敗戦から復興へ向けて歩みだした時代、その象徴的な曲として語られ、“時代の歌として”今も広く知られる「リンゴの唄」は、8月15日以降オリジナル曲として最初に制作、発売された“戦後第1号歌謡曲”でもあった。しかも娯楽の王であった映画主題歌として作られ、12月10日に放送されたNHKの希望音楽会で歌われ広がった。この時期映画と、ラジオの音楽番組が歌流行のキーであったのは、映画とラジオが国民の娯楽のメインであったことの証であろう。映画主題歌としてヒットした曲は「悲しき竹笛」「星の流れに」「東京ブギウギ」「三百六十五夜」など昭和21年から23年にかけても多く、この後も「青い山脈」「悲しき口笛」「君の名は」「この世の花」「喜びも悲しみも幾歳月」など、歌のヒットから映画が企画されるというケースもあり、戦前からの映画と歌謡曲の蜜月時代は続いていた。
一方、お茶の間の娯楽の王ラジオからは「みかんの花咲く丘」「とんがり帽子」と子供の歌から「僕は特急の機関士で」先述の「君の名は」とヒットが生まれたが、ラジオの歌電波の役割は強力で、今も続く「のど自慢」「三つの歌」と言う歌好き聴取者参加番組は重要な歌流行の発信の場であった。それと並び戦前の国民歌謡の流れが新たにラジオ歌謡となり、レコード会社の企画からは生まれにくい抒情歌謡を生み出した。「朝はどこから」「山小舎の灯」「白い花の咲く頃」「森の水車」「あざみの歌」などが列挙されるが、ラジオ歌謡の成功がなければ「イヨマンテの夜」「水色のワルツ」「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」等の歌曲的な歌謡曲は企画されなかったかもしれない。
「リンゴの唄」の軽快な明るさとクロスするように、アメリカ音楽が、進駐軍とともに移入、昭和初期にはジャズ音楽の洗礼をうけていた音楽家たちの活躍の場も復活した。「愛のスイング」「東京ブギウギ」「買物ブギ」「お祭りマンボ」と洋楽ポピュラーのエッセンスをもつ流行歌も台頭、能動的な娯楽のメインであったダンスの復活隆盛も背景にあった。洋楽、その日本語によるカバー・バージョンと並び、ダンスリズムをとりいれた歌謡曲の全盛期でもあった。「夜のプラットホーム」「懐しのブルース」「赤い靴のタンゴ」「水色のワルツ」「さよならルンバ」と“ダンス・リズム歌謡全盛期”でもあった。
ところで、戦後の象徴する歌は「リンゴの唄」だけではない。抑留や、海外からの引揚げを経験した人には「かえり船」のほうがはるかに戦後をイメージするかもしれない。実はこの時代の歌はほとんどが戦争とは無関係ではなかった、明るいたくましいく風俗を歌った「東京の花売娘」「東京ブギウギ」「ひばりの花売娘」「東京シュー・シャイン・ボーイ」「東京キッド」とポップな歌もこの頃の時代感を表すものだが、多くのヒット曲は“別れ”がテーマであり、肉親、恋人、知人、との様々な別れを経験した日本人に共通する“思い”を歌っていた。「悲しき竹笛」「啼くな小鳩よ」「夜のプラットホーム」「港が見える丘」「フランチェスカの鐘」「湯の町エレジー」「長崎の鐘」「水色のワルツ」など、先述したラジオ歌謡のほとんどは別れを歌っている。
朝鮮半島で戦争がはじまり、その特需で、糸篇金篇産業が好景気、昭和25年ごろから日本の繁華街は、「トンコ節」「ヤットン節」「ゲイシャ・ワルツ」「黒田節」「炭鉱節」で沸きかえり、宴会にふさわしい歌も世に席巻した。
昭和30年代に入ると、戦争の傷跡をひきずりながらも、経済的に高度資本主義国へ成長しながら都会へ移入する人が増え、歌のテーマも田舎から都会への旅立ちと別れ、都会での孤独、都会への憧れと微妙に変化、三橋美智也、春日八郎の人気曲や「早く帰ってコ」「柿の木坂の家」「逢いたかったぜ」「どうせひろった恋だもの」「東京のバスガール」と都会(トウキョウ)と地方がテーマに歌われた。少女歌手として昭和24年にデビューした美空ひばりが大人の歌手として艶やかに「港町十三番地」「波止場だよお父っあん」と新境地を開いていくなか、歌手コンクール出身の島倉千代子は「この世の花」から「りんどう峠」と順調に、スター歌手への地歩を固め、新しい男性スター歌手小坂一也が「青春サイクリング」で、神戸一郎が「十代の恋よさようなら」でアイドル的人気をえて、歌謡界の状況は新しい局面を迎えようとしていた。だがこの時代までの戦後の歌謡曲、流行歌は間違いなく「世につれて」あり、時代を生きた人には、リアルな自分史と繋がる時代の歌としてあり続けるのではないだろうか。 「リンゴの唄」から始まった戦後歌謡は、70年後の今以上に、時代相を映し出して、国民共通の歌としてあったのだ。