1945年8月15日に太平洋戦争が終結。そこから70年の間に、いろいろな歌が生まれ、歌い継がれてきました。 こどものうた編ではラジオやテレビから生まれた、子どものうた、そしてアニメの主題歌までを対象に選曲。懐かしくもあり、これからも歌い継がれていくであろう、“子どもたちのために生まれた歌”を厳選して収録しています。
1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京と静岡県伊東市を結ぶ、初めてのラジオの「二元放送」が行われることになり、川田正子(12歳)が出演することになっていました。新曲を依頼されていた作曲家の海沼實氏は前日になっても作品ができず、そこへ取材に訪れた雑誌編集長の加藤省吾に事情を話し、その場で作詞のお願いをしました。加藤氏は依頼から約30分で歌詞を完成させました。原稿を受け取ると海沼氏はGHQで詞の検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲を始めます。車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと前奏が浮かび、伊東線の宇佐美駅付近でようやく曲が完成。8分の6拍子と日本には珍しい拍子ですが、優雅な楽曲が生まれます。宿に着くと海沼氏は作ったばかりの旋律を口移しで川田に教えますが、翌日の放送ではまだ歌詞を覚えてなく、海沼氏が名刺の裏に書いた歌詞を見ながら歌う、という慌ただしさでした。歌は日本全国に大反響を呼び、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで歌い継がれています。
元々は戦時中に作られた童謡で「兵隊さんの汽車」という曲でした。昭和20年大晦日にNHKラジオの歌番組で歌う際に、歌詞を変えて歌うように言われ、作詞者である富原 薫氏自身の手で、急遽、改題・改作をし、現在に歌われている「汽車ポッポ」という曲になりました。
最初は、フジテレビの大人向け音楽バラエティ番組『ヤマハ・タイム』の中のコントで使用される曲として作られたものでした。その後、吉岡 治氏によって子ども向きの歌詞に一部変更されて、NHKの『うたのえほん』で月歌として歌われ、人気曲に。眞理ヨシコ・ゆりかご会が歌ったシングル・レコードが大ヒットとなり、1963年第5回日本レコード大賞の童謡賞を受賞しました。