音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.05

クラシックメールマガジン 2013年9月付

~私に似合う音楽 -田部京子CDデビュー20周年に思う~

私はピアニストの田部京子のファンです。コロムビアからCDデビューした翌年(1994年)に発表されたシューベルトのピアノ・ソナタ第21番を聴いて深い感銘を受けてからのことですから、ファン歴はほぼ20年となります。
・・・と書いたところで、ふと手が止まってしまいました。
私が田部京子のファンだと書きましたが、一体何をもってファンだと言えるのか、考えているうちにだんだん分からなくなってしまったからです。確かに私は彼女がリリースしてきたCDは全部(加羽沢美濃の作品集の録音やベスト盤、シャンドスから出た3枚も含め)持っています。でも、実演は随分前に一度聴いたきりだし、有名なファンクラブにも入っていない。当然面識もなければ、サインも持っていないし、握手もしたこともない。彼女自身のことについても、ただ北海道出身で、私と同い年(学年は彼女の方が一つ上)ということくらいしか知らない。こんな状況で私は果たして彼女のファンと言えるのだろうか?いや、好きなんだからいいじゃないか?いやいや、私なんかよりもっと凄いファンの方はいるのでは?という自問の無限ループに陥ってしまいました。だからという訳ではないのですが、某アイドルグループの大ファンを自認する中学生の長女と話したついでに、何の気なく「あるアーティストのファンであることの根拠って何だと思う?資格みたいのなものはあると思う?」と聞いてみました。
すると、「どれだけ熱く愛を語れるかだと思うよ。」と答えが返ってきました。唸りました。CDの枚数だとか、実演を聴いた回数だとか、そんなことで誰かのファンかどうかなんて決まらない、対象となるアーティストへの「愛」があって、それを熱く語ることができれば十分にファンなのだという、ごくごく当たり前のことさえ忘れていた自分に恥じ入りました。ああ、自分は何と汚れちまったんだろうかと13歳のピュアな感性に教えられ、深く反省しました。
ということで、娘の言葉に従い、クヨクヨせず自信をもって、私は田部京子のファンであると宣言し、このまま文章を綴ることにしました。
私はなぜ田部京子のファンなのか。それは、とても不遜な言い方になってしまいますが、彼女の音楽が「私に似合っている」と思うからです。他の人から見て似合っていると言ってもらえるかは分かりませんが、とにかく田部京子の演奏は自分にぴったりくるのです。そして、誰から指図されることもなく、主体的に彼女の演奏を聴きたいと思い、心からその音楽を楽しんでいる。だから、彼女の音楽は「私に似合っている」のだと思っています。
例えば、彼女の名前を一躍有名にしたシューベルト。彼女が録音した後期のピアノ・ソナタや即興曲集などは、今は5枚組の集大成BOXとしても発売されていますが、私は、一枚一枚、リリースされるごとに買って聴いてきましたし、いずれのアルバムも私にとっての大切な愛聴盤です。彼女が、シューベルトの音楽の一番核心にあると私が感じている、ともすれば孤独にひきこもって沈黙へと向かってしまう心のありようを、他の誰よりも大切に扱い、大きく包み込むように最大限の愛情と敬意をもって表現してくれているからです。私は、田部京子の演奏するシューベルトにどれほど慰めを受けてきたか分かりません。本コラムを書くにあたって、彼女のシューベルトをいくつか聴き直してみたのですが、最初に聴いた時に得た感銘がいささかも薄れていないどころか、むしろ、シューベルトの音楽に深く傾倒している今だからこそ、彼女の演奏への愛着を強めるような体験をしました。何度聴いても聴き飽きることのない、どこまでも瑞々しい音楽、そしてまさに私にぴったり似合うと思える音楽です。
また、数年前に発売されて大評判をとったブラームスの後期ピアノ作品集も偏愛するアルバムです。かつて、あのグレン・グールドが「間奏曲集」のアルバムで見事に表現した、晩年の作曲家の心のうちにある孤独を、彼女は大きく包みこんで受け止め、全部ひっくるめて肯定しようとしているかのよう。彼女の演奏にあるあたたかさが私の心にとても沁みて、折に触れて聴いては、彼女の慈愛に満ちたまなざしに見つめられて大きな慰めを得ています。深夜、独り静かに心を鎮めたい時には、このアルバムに手が伸びます。
もう一つ、私にとって忘れられない演奏があります。それは、彼女の2枚目の小品集「ロマンス」に収められた、プーランクの即興曲「エディット・ピアフへのオマージュ」。プーランクが友人の大シャンソン歌手エディット・ピアフを讃えて書いた、とても美しい作品です。冒頭のシャンソン「枯葉」のフレーズに由来する憂いに満ちた旋律から、香水やタバコの煙の匂いの立ち込めるパリのカフェか酒場の雰囲気を彷彿とさせる粋な音楽ですが、彼女の演奏からは作曲家がこの曲に込めたピアフへの深い思いが立ち現れてきます。その思いとは、男と女の関係を思わせるような濃密な思慕であるような、友人への純粋な心遣いでもあるような、でも、ピアフの破滅を予感させる悲劇的な人生への憐れみでもあるような、複雑な思いが交錯したもので、聴いていると胸のあたりがキュンと熱く切なくなります。そして、日常の雑事に疲れた果ててカサカサになった心が潤いを得て活性化してくるのを感じます。私にとっての心の基礎化粧品とでも言うのでしょうか、ほとんど必需品のような音楽です。
ほかにも挙げればキリがないほどに、忘れられない田部京子の演奏はたくさんあります。彼女の代表盤の一つとして有名なメンデルスゾーンの「無言歌」、実演でも大きな成果を上げたシューマンの2枚のアルバム(「交響的練習曲/子供の情景」と「謝肉祭ほか」)、瑞々しい歌心に心洗われるグリーグの作品集、作曲家のリリカルな側面に光を当てたリストの作品集(特にソネット集)、端正な古典美に胸躍るモーツァルトのピアノ協奏曲集。勿論、世評の高いカルミナ四重奏団との共演の2枚(シューベルトの「ます」と6月に出たブラームス)も忘れられないし、吉松隆の「プレイアデス舞曲集」のあったかくてさみしい音楽も彼女ならではの演奏で絶対に欠かせない。
と、語り出せば止まらないほどに、私は彼女の演奏をずっと楽しんで聴いて来ました。私は彼女の演奏から本当に多くのものを与えてもらったと感じていますが、20枚以上にも及ぶアルバムの数々を少し遠い視点から俯瞰して思い起こしてみると、田部京子の演奏とは、本質的に、「一対一の音楽」であるということに気づきます。
どういうことかと言うと、プーランクのところで述べたように、田部京子の演奏を聴いていると、作曲家のとてもパーソナルな思いが、ひとつひとつの音から、そしてその音たちの動きから、時には痛切に、時にはしみじみと伝わってくるのですが、それが、あたかも私というたったひとりの聴き手のために奏でられた音楽であるように思えてくるのです。そして、まるで私一人に対して書かれた手紙を読んでいるかのように彼女の存在をとても近くに感じる。いや、まさかそんなはずはない、そもそも彼女は私を知らないのだから、そんなのは妄想だとは頭では分かっていても、そう思わずにはいられないのです。それが「一対一の音楽」であることの根拠です。
よく考えてみると、私がここで挙げた音楽は、閉ざされた孤独の中に身を置き、ただひたすら自己の内面に向き合って書いたようなシューベルトの音楽も、もしかしたらクララ・シューマンとの対話を想像して書いたようなブラームスの音楽も、そして、エディット・ピアフへの深い思いを音にしたプーランクの即興曲も、どれもたくさんの人に聴かれる音楽である前に、第一義的には、ただ一人の人間に向けて書かれた音楽ではないでしょうか。勿論、相手の声にも耳を傾けて、双方向のコミュニケーションをとってもいる。その意味で、まさに一対一の音楽たちなのです。
思うのですが、音楽というのは、田部京子と私の間に生まれるような一対一のコミュニケーションこそが原点なのではないでしょうか。作り手の心にあるとても切実なパーソナルな思いが出発点となって作られ、奏でられた音楽こそが、本当に人の心を打つのではないでしょうか。のっぴきならないほどに煮詰められた作り手の思いが、厳しく抽象化され、普遍的な地平にまで昇華された時に初めて、多くの人に受け容れられる音楽となることができるのだと私は思います。音楽のジャンルを問いません。以前、誰だったか、ある音楽家の方が、何千人もの聴衆の埋まったホールで演奏する時も、スピーカーの向こう側に何万人もの見えない聴衆を想定してスタジオで演奏する時も、最初から「一対多」のコミュニケーションを目指すのではなく、そのたくさんの聴衆の中の誰か一人に向けて音を届けるつもりで演奏するとうまくいくんだと言っていましたが、まさにそれ。一対一のコミュニケーションは音楽の出発点であると同時に、到達点でもあり、究極の姿でもあるのかもしれません。
田部京子は、そうした一対一の音楽に似合う音楽家でもあるし、彼女自身が一対一から出発したあたたかい音楽を作り出すことのできる数少ない音楽家の一人でもある。だからこそ、私は彼女の音楽に激しく惹かれるのです。自分に似合う音楽がいつも自分のそばにあるという実感は、ほんのひとときでも、自分の存在がまるごと受け容れられている、自分はここにいて良いのだという自己肯定を生み出してくれます。特段ここで披露するような感動のエピソードがある訳ではまったくないのですが、彼女の音楽が傍らにあるということが、どれほどかけがえのないものであり続けているか、どれほど私の生活の支えとなっているか、とても言葉では表現できませんし、彼女に感謝してもしきれません。
やはり、彼女の音楽は、私に似合っているのです。そして、自分に似合っていると思うから、私は彼女のファンなのです。
推測するに、私だけではなく、たくさんの人たちが、私と同じように彼女の音楽を自分に似合うと感じているのではないでしょうか。だからこそ、彼女を慕うファンがたくさんおられるのだし、彼女のアルバムが、音楽雑誌の年間ベストCDの読者投票でも、出版社主催のレコード賞でも上位の常連なのでしょう。音楽に限らず、不特定多数の人に好まれることを意識した大量消費社会向けのものよりも、作り手の顔が見え、少数の人に向けて作られたものが受け容れられる時代ですから、田部京子の奏でる一対一の音楽は、実は、私に似合っているという以上に、今の時代に似合っているのかもしれません。
待望の彼女の次回作はベートーヴェン、しかも、最後の3つのピアノ・ソナタなのだそうです。ベートーヴェンが大作「ミサ・ソレムニス」の楽譜に記した「心より出てて心へと伝わらんことを」という言葉をそのまま音にしたような、そして、音楽を通した一対一のコミュニケーションを高次元なものへと昇華させた作品たちであり、まさに彼女でこそ聴きたいと思っている曲たちです。一体、私はどんな手紙を彼女から受け取ることができるのか、今からディスクを聴くのが楽しみでなりません。
無駄にダラダラと長い文章になってしまいました。ファンとして「愛」を熱く語れているかはまったく心許ないのですが、せめてファンレター代わりに、彼女への感謝の念は表すことができているでしょうか。ほんの少しでも私の思いは伝わるでしょうか。田部京子さんに。そしてこのコラムを読んで下さる方に。一対一のコミュニケーションというのは簡単なようで、実はとても難しいと痛感します。が、ともかく、実演であろうと、ディスクであろうと、これからも私に似合う音楽を求めて彼女の音楽を聴き、時には彼女の音楽に似合う私を追い求めながら、人間として、音楽家として年輪を重ねていく彼女の後ろ姿についていきたいと思います。
最後に。田部京子には、やはりコロムビアが似合います。彼女はわずかな例外を除いて、20年間、コロムビアの専属アーティストとして忠誠を誓ってきました。一方のコロムビアも、デビュー盤以来、ほぼ同じスタッフが制作に携わり、ゆったりとしたペースで丁寧に彼女の音楽家としての成長に寄り添ってきました。まるで相思相愛の夫婦のような関係で、そこにもまさに一対一のあたたかなコミュニケーションがあるように見えます。音楽家とレーベルの関係が希薄でビジネスライクでドライなものになりつつある昨今、とても珍しい幸福な結びつきなのではないでしょうか。これまでの彼女とコロムビアの実り多い共同作業に感謝すると同時に、どうかこの幸せな関係がいつまでも続きますようにと心から願わずにはいられません。ただ、彼女のアルバムがいくつか廃盤または入手困難な状況にある(発売後さほど時間の経っていないシューマンの「謝肉祭」など)ことと、そして彼女の映像作品がまだ一点しかないことに対して、改善を望みます。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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