HISTORY OF THE JUICY FRUITS

 それまでまったく異なったフィールドで活動をしていたアーティストがパンクやニューウェーヴの洗礼を受け、それまでの過去(それこそ、音楽性からヘア・スタイルやファッションに至るまで)を捨ててテクノ・ポップやニューウェーヴのバンドを結成する。70年代終盤から80年代初頭にかけて、日本ではそんな光景がよく見られたが、ジューシィ・フルーツもまた、そのようにして生まれたバンドの一つであった。
 バンドの母体となったのは、ハルヲフォンを解散した近田春夫が1979年に新たに結成したバンド、近田春夫&BEEF。映画『ファントム・オブ・パラダイス』に出てくるホモのロック・シンガーから名前を引用したこのBEEFなるバンドが結成されたいきさつを、メンバーの柴矢俊彦は次のように語る。

「もともとハルヲフォンが自然解体みたいになって、でも近田さん自体はステージの仕事が色々あったんですね。それで、じゃあ新しいメンバーを集めようってんで、まずガールズってバンドをやってたイリア(奥野敦子)に近田さんが声をかけたんです。で、沖山優司君と高木利夫君はアマチュアで一緒に東京スタイルってアヴァンギャルドなバンドをやってたんですけど、近田さんがたまたまリハーサル・スタジオで見かけて、君達面白いねって話になって、声をかけたと。僕はその時は色々な人のバックでギターの仕事をしていたんですけど、あるドラマーの紹介で近田さんに会うことになりまして。それから他に茂木(由多加)さんっていうキーボーディスト(元・四人囃子)と野毛さんっていうパーカッションの人(後にビブラストーンに参加することになるNOGERA氏)がいて。その6人が集められてBEEFが結成されたわけです」

 このような経緯のもとに始動したBEEFであったが、作品を残すことなく発展解消することとなる。そうして生まれたのが、ジューシィ・フルーツであった。

「近田春夫&BEEFでライヴをやっていくうちに、近田さんがレコード会社をキングから日本コロムビアに移籍することになりまして。今もあるのか分からないですけど、当時はレコード会社を移籍する時は半年間レコードを出せないという規定があったんですね。それだったら、バック・バンドだけ先にデビューさせておいて、自分はその6ヶ月後に華々しく何かをやろうみたいなことを多分近田さんが考えたんだと思うんですけど、それで6人の中からルックスが悪い2人が落とされまして(笑)、ルックスのいい4人がジューシィ・フルーツになったというわけです(笑)」(柴矢)

 ジューシィ・フルーツのメンバーとなったのは、イリアこと奥野敦子(ヴォーカル、ギター)、柴矢俊彦(ギター)、沖山優司(ベース)、高木利夫(ドラム)の4人。近田春夫のプロデュースのもと、80年6月1日にリリースされたデビュー・シングル『ジェニーはご機嫌ななめ』は、瞬く間にシングル・チャートを駆け上り、ベスト10内にランクインするほどの大ヒットとなる。

「あの当時、YMOやプラスチックスを筆頭とするテクノ・ポップのシーンがあって、その一方にはサザンやツイストがいて、なおかつアイドル音楽の全盛期でもある、みたいな時代でしたよね。そのおいしいところを全部やるにはどういう風に作ればいいんだろう、みたいなことを近田さんは考えたんだと思うんですよ。だからテレビの現場に行くと、“君達はロックの人だ”と言われ、ロックのイベントに出ると“君達はTVに出てるから歌謡曲系の人達でしょ”と言われる。そのどちらか片方だけには行かないというか、ある意味どっちにも行けたというところはありましたよね。メンバーもそのニセモノくささを思いっきり楽しんでいたというか、インチキっぽいとかバンドっぽくないって言われることが光栄だと思ってましたし。だからテレビに出る時はアイドルみたいにニコニコしながら絶対にロック・バンドがやらないような振りをつけて演奏したりとか、それぐらいやって客を楽しませようっていう意識は高かったですね」(柴矢)

 最終的に『ジェニーはご機嫌ななめ』は34.6万枚のセールスを記録。1980年度のオリコン・年間シングル・チャートでは37位にランクインするほどの大ヒットとなったのであった。
 また同年、彼等は『ドリンク!』(1st)『ジューシィ・ア・ラ・モード』(2nd)という2枚のアルバムをリリース。間髪入れず81年には3rdアルバムの『パジャマ・デート』がリリースされ……といった具合に、半年ごとにアルバム1枚という驚異的なハイ・ペースで作品を発表していく。

「その当時、メンバーもプロデューサーの近田さんの指向もそうだったと思うんですけど、ギター・バンドのかっこよさを追求したいっていうのがありましたね。レコードにはキーボードが入っていたりするんですけど、あくまでもライヴではロックなギターでそういう(テクノ・ポップ的な)音楽を表現するっていうようなところがいいんだ、みたいな。しかも女の子がかわいい衣裳を着てかわいく歌うんだけど、間奏では足を広げてグイ〜ンてギターを弾くのがいいんじゃない、みたいなのが」(柴矢)

 『ジェニーはご機嫌ななめ』で確立された彼等のイメージは、3rdアルバムをもって一段落。82年にリリースされた4枚目のアルバム『27分の恋』からは自分達でプロデュースを手掛けるようになり、アルバムごとにサウンドやヴィジュアルのカラーを変えるなど、シリアスに自分達の音楽と向き合う姿勢が見られるようになる。そして『天然カフェイン』(83年。5th)『Come On Swing 』(84年。6th)とアルバムをリリースした後、85年に解散。メンバーはそれぞれ別の道を歩み始める。

「近田さんがいなくなって、自分達が本当にやりたいのはどんな音楽なんだろうっていうのを考えるようになりましたね。だからこの頃になると、デビューした頃とは全然違うジューシィ・フルーツになっていたと思うんですけど、4人にとっては自然な流れで変わっていったことだったんですよ。
 解散したのは、85年の1月だったかな。個々にやりたいことが当然あったりしたんで、これは発展的に解散して、ソロでやりたいことをやろうってことでスンナリと決まりましたね」

 解散後、沖山優司はベーシストとしてビブラストーンに参加。柴矢俊彦は作曲家として他のアーティストへの楽曲提供をおこなうなど、裏方へとまわり、現在は新人アーティストの育成活動に力を注いでいる。イリアはソロ・アルバムを2枚リリースするなど、ソロ・シンガーとして活動していたが、現在は主婦業に専念しているとのこと。高木利夫は音楽の道を離れて、現在は実家の鉄工所を経営。このように別々の道を歩んでいた彼等が今回『ジェニーはご機嫌ななめ』をニュー・レコーディングするために再び集まったのは、一体いかなる理由によるものなのだろうか。

「今までにもテレビの企画とかで、4人で出演してくれませんかっていう話はあったんですよ。でも1回終わりにしたものを中途半端な形で復活させるのはイヤだっていうのがありましたから、断っていたんです。でも今回は松江君に僕らをうまく今風に料理してもらって、ちゃんとした形で作品を出せるっていうことだったんで、それだったらやってもいいかなと思って」(柴矢)

 しかし残念なことに、4人が再び一堂に会して本格的に演奏するのはどうやらこのレコーディングが最初で最後のようであり、現時点では再結成ライヴといったようなことは一切予定されていない。そういう潔さも、ジューシィ・フルーツらしいところだ。

「松江君の感覚で僕らをすごくうまく料理してくれたなって感じがして、ひじょうに感謝しています。『ジェニーはご機嫌ななめ』はテンポとか多少のサイズの違いはあるんですけど、基本的には(オリジナルと)一緒で、これがいいとこですね。この曲の持ってる面白さっていうのはひじょうにバカバカしくてニセモノくさいっていうところだと思うんで、かっこよく料理しないで未完成な感じを残したところが、さすが松江君だなって。で、『ビート・タイム』は思いっきり料理されちゃって全然違うものになったし、『恋はベンチシート』もバカバカしさを残しつつ、サウンドはまったく違う今のものになっているじゃないですか。だからそれぞれ彼なりに色をつけてく れたなっていう気がしていて。ジューシィ・フルーツを知らない今の若い連中がこれを聴いて、こんなことをやってもいいんだ、みたいに多少なりともいい影響を与えることができたら、これはもう最高の幸せですね」(柴矢)


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