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白波多カミン

INTERVIEW

白波多カミン オフィシャルインタビュー

 魔女のようなコだと思った。と同時に、幼女のようなコだなと見紛う瞬間もあったり、聖母のようにも思えたり、淑女の横顔を見せたり。マイクに噛み付いてくるかと思ったら、やさしく撫でてくるように歌う。もう3年ほど前になるだろうか、彼女との出会いは、そう、右に左に、赤に黒に、真夏に真冬に……と翻弄させられ軽く目眩を起こすような“事件”だった。

 白波多カミン。細っこくて愛らしい雰囲気を漂わせつつ、ギターを手にしてマイクに向かうとたちまちキリリと鋭い視線を投げかけてくるシンガー・ソングライター。京都の町中に生まれ育ち、神社で巫女の仕事をしていたこともある、そんな経歴もミステリアスな雰囲気を醸し出しているが、実際に彼女は変幻自在な表情を持ったつかみ所のない女性だ。何かを追い求めるかのように自ら曲を書き、歌い始め、関西の様々なライヴ・ハウスのステージを踏みながら、ギューンカセット、アルケミーといった関西の老舗インディー・レーベルから作品をリリース、熱心なファンを徐々に獲得していた京都時代。そこに飽き足りず、次なる活動の場を求めて東京へと向かった時の心境は、いみじくも当時の曲にも反映されたりもしているが、しかしながら、彼女はそうしたセンチメントに決して流されることなく、新たな地でたくましく新たな仲間を見つけ、本来やりたかったことを次第に具現化させていく。本来やりたかったこと……それはバンドの中の一員として歌う、ということ。今でも思い出す。京都のカフェで一緒にお茶した時にポロっと彼女が漏らした一言を。「私、同じ世代とか感覚を持った仲間と組んでみたいんですよ」

 出身地である京都から東京へと拠点を移して約3年。久々に会った白波多カミンは、自分でも収拾がつかなかった言葉と音を丹念にコントロールしながらカタチにして、それを受け止めてくれる仲間へ存分にパスできるようになった、その充実した活動に心から満足しているかのように、生き生きと華やいだ表情を讃えていた。もちろん、相変わらずちっちゃくて細くて愛らしい少女のような風合いは変わらない。だが、その瞳はしっかり地に足をつけて表現活動をしていることの自負を映し出していた。
「自分で自分の場所を作らないといけないんだなって思ったら、意識もだんだんと変わっていって。京都にいる頃は、自分の中の、自分のためだけに作られた音楽だったんです。それを外に伝えていくことが難しくて、しかもわかりあえる仲間とかがなかなか見つからない、そんな感じもありました。でも、今は……もちろん自分の中のものを作品にする、というのは変わらないんですけれど、それが自然と出せるようになったし、自分の中だけから曲が生まれる、ということがなくなり、周囲の色々な人たちからモチーフをもらえたり……って変わっていったんです。例えば……友達の女の子が首を振ったらいい匂いがした、みたいなささいな出来事から曲が生まれるようになったんですよ。自分以外の人に興味を持てるようになったってことなのかもしれないですね」

 最終的に白波多カミンが自分の歌に与えている、もしくは曲に対してこめようとするのは恐らく活動開始当時も、現在もさほど変わってはいないだろう。だが、モチーフや目線は明らかに変化した。天使にも悪魔にもなれる、もしくはそのどちらにもなれず、所在なさげに行ったり来たりするしかない自分を、自意識をほとんど制御できないまま言葉とメロディにしていた彼女は、今や、そうした体験から生まれた歌の欠片を冷静かつ楽しみながらフィクションとして育てていけるようになっている。ここに届けられたメジャー・デビュー・アルバム『空席のサーカス』を聴いて驚かされたのはまさにその部分だ。
「最初は本当に心細かったんですけど、私がソロで東京でライヴをやるようになってから対バンとかで出会ったのが今のバンド……Placebo Foxesのメンバーだったんです。すごく自然に理解し合える仲間が徐々に見つかって……私、単純にもっと無邪気に音楽をしたかったんだな〜って気付きましたね。もちろん、一人でやってる頃は、やりたいと思ったらすぐ音にして、それをライヴでやって…ってことができたわけで、今は、メンバーみんなと共有しなければいけないから大変だなあ、なんでこんな大変なんだろうって思い悩んだりもしますよ。男の子3人に対して女性は私だけだし(笑)。でも、何度もぶつかりあっていく楽しさも覚えてきて。だからこそ、自分の中から出てくるものだけじゃない曲も生まれるようになったし“白波多カミンの曲=私自身の経験”って感じにはならなくなったんじゃないかなって思いますね」

 『空席のサーカス』には溢れるほどの情熱はそのままに、でも情熱の中に溺れてしまわぬように、ストーリーテラーとして作品へと昇華させることに成功した10曲を収録。過去の作品で既に発表されてきた曲も含まれているが、新たに録音されたここでの最新型の白波多カミンはこれまでになく開かれた目線で歌っている。尤も、彼女がここまでオープンになれたのは、もちろん現在共に活動をしているバンドの仲間ーーGateballarsの濱野夏椰、jappersの上野恒星、そして、QUATTROでの活動を経て現在はGolden Katies!!、thattaなどで活動する照沼光星の存在も大きい。彼らのオルタナ〜洋楽指向と、白波多カミンの純然たるフォーク、歌謡曲指向とがミックスされたことで、彼女が音楽を通じて内面から抽出してきたパッションが外に向かって実にフィジカルかつ躍動的に結実されているのだ。PJハーヴェイ、コートニー・ラヴ、最近だとグラミー賞にもノミネートされたコートニー・バーネットや、ケヴィン・クラインとフィービー・ケイツの娘としても話題のフランキー・コスモスといった女性アーティストとの共振を実感することもできる。
「私自身はフォークとか歌謡曲が好きで聴いてきてて、洋楽とかほとんど知らないんですけど、一人でやっていた頃から“女性カート・コバーン”みたいな気持ちでいたんです。それが、今回本当にバンドでイチから作ることが出来てすごく手応えがありました。本当にしたかったことが今回やっと出来た!って」

 そして、こうした化学変化を理解し、見事にまとめあげ、作品としてプロデュースしているのがMO'SOME TONEBENDERの百々和宏。特定の他アーティストを正式にプロデュースすること自体初めてという百々と、ずっと“一人カート・コバーン”のつもりだったという白波多カミンの相性の良さは……もうこの『空席のサーカス』の仕上がりが物語っていることだろう。スティーヴ・アルビニが手がけたPJハーヴェイの『リッド・オブ・ミー』(93年)のような…と喩えてはやや時代が遡り過ぎだろうか、あるいはベックがプロデュースしたシャルロット・ゲンズブールの『IRM』(2010年)でもいいが、いずれにせよ、ソングライターで歌い手でもある白波多も、プロデューサーの百々も、互いの表現の自由とエゴを尊重し合いながら、互いに息吹をかけ合いながら予想もつかない方向へと導いていく奇跡のようなものがここにあると言っていい。そう、なるべくしてなった化学反応をここに感じ取る人は私だけではないはずだ。
「百々さんのソロ作品がすごく好きだったんです。お会いしたことはなかったんですけど、MO'SOMEのライヴを見に行っても超絶にカッコ良くて。“本当にボクでいいの?”って百々さんは言ってましたけど、絶対にやってもらいたい、百々さんしかいない!って思って……。思うんですけど、曲は一回完成したら自分の手元から徐々に離れていくものなんですね。“僕が君に伝えたいこと”を歌うんだけど、出来上がった時にはもう“僕と君”だけのものじゃなくなるんです。巣立った! いってらっしゃい!みたいな感じ(笑)。これは前々から変わってないんですけど、東京で活動するようになって、今のメンバーと出会って、そのスピードが早くなった感じがするんですけど、百々さんに今回プロデュースしてもらって、そこが面白いなあって思えるようにもなりました」

 白波多カミンの曲の世界は、情念を内側にどっしりと溜めた女性の本音が綴られたものが多い。一人の男性を好きになってしまった自分に酔ってしまったり、そこから逃れられない自分の責任を外に投げてみたり、そんな自分を愛おしいと思ってしまったり……言ってみれば面倒くさい女の子たちがどの曲にも棲みついている。だが、今の白波多カミンはそうやって自分の曲の中に巣くうっている、ちょっと面倒くさい、ちょっと可愛らしい女性たちを、自分の分身としてではなく、あくまで誰の心の中にでもいる媚薬を抱えた妖女、時には邪気のないフェアリーとして語り部になって描く。それは、このテキストの冒頭にも書いたように、彼女自身が魔女だったり幼女だったり聖母だったり淑女だったり…といったように様々な表情を持った女性であることの証左ではないか。
「どんな女性にもこういう側面ってあると思うんですよ。そこをつついてあぶり出したかったっていうのはありますね。私もそうだし、たぶんこれを聴いてくれる女性みんなにあてはまるだろうなって。だって、面倒くさいけど、人間くさくもあるでしょ? そこが面白いな、ちゃんと作品にしたいなって思ったんですよ。私、小さい頃から女の子であることに割と抵抗があったんです。なんで女性なんだろう? なんで男性なんだろう? みんな一緒でいいのに、分かれる必要あるのかな?って。そこから自由になりたいなってそこにずっと疑問を持っていたんですけど、今はその性差みたいなのに茶々を入れたいなって思うようになって。女性ってなに? 男性ってなに?って。そこがちゃんと自分で理解できてコントロールできるようになったという意味でも、今回のアルバムはすごく大きな意味を持った作品だと思います」

 そう、だから、本作は決して女性目線で書かれた作品ではない。男性に置き換えた時にも、あるいはそのどちらでもない境遇に置き換えても、極端に言えば、動物や植物に置き換えても、おそらくは脈動させることができるだろう。そして、我々はこの作品に翻弄されながら、次第にきっと気づくようになるはずだ。この『空席のサーカス』というアルバムをとりまく嫉妬、正義、邪念、情念、諦念……あらゆる感情、意識、哲学が、生命体として生きとし生ける者全てにとっての真理であることを。

TEXT:岡村詩野

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