音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.45

クラシックメールマガジン 2017年4月付

~サウンドトラック・シンフォニー ~ 菅野祐悟/交響曲第1番~The Border 藤岡幸夫指揮 関西フィルハーモニー管弦楽団~

今さらながら、又吉直樹のデビュー作にして芥川賞受賞の小説「火花」を読みました。面白かった、というより、深い感銘を受けました。これまで又吉という人にはまったく関心がなかったのに、彼の第二作「劇場」が掲載された雑誌を、発売日に早速購入してしまうほどに。昨年秋、ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランに続き、又吉のにわかファンになってしまいました。ああ、ミーハーな私。
又吉の「火花」を読みながら、私は、最近聴いた菅野祐悟の「交響曲第1番~The Border」のことを思い起こしていました。二人の「デビュー作」には、いくつか共通点があると思ったからです。
一つ目は、どちらも、分野は違えども、間違いなく「プロ」の手による作品であるということです。
人気お笑い芸人である又吉は、「言葉」を使って人を笑わせるプロであり、映画やTV番組やゲームの音楽の作曲家である菅野は、「音」で人の心を掴んできたプロです。従って、それぞれの分野で一流である二人は、確かに小説や交響曲というジャンルへの挑戦者ではありますが、見方を変えれば、彼らは、自分のテリトリーで磨きをかけてきたプロの技を、「少し」違う分野で応用し、新しい作品を生み出したと言えます。
もう一つの共通点は、「火花」も、”The Border”も、第一人称で書かれた作品であることです。
「火花」は、小説の主人公である「僕」が語り紡いでいく物語であり、その「僕」の内面、それも他人には見せたくない醜さや弱さを吐露した独白が、あちこちに散りばめられています。そして、そのモノローグが、小説の中で現実として進行していく物語や、ほかの登場人物の言動と緊密に絡み合いながら、ドラマを重層的に展開させ、普遍的なものへと昇華させていきます。「火花」は、恋愛小説、あるいは、青春小説であると同時に、私小説としての側面も持っていると言えます。
一方、菅野の交響曲は、基本的に古典的な交響曲のかたちを踏襲しながら、作曲者自身がライナーノートに寄せた「意識と無意識」という一文にあるように、夢を通して意識と無意識の境界を曖昧に行き来しながら、自己の内面を深く掘り下げていく過程を音楽にしたもの。こちらも音楽の主体は、作曲者自身であり、第一人称で音楽が綴られていきます。
そんな共通点を持った「火花」と”The Border”が、ほぼ同時期に生まれたのは偶然なのか、必然なのかは分かりませんが、「火花」同様、菅野祐悟の交響曲第1番の世界初演をライヴ録音した音盤を、私はとても楽しんで聴きました。
全体に、ライナーノートの前島秀国氏の解説にあるように、基本的に明確な調性を持ち、伝統的なソナタ形式や三部形式といったフォルムを踏襲し、ごく普通の編成のオーケストラを使って書かれた「わかりやすい」かたちをした音楽。次々に繰り出される甘美な旋律たちが、華麗なオーケストレーションによって、鮮やかな彩りを身にまとい、変化に富んで躍動するリズムに乗って、私の心の中へと入ってきて、その景色を時々刻々と変化させていくさまは魅力的です。
また、シンボリックに繰り返し奏でられる楽想(メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」に出てくる金管のコラールに少し似ている)など、さまざまな伏線が随所に仕込まれていて、音楽のつくりはとてもドラマティック。音量、表現などさまざまな面から見ても、ダイナミックレンジが広く、オーケストラを聴く醍醐味も味わえる。一瞬たりとも退屈することなく、あっという間に43分の堂々たる交響曲を聴き終わってしまいます。
その音楽の何に最も惹かれたかというと、鳴り響く音に、私の心を貫くような強い「力」を感じることです。その「力」とは何かと考えるに、読者、聴衆のイマジネーションを激しく掻き立てる「力」だと思います。
劇伴の一流作曲家である菅野の音楽には、「さすがに」という言葉は安易すぎてあまり使いたくないのですが、そう言わざるを得ないくらい、さすがに、ほんのわずかな音の動きや、響きの色彩だけで、聴く者の中に何か鮮烈な映像なり画像を思い起こさせるような魔力があります。それは何か具体的なものを表現しているという訳ではないでしょうが、とにかく、聴いていて視覚が激しく刺激されるのを感じるのです。曲の冒頭、ティンパニの叩きつけるような6連符の強打に乗せて、オケがエネルギッシュに歌い上げる下降音型の主題から、曲の最後の希望に満ちた輝かしいエンディングまで、視覚的なイメージを伴わない音は一つもないと言って良いほどに。
中でも、第3楽章は、開始早々、ヴァイオリンが、あまりにも繊細で、あまりにも美しい旋律を歌い始めた瞬間から、豊饒なイメージが私の中に広がって眩暈がしそうになります。
この楽章は、作曲者自身の言葉によれば、「思い出。何者にも縛られていなかった、幼いころの自分を回想」する音楽なのだそうで、たしかに、その音楽には「回想」を促すようなセンチメンタリズムがあり、今はもうなくなってしまったもの、会えなくなってしまった存在の思い出を蘇らせてくれます。
その「思い出」がどんなものかは、あまりにも個人的なことであって、人様にお話するほど面白いものでもないので、ここでは具体的には触れませんが、いずれにせよ、この音楽によって、自分の中にある美しい思い出が、チクリとした痛みとともに呼び覚まされるのは確かです。さしずめ、音楽を通したセンチメンタル・ジャーニーといったところでしょうか。感傷やメランコリーは、往々にして悪者にされてしまいがちですが、人間が生きていく上ではなくてはならないものであり、その意味では、とても栄養価の高い音楽であると言えるかもしれません。
私がそうだからといって、他の聴き手の方が私と同じように音楽を聴き、楽しむとは限らなないことは重々承知しているつもりなのですが、既に数々のドラマや映画の音楽を通して菅野の音楽に魅せられた聴き手のみならず、クラシック音楽に慣れ親しんできたファンの間で、興味深く豊かな聴体験を提供してくれる音楽として、あたたかく受け容れられて然るべき音楽ではないでしょうか。
ただ、クラシック音楽の専門家からは、この交響曲に対して賛否があるようで、絶賛する意見が多数ある一方で、実際、その音楽の展開方法や構成について「交響曲としてどうか?」と疑問を呈している評を雑誌で読みました。敬愛する評論家の方の評だからという訳ではありませんが、そうした指摘がなされるのも分からないではありません。伝統的な交響曲の形をとっているとはいえ、その音楽の佇まいはポップで、「交響曲とはこうあるべし」という確固たる判断基準を持って評価すれば、「交響曲のようなもの」としてしか聴こえず、その結果、違和感や欠落感を表明せずにはいられないだろうということは、ある程度、想像がつくからです。さぞ評価しづらかっただろうと推察します。
しかし、音楽の聴き方や評価の観点は一つではありません。評論家の方たちとは違う、ファンとしての捉え方や楽しみ方があってもいいし、あるべきです。評論家が、私たちファンの代弁者である必要はまったくないし、我々ファンが評論家の意見を鵜呑みにする必要もない。それぞれの聴き手が、それぞれの立場、視点から、この新しい交響曲を聴き、感じたことや考えたことを率直に述べ、互いの違いを尊重しながら、豊かな言語空間を作っていけばいいと思います。その意味で、菅野の交響曲は、私たちに絶好の話題を提供してくれるはずです。3年前にあのできごとを経験したからこそ、私たちファンは、クラシック音楽の新しい聴き手を誘導する可能性を秘めた「開かれた」音楽を、淡々と、柔らかく、しなやかに、楽しんでいけば良いのではないかと思います。
また、好むと好まざるに関わらず、菅野の書いたような交響曲は、これからも増えていくのではないかと私は考えています。例えば、同時期に発表された岸田繁の交響曲や、「あの人」が書いた交響曲のような例がありますし、最近聴いた二人の作曲家による交響曲も、同様な成立背景をもったものだったからです。
一つは、ウィーン出身の女流作曲家のヨハンナ・ドーデラーJohanna Doderer(1969-)の書いた交響曲第2番「ボーヒニBohinj」(2014/15)。スロヴェニアの小さな街ボーヒニの美しい景色と、第一次世界大戦中、ダイナマイトで吹き飛ばされた山の痛々しい風景に触発されて書かれた、マーラーの流れを汲むロマンティックな交響曲。これもまた、”The Border”同様に、視覚的なイメージを喚起するわかりやすい音楽なのです。全3楽章のうち、第2楽章でソプラノ独唱によって歌われる静謐な歌が印象的です。
あるいは、ドイツ出身の作曲家エンヨット・シュナイダーEnjott Schneider(1950-)の交響曲第7番「暗黒の世界Dunkelwelt Untersberg」(2012)というのもあります。こちらは、交響曲というには形式感は曖昧で、茫洋としたサウンドスケープがダラダラと続く曲。時折、鳥の声が再生されたりして、あざといくらいにビジュアルを刺激する音楽であり、分かりやすくて、耳になじみやすい。
実は、このドーデラーとシュナイダーという二人の作曲家は、菅野同様、映画やドラマの音楽の作曲で活躍している人なのです。もっとも、二曲ともに、菅野の作品ほどには面白くはないのですが、いずれにせよ、何かの映像のBGMとして流したくなるくらいに、聴き手のイマジネーションを広げていく音楽であることは疑いのないところです。
この二つの例だけをもって「一事が万事」と即断するのは危険ですが、例えば、最近のポストクラシカルという大きな潮流や、コンテンポラリーな作曲家たちの作品のある意味でのポップ化の動きを見るに、今後、「ポップでビジュアルな交響曲」が増えていく素地はあちこちにあります。それはもしかすると、交響曲というよりも、視覚情報を前提にした「サウンドトラック交響曲」というジャンルの誕生を促すかもしれませんし、マックス・リヒターやルドヴィコ・エイナウディといったポストクラシカル系の人たちの流れと合流し、想像もつかなかったような新しいものへと結実していくのかもしれませんが、とにかくこの流れを止めることは誰にもできないのではないかと思います。
だとすれば、前述のような専門家の意見も頭に入れつつ、これから何か新しいものが生まれるかもという予感にワクワクしながら、菅野の交響曲第2番が出来上がり、初演されるのを心待ちにする、というのが、私たちファンにとって、最も健康的な道である気がします。
藤岡幸夫指揮関西フィルの演奏も、見事です。この曲のもつ、しなやかで美しい力を十全に引き出していて、この音楽を聴いて、ほかの誰のものでもない自分自身の想像を羽ばたかせるのを優しくアシストしてくれる、そのことが何より嬉しい。第3楽章など、ホールで聴いたらどれほど胸を動かされるだろうかと想像しただけで、泣けてきます。世界初演の重責を果たした演奏者の勇気と献身、そして、その水準の高い成果に、心から拍手を贈りたいと思います。
余談ですが、指揮をしている藤岡幸夫氏には、個人的に思い出があります。かつて、関東一円の学生オケから参加者を募り、一流指揮者を招聘して演奏会を開催する「青少年音楽祭」というのがあって、ある年、私はそれに出演することができたのですが、その際、副指揮者としてリハーサルを何度もつけて下さったのが、若き日の藤岡氏でした(本番は高関健氏の指揮)。
藤岡氏のリハーサルは厳しく、細かいところまでダメなところを的確に指摘されるので、大学からチェロを始めたばかりの私は、いつ「そこのキミ!」と叱られるかと、結構ビビッていました。でも、藤岡氏のリハーサルが終わった後は、ヘトヘトになりながらも、少し楽器が巧くなったような気がして嬉しかったことを覚えています。
藤岡氏は、トレンディドラマ(死語ですが)から抜け出してきたような人でした。サーフィン焼けした素肌にサマーセーターを着て、白いジーンズ、裸足にシューズというようないで立ちで、練習場に颯爽と現れる姿は、今もよく覚えています。そんなイケメン指揮者の藤岡氏に、女子学生たちが皆夢中になっていて、氏の周りには、いつも美しい女性たちが自然に集まっていました。その光景は、理系単科大学の冴えない非モテ男の私には強烈で、格差社会の厳しさを肌身に沁みて感じたことも忘れられません。
その藤岡氏が、こうして今や八面六臂の大活躍で、菅野祐悟の交響曲の世界初演というような挑戦をして大成功を収めている姿に触れ、胸が熱くなる思いです。
これからの活躍も楽しみですし、菅野の次回作にとどまらず、クラシック音楽に新しい風をどんどん吹き込んでほしいと心から願います。
最後に、又吉直樹の「火花」の中で、強く印象に残った言葉を引用して、本文を閉じることとします。
新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝を途中でポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。

又吉直樹「火花」(文芸春秋社刊)より
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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