迎えに行くのが筋じゃないの? このストーブ、火も入ってないじゃないか。こんな所にいたら風邪ひいちまうよ。ちょっと、誰かいないの? ねえったら!
フロッシュ(以下F): なんだ。朝からうっせえな。そんなにがなり立てたら、頭に響いていけねえや、ヒック。
I: あ、あんた、一週間前に、私を13号室で脱がそうとしたカエル野郎!フロッシュ Frosch=ドイツ語で「カエル」
F: うっせえ、カエルって言うんじゃねえ! これでもちったあ気にしてるんだ…。この前は、せっかく俺が、体を洗ってやろうってのに、おめえのほうが嫌がったんじゃねえか。
I: 誰だって嫌がるに決まってんだろ! この前会ったときは大晦日だから酔っぱらってんのかと思ったけど、どうやらその様子だと、年がら年中酔っぱらってるみたいだね。
F: おうさ。いやしくもハプスブルク帝国の官僚たるもの、勤務中に酒を飲んではならぬ、っつう規定はないからな。
I: 当たり前すぎて、そんなことわざわざ書かないだけだと思うんだけど。
F: ったく、うるせえ女だな。おめえはいったい、こんな所に何しに来たんだ? おめえの妹の…アイーダだっけ? あいつなら、もうあの公爵様にもらわれちまったよ。
I: アイーダじゃないって! 妹とあたしの名前を混ぜないでよ! あの子はアデーレっていうの。あたしはイーダ。覚えた? 今日はうちの鉄石さんを引き取りに来たんだよ。旦那さん、もう今日で釈放だろ?
F: てついし?? ああ、アイゼンがてつで、シュタインが いし…、das Eisen=鉄、der Stein=石、ってここにも書く必要はないですね…。って、おめえそうやって、洒落たつもりで登場人物の名前の由来をガイドしてるんだな?! いい加減このコラムも7回目だもんな、わかってんだぞ、おめえの手口は。
I: ちょっとあんた、ネタばらしするんじゃないよ。そもそも、まともな名前なんて、私だけなのよねー。イーダなんて、思いっきりフツーの名前なんだから。他の人達はみんなおかしな名前ばっかり。うちのご主人さまなんて、名前からして、いかにも堅物、って感じでしょ?
F: ああ、確かにいけすかねえ野郎だったぜ。何かっつうと、すぐに「それだからハプスブルクは没落したんだ」って、二言目には言いやがる。むかつくったらありゃしねえ
F: その割にはうちの所長と仲よさげじゃねえか。所長、生粋のウィーン人だぞ。昨日も鉄格子を挟んで奴と一緒に飲んでたぜ。どういうことなんだ、あれ?
I: そうね、それは確かに不思議かも。名前、フランクっていうんだっけ? だから、公爵様の舞踏会で、フランスの騎士シャグランとか名乗らされたんだね。Frankeは、かつての西ゲルマン王国を建てたフランク人を指し、その子孫たるフランス人を指す言葉としても使われる。フランスのドイツ語名は、現在でもFrankreich(フランク人の国)と呼び慣わされる。
F: は、フランスの騎士? うちの、あの、所長が?! ハッハッハ、こいつはいいや。所長、フランス語なんか一言ももわかんねえくせに、よくそんな度胸があったもんだな!
I: 公爵にたぶらかされたのよ、きっと。ファルケ博士の悪巧みも、ぜーんぶうまくいったみたいだし。
F: ファルケ? 誰だそれ?
I: ああ、あんたはちゃんとしゃべったことないんだったね。ご主人さまのお友達。「こうもり博士」なんて呼ばれちゃってね。名前の由来についてはご主人さまがオペラの中で得意げに解説してるから、それを聞いてあげて。
F: もう難しい話はいいって。いつも飲みすぎで、頭ズキズキ痛えんだから。で、あのプロイセンのおっさん、あいつの引き渡しに当たっては、弁護士の立ち会いが必要なんだが、ちゃんと連絡はついてるか?
I: ブリントでしょ。大丈夫、あの弁護士は後でちゃんと来るって。
F: わかった。じゃあ、ちょっと待ってろ。今、書類取ってくるから。
I: 大丈夫かねえ。違うもの持ってこないように、気をつけなさいよ。あと寒くてたまんないからさ、ついでにストーブに入れる薪なり炭なり、何か持って来なさいよ。
F: おう、任せとけ。今はオペラ本編じゃねえから、客を笑わせる必要がねえもんな。ちゃんと持ってくるぜ。
I: そういう問題なんだ…。
待つこと数分。手に書類と薪を抱えたフロッシュが、ほろ酔い加減、千鳥足で戻ってくる。何故か、《こうもり》第1幕、アルフレードのアリアを口ずさみながら。酔っているにしては、手早くストーブの火をおこす。
F: ♪忘れるやつは~ 幸せだ~
I: ちょっと、何歌ってんのよ。
F: あのイタリア野郎が歌ってた歌がよ、なかなかいい歌でな。つい覚えちまったよ。それにしてもよ、何であのイタリア人、最初プロイセン野郎の代わりにここへやって来たんだ?
I: ああ、それは…。
F: ん、どうした? さては女がらみか?
I: あんた、そういうところだけは、妙に勘が働くんだね。
F: ははーん、あの鉄石野郎とイタリア野郎、それに鉄石のかあちゃんと三人、世に言う三角関係っていうやつでやんすね?
I: なに嬉しそうな顔してんのよ。ああ、そうそう、そういうこと。で、結局鉄石はまるめこまれて、イタリア野郎と奥様の不倫については知らぬが華、ってことになったわけ。
F: 俺たちが目を離していた隙に、そんな修羅場になっていたとはねえ。
I: でも、私が知ってるいつもの修羅場とは、随分雰囲気が違ってたみたいだけど。
F: ああ、それはな、この舞台の演出が、スティーヴン・ローレスとかいうエゲレス人だったからだ。奴のお国はシェークスピアだか何だかしらねえが、やたら劇の部分に力を入れやがるんだ。お蔭で俺も出番が増えたけど、台詞が増えていけねえや。まあ、芝居の部分は上演する国によってもさまざま、っつうのが、オペレッタのお約束らしい。それに俺としては、普段安酒しか飲めねえのに、高いシャンパンを飲ませてもらってありがてえ限りだけどな。
I: だから、ロザリンデ奥様とイタリア人の逢い引きも、普段よりも妙に念の入った演技になってたんだ。
F: 音楽も随分やかましかったしな。やかましいのは別の理由もあるって言うぜ。
I: なによ、それ。
F: そもそもこのオペレッタ、アリアが異様に少ねえと思わねえか? 第1幕は二重唱と三重唱しかねえし、第2 幕にようやくオルロフスキー公爵の短いクプレと鉄石かあちゃんのチャールダッシュ。第3幕のアイーダ、じゃねえや、アデーレのアリアだって、おめえと所長が合いの手入れてんだろ。重唱だらけじゃねえか。
I: いわれてみりゃ、確かにそうね。
F: それだけじゃねえぞ。オーケストラだって、何だかしらねえけど、妙にズンチャカ盛大にやってるじゃねえか。ベートーヴェンの交響曲とか、ワーグナーの《マイスタージンガー》と、オーケストラの人数が大差ねえんだぞ。昔、あのプラシド・ドミンゴがコヴェントガーデンで指揮したときに、第1幕でワーグナーの《ワルキューレ》の一節をはさみやがったんだ。大して違和感なく聴けちまうのも、このオペレッタとワーグナーが、同時代に生まれたからかもしれねえな。
I: あんた、そんなことまでよく知ってんねえ。重唱ばっかり入れたのも、分厚いオーケストラに対抗するためだってことなのかい?
F: それもあるような気がするね、俺は。
I: 何だか、頭の周りがいいよね。すっかり酔いが醒めちまったみたいじゃないか。
F: そ、そんなことはねえよ。変なこと言うんじゃねえよ。照れるじゃねえか。顔が赤いのは酔ってるせいだからな。ほら、ここにスリボヴィッツすももから作った蒸留酒。♪一口飲めば~ みんな幸せ~。お、そんなこと言ってる間に、あの弁護士がやってきたぜ。
ブリント登場。普段にも増して落ち着きがなく、その様子を訝しむ二人。
I: ちょっと、あんた、遅いじゃない。何やってたのよ?
F: 俺だって、酒の量をいつもよりちょっと減らして、待ってやってたんだぜ。
ブリント(以下B): た、大変です!あ、アイゼンシュタインの奥様が、やっぱり…。
I: やっぱり、何なのよ、ハッキリ言いなさい!
B: り、離婚してやる!!! と仰って…。
F: おいおい、それは穏やかじゃないね。
B: わ、私も好き勝手に生きてやる! と、仰って、い、家を出ると…。
I: ハハーン、イタリア人歌手と駆け落ちね。ロマンティック!
F: そういうわけにはいかん! ハプスブルク家の官僚たるもの、オペレッタ的なハッピーエンドを乱すような登場人物の行動は、決して容認してはならぬという規定がある。 国の存立を危うくする鉄石かあちゃんは、許しておけん。彼女も逮捕だ!
I: 何だか面白くなってきたじゃなーい? あたしも野次馬で見学しに行こっと。
B: あ、あの…。
I: 何よ!
B: あ、あい、あい…。
I: 愛がどうかした? その問題を解決しに行くんだからほっといてよ!
フロッシュとイーダ、刑務所をとびだしていく。後に残されたブリント。
B: あい…ゼンシュタイン氏は、そ、そのまま監獄の中ということで、 よ、宜しいのでしょうか…?
第7回・了
J.シュトラウス 喜歌劇《こうもり》
グラインドボーン歌劇場 2003
年末年始の定番オペレッタ《こうもり》を、イングランド風に味付けして会場を笑いの渦に巻き込んだ、グラインドボーン音楽祭2003年のライヴ映像。演出家スティーヴン・ローレスは台本に大幅な脚色を施し、この作品に劇としての厚みも加えた。トーマス・アレン、アームストロングら「歌う俳優たち」が熱演を繰り広げ、ユロフスキが切れ味鋭くタクトを振る快演!
アルフレート:ペール・リンドスコグ
アデーレ:リューボフ・ペトローヴァ
ロザリンデ:パメラ・アームストロング
アイゼンシュタイン:トーマス・アレン
ファルケ博士:ホーカン・ハーゲゴールト
イーダ:ルネ・シュッテングルーバー
フロッシュ:ウード・ザーメル 他
演出:スティーヴン・ローレス
指揮:ウラディーミル・ユロフスキ
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 グラインドボーン合唱団
2003年8月17日 グラインドボーン歌劇場(グラインドボーン音楽祭、イギリス)