村田英雄プロフィール

PROFILEプロフィール

村田英雄

村田英雄

◇ 本名:梶山勇
◇ 生年月日:昭和4年1月17日
◇ 出身地:佐賀県東松浦郡相知町(現:唐津市)

昭和8年京山茶目丸を名乗って初舞台を踏む。
昭和17年浪曲師・酒井雲坊としてデビュー。(師匠は酒井雲)
昭和29年第6回読売賞新作浪曲競演会で優勝。これをきっかけに村田英雄に改名。
昭和33年8月、「無法松の一生/度胸千両」で歌謡界デビュー。
昭和36年11月、「王将」を発売。空前のヒットを記録し、戦後初のミリオンセラーとなる。
この「王将」のヒットで、以前に発表した「無法松の一生」、「度胸千両」、「人生劇場」なども注目を集める。
以後、「柔道一代」「男の土俵」「皆の衆」「花と竜」「夫婦春秋」などのヒット曲を多数放つ。
昭和46年東芝レコード(現:ユニバーサル ミュージック)に移籍。
平成14年6月13日、73歳にて死去。

 

村田英雄 ヒストリー

村田英雄は本名を梶山勇といい、昭和4年1月17日、福岡県浮羽郡吉井町(現:うきは市)に生まれた。生後まもなく、浪曲師の浪花綱若、曲師の出利羽スミ子夫妻の養子となって佐賀県・相知へ移住。その頃から茶目丸と名乗って両親と一緒に樺太や朝鮮にまで巡業に廻った。
昭和11年に浪曲師・酒井雲に弟子入りし、昭和17年、13歳の時に酒井雲坊となる。村田は幼い頃から培ってきた才能を余すところ無く発揮し、“天才少年浪曲師”と呼ばれる。
日本が敗戦し、占領下、義理や人情という日本固有の価値観が否定されて浪曲が衰退する中も盛んに浪曲を演じ続け、昭和29年には新作浪曲コンクールで優勝。これをきっかけに村田英雄への改名披露公演を行い、浪曲師・村田英雄は名実ともにスターとなる。
そんな折、歌謡界の重鎮・古賀政男から歌謡界デビューの話を持ちかけられ、昭和33年8月に「無法松の一生」で歌謡界デビュー。「度胸千両」はこのB面曲だった。(現在は「無法松の一生〜度胸千両入り〜」として歌われることが多いこの2曲だが、発売当初は全く別々の曲で、まとめて歌われるようになったのは後のこと。)こうして華やかにデビューを飾った村田だが、「無法松の一生」はヒットしなかった。
そんな村田が花開いたのは、昭和36年11月に発表した、西條八十作詩、船村徹作曲の「王将」だった。これが空前のヒットを記録、戦後初のミリオンセラーとなった。この「王将」のヒットで、以前に発表した「無法松の一生」、「度胸千両」、「人生劇場」なども注目を集め、それぞれ発売から約3年の月日を経ての大ヒット曲となり、歌手・村田英雄の地位を不動のものにした。(村田のヒット曲の1つとして知られている「夫婦春秋」は、昭和42年に発売された曲だが、発売から10年以上経った昭和50年代半ば、カラオケブームに乗ってヒットした曲である。)
平成3年に愛妻のユイ子さんを亡くして体調を崩すまで、発表する曲は常にチャートインするなど、息の長い熟年パワーを力強く見せてくれた。その後、長年の持病であった糖尿病からくる壊疽のために足を切断し、不自由な体となっても村田は決して歌うことをやめなかった。息の長い歌を、息の長い歌手として歌い続けてくれるだろうと期待していたが、平成14年6月13日、男・村田の「人生劇場」は73年の幕を下ろした。
文:板西 唱三