戦後のポピュラー大全集
~ボタンとリボン・愛の讃歌~

解説

時代(とき)は1950年。
女性のファッションは、明るく開放的なアメリカン・スタイルが大流行し、NHKラジオ『引揚者の時間』が放送終了となったのもこの年でした。
レコード産業に復興のメドがつき、外国との原盤に関するライセンスも新契約され、海の向こうで既に流行していたポピュラー・ミュージック、即ち戦後録音の洋楽レコードが次々と発売され(※1)るようになりました。本格的にポピュラー・ミュージックが流れ込んできた!のです。
敵国のものと遠ざけられていた洋楽(※2)でしたが、異国文化への憧憬が強くなっていた人々は、すぐにそれを吸収、洋楽を聴くことが馴染みのあるものとなり、音楽市場は邦楽に洋楽が加って、俄然活況を呈するようになります。

そうした流れの中、戦前からあったスタイルではありましたが、外国曲に日本語詞をつけて(訳詞というよりはむしろ作詞)日本人歌手が歌う、今でいうところの<カヴァー盤>も登場。その先陣を切ってヒットしたのは、池 眞理子の『ボタンとリボン』(前年の12月に公開されたアメリカ映画『腰抜け二丁拳銃』の主題歌)と黒木曜子の『ベサメ・ムーチョ』(1940年に作られたラテン曲)で、特に『ボタンとリボン』は、歌詞の♪バッテンボー♪が流行語にもなり、まだ幼稚園に行く前だった私も、なにかというと♪バッテンボー、バッテンボー♪と歌?っていたことを覚えています。やがて、十代のジャズ歌手(後年はポピュラー歌手といわれるようになります)などが続々とデビューし、この今でいうところの<カヴァー盤>のリリースが加速。一つのジャンルとしてのまたたく間での興隆は、<流行歌>としてヒット・チャートを占有するようになりました。 さてさて、上述で、今でいうところの…と、くどく書いていた<カヴァー盤>ですが、当時はカヴァーといういい方はしていなかったからで、<洋・邦譜盤、洋・邦訳詞盤、洋楽(ポピュラー)日本吹込み盤とかローカル盤>などといういい方が、特に決まりがあるものとしてではなく、まちまちに使われていた記憶があります。
この<洋楽ローカル盤>には、元のオリジナルが映画の主題曲、すなわちインストゥルメンタル曲に、独自の詞(まさに作詞)を付けて歌っていたものも少なくありませんでした。また、数人による競作となる曲も多くあり、それぞれ発売するレコード会社によって歌詞が異なっていました。さて、そういうケースの場合一番耳に残る歌詞としては、どうしても露出度の高い、それ故聴く機会が多い人気歌手の歌唱詞が挙げられます。しかしながら、好きな歌手・好きな歌詞などは、当然人によって違うもの。当たり前のことですが、印象強く残っている詞は、人それぞれの強い思いによって差異があったのが実際のところのことだと思います。
いずれにしても、オリジナルも聴いてはいたけれども、歌うのは、いや歌えるのは日本語詞で、という御仁も多かったのではないでしょうか。また、<洋楽ローカル盤>を聴くことが、洋楽への入口だった御仁も、多かったことと思います。

エス・イチハシ