音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.46

クラシックメールマガジン 2017年5月付

~バービー・ヤールに激しい雨が降る ~ ショスタコーヴィチ/交響曲第13番「バービー・ヤール」 インバル指揮ウィーン響ほか~

去る4月1日、ロシアの詩人エフゲニー・エフトゥシェンコが、移住先のアメリカで亡くなりました。
エフトゥシェンコは、1933年にシベリアのイルクーツクで生まれた詩人で、1950年代後半のいわゆる「雪どけ」の時代にデビューし、社会派詩人として絶大な人気をかち得ました。特に、1961年に「文学新聞」に掲載された「バービー・ヤール」は、ナチスによるユダヤ人虐殺の地をめぐって、帝政時代から続くソ連の反ユダヤ主義を告発した詩で、国内外で激しい論争を巻き起こし、1963年のノーベル文学賞にもノミネートされました。そして、この詩に感銘を受けたショスタコーヴィチは、1962年に発表した交響曲第13番「バービー・ヤール」でエフトゥシェンコの詩をテキストに用いたので、彼の名は音楽史にも永遠に刻まれることとなりました。
エフトゥシェンコの死が報じられたのと同じ日、昨年(2016年)のノーベル文学賞の受賞者ボブ・ディランが、ツアー公演のために訪れたストックホルムで、スウェーデンアカデミーからメダルと証書を受け取ったというニュースが届きました。ディランは、昨年12月15日におこなわれた授賞式を「先約があるから」という理由で欠席していたのです。
授賞式では、ロック歌手のパティ・スミスが、ディラン初期の代表的なプロテスト・ソング「激しい雨が降る A Hard Rain’s A-Gonna Fall」を歌いました。スミスは、緊張の余り途中で歌えなくなってしまいましたが、会場のあたたかい拍手に励まされて最後まで歌いきり、いつまでも忘れられないような、しみじみと心に響く歌を聴かせてくれたのは記憶に新しいところです。
ニュースで、エフトゥシェンコとディランという二人の「詩人」の名前を同時に見て、エフトゥシェンコが、かつて「ソ連のボブ・ディラン」と称されていたと、どこかに書かれていたことを思い出しました。ソ連社会の矛盾や不正を鋭い言葉で指摘し、多くの聴衆の前でそれを朗読して特に若い層から熱烈な支持を得たエフトゥシェンコの姿を、1962年のレコード・デビューから数年の間、アメリカの公民権運動や反戦運動と連動した力強いプロテスト・ソングを歌い、一世を風靡したディランの姿に重ねている人は多かったようです。
二人は、1985年、ペレストロイカの時代に実際に会っています。エフトゥシェンコは、同僚のアンドレイ・ヴォズネセンスキーと共に主宰した国際青少年音楽祭の前夜祭のゲストに、ディランを招聘したのです。ディランは、非公開で客席ガラガラの会場で、「風に吹かれて」「時代は変わる」そして「激しい雨が降る」の3曲を、ギター一本で弾き語りしました。
エフトゥシェンコとディランの接点となる「激しい雨が降る」は、1962年12月6日にスタジオ録音(レコード発売は翌年)されました。明るく力強い調子で歌われる曲ですが、その歌詞には、「死」がべっとりとまとわりついた荒涼とした光景が描かれています。
発表当初は、「雨」が、核爆発による「放射能の雨」を意味するのでは?などとファンや評論家の間で囁かれたそうですが、ディラン自身は、翌年出演したラジオ番組で「ただの雨。マスメディアが撒き散らす虚言を毒物にたとえた」と噂を否定しています。また、同じ年に起きたキューバ危機の際、当時21歳で徴兵対象だった彼は、いつ死ぬことになるか分からないと思い、この曲を書いたとも述べています。そう、米ソ首脳が核ミサイルのボタンに指を載せ、世界中が、第三次世界大戦、すなわち全面核戦争の恐怖に怯えていた、そのときに「激しい雨が降る」は生まれたのです(曲ができたのは10月で、ライヴでは既に歌っていたそうですが)。
そのたった12日後のことでした。エフトゥシェンコの5つの詩をテキストに用いたショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービー・ヤール」が、キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルによって世界初演されたのは。
前年に発表されたエフトゥシェンコの「バービー・ヤール」は、ソ連当局にとっては好ましからざるものでした。
バービー・ヤールは、ウクライナのキエフ近郊にある谷の名前で、1941年9月29日から30日にかけ、侵攻してきたドイツ軍によって多数のユダヤ人が銃殺され、埋められた場所。虐殺は1943年11月まで断続的に続けられましたが、ドイツ軍がキエフ撤退の直前に死体を掘り返して焼却し、証拠隠滅を図ったため、正確な死者数は不明で、今もなお論争が続いています。
しかし、終戦後、バービー・ヤールの悲劇は、公式的にはロシア人やウクライナ人を含むソビエト市民への犯罪として扱われ、犠牲者を悼む記念碑も建てられませんでした。ユダヤ人虐殺を前面に出して、帝政時代から続くロシア人による(ナチスを遥かに上回る)大規模なユダヤ人虐殺や、戦後も国内に根強く残っていた反ユダヤ主義的な空気を指摘され、国際的な非難の矛先がソ連に向けられることを怖れたからと言われています。ウクライナ人とユダヤ人の間で対立を引き起こし、当時くすぶっていたウクライナ民族独立の機運が高まるのを避けたという事情もあったのかもしれません。
なので、ソ連当局は、バービー・ヤールの悲劇から国民の目を逸らそうと、周辺を整備して住宅を建設し、何万人もの犠牲者が眠る谷を、近くのダム建設の際に出た廃土で埋めてしまったのでした。
しかし、戦時中にバービー・ヤールで何があったのか、ソビエトで知らぬ人はおらず、多くの人たちが訪れて献花していました。そして、1959年に詩人のネクラーソフがバービー・ヤールに記念碑を建てようと呼びかけたのをきっかけに、国民の関心が高まっていたところに、エフトゥシェンコの詩が発表されました。
「バービー・ヤールには記念碑はない 切りたつ崖は荒れくれた墓碑のようだ」という出だしから、「いまわたしは思う、わたしはユダヤ人だと」という告白がなされると、1905年にベロストークで起きたポグロムの陰惨な情景がリアルに描写されます。そして、反ユダヤを掲げる人たちが「インターナショナル」を高らかに歌い上げる矛盾を皮肉り、ユダヤ人のごとくに憎まれる「わたし」こそは「まことのロシア人なのだ」と叫ぶ。ドレフュスやアンネ・フランクの名前を挙げて、自国の犯罪行為については頬かむりをして、一方で美辞麗句に包まれた理想を謳うという国家の欺瞞を、率直で、力のこもった言葉で糾弾しています。
第2楽章以降で歌われる詩も、いずれもロシア社会の抱える問題を臆することなく暴き出したものばかりです。特に、この交響曲のために書き下ろされた第4楽章の「恐怖」では、スターリン時代の密告社会の恐怖は表面的に取り除かれつつあるが、別の恐怖がソビエトを覆っていると激しく警告します。また、最終楽章「出世」では、信念をもって真実を追い求めた人(ガリレオやトルストイなど)こそが本当の立身出世をした偉人なのだと、権力にすり寄って出世する軽薄な人間を揶揄してもいます。
物議を醸した「バービー・ヤール」を初め、国家の暗部を暴露した不穏な詩をテキストとする新作交響曲の初演は、当局の妨害により直前まで中止の危機に晒されました。コンドラシンを始めとする音楽家たちの尽力で、演奏会は無事成功のうちに開かれたものの、その直後、ショスタコーヴィチは、歌詞を変更しなければ演奏を禁止すると当局から言い渡されます。結果、第1楽章の歌詞の一部が、バービー・ヤールではユダヤ人だけでなくロシア人、ウクライナ人も殺された、ソビエトはファシズムに勝利したのだと改訂されました。修正が僅かなものにとどめられたのは、ショスタコーヴィチという作曲家の強い信念があったからですが、ソ連が崩壊した今はオリジナルの歌詞で歌われています。
ディランの「激しい雨が降る」を生んだのは、キューバ危機で顕在した核戦争への恐怖でしたが、エフトゥシェンコとショスタコーヴィチが共に手をとり作った交響曲「バービー・ヤール」を生む原動力となったものは何だったのでしょうか。
ソ連国内では、キューバで起きた一触即発の危機についてはまったく報じられることはなく、国民が真相を知ったのは、キューバからミサイルが撤去され危機が回避された後だったそうです。早い時期からアメリカの文化を「密輸」して消化し、1961年時点で「ビートニクの独白」という詩を発表していたエフトゥシェンコと、西側にもある程度のパイプを持っていたショスタコーヴィッチがキューバで何が起きていたかを知らなかったとも思えないのですが、少なくとも、交響曲「バービー・ヤール」に関して言えば、キューバ危機はその成立とは直接の関係はなさそうです。
当時のソ連の指導者フルシチョフは、ユートピアとしてのソ連の美しい姿を国民にアピールすることには熱心でしたが、ソ連で活動する芸術家の立場は良好なものとは言えませんでした。フルシチョフは前衛美術を「ロバの尻尾で描いたようだ」と揶揄し、「芸術において、私はスターリン以上にスターリニストだ」と言い放ってもいる。そして、第5楽章で揶揄されるような、権力におもねるような軽薄な輩どもが「出世」してソビエト音楽界を牛耳っていました。
だからこそ、第4楽章の「恐怖」があるのだろうと思います。ソビエトからは、密告社会だったスターリン時代の恐怖は確かに消え去ったが、私たちは新しい恐怖におののいているという歌詞に象徴されるように、より自由な言論を求めて活動する若き社会派詩人と、かつて国家権力から「人民の敵」と攻撃され、その作品を歴史から葬り去られた経験のある国家的大作曲家は、かつて経験したことのない恐怖に怯えていたのです。
「バービー・ヤール」という交響曲は、反ユダヤ主義や、官僚主義への痛烈な批判であると同時に、自由な芸術活動の弾圧への恐怖を告発し、それと断固として闘うという覚悟をもって生み出されたとは考えられないでしょうか。ならば、ボブ・ディランの「激しい雨が降る」と、ショスタコーヴィチの「バービー・ヤール」は、偶然、近接した日付の中で結びつけられるだけでなく、「恐怖」から生まれた音楽であるということで、どこかで繋がるような気がします。
エフトゥシェンコの訃報に接し、無性にショスタコーヴィチの「バービー・ヤール」が聴きたくなり、手持ちの音盤を片っ端から聴き直しました。キリル・コンドラシン指揮の歴史的な録音から、ヴァシリー・ペトレンコ(ベルリン・フィルの次期監督じゃない方のペトレンコ)盤に至るまで、そして、エフトゥシェンコ自身の朗読する「バービー・ヤール」を併録したマズア盤など。
その中で、エリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団による演奏は、引き締まった早めのテンポで緊張度の高い音楽を作っていて、いつも音楽に切実な訴えかけがあり、彼のショスタコーヴィチの音楽への愛情と敬意をいつも感じられるところに絶大な魅力を感じます。
第1楽章「バービー・ヤール」で聴くことのできる激烈な表現は強い印象を受けますが、インバルの詩と音楽への熱い思いを、彼のユダヤ人という出自を絡めて「血の共感」などと評するのはきっと間違いなのだろうと思います。それは、ナチスやロシアの反ユダヤ主義者に殺された人たちが、その人生の最後で感じたであろう凄まじい恐怖、暴走集団となった人間たちの愚かしさ、そういったものを、ごく普遍的なものとして描いた結果、自然と生まれたものに違いありません。80年代末、マーラーの交響曲について語るとき、必ずといって良いほどに広島とアウシュヴィッツの名前を口にし、マーラーを人類の危機の予言者と位置づけたインバルの目には、ショスタコーヴィチもまた人類の危機の予言者の一人として映っていたのでしょうか。
続く第2楽章の切れ味鋭い諧虐、第3、4楽章の深く沈潜した内省も心に残りますが、第5楽章の演奏には、一種独特の不思議な味わいがあります。それは、ウィーン交響楽団というオーケストラ固有の響きに起因しているように思います。
最晩年のショスタコーヴィチの音楽には、ノスタルジックで美しいパッセージが繰り返し出現することが多く、この楽章にもそんな場面が随所にあるのですが、このインバル盤で聴こえてくる音には、いつも血の通ったぬくもりがあります。それは他の演奏からは聴けないユニークな響きですが、インバルが、その音色を求めてウィーン響を起用したのではないかと思えるほどに、真実味と説得力のある音なのです。 そんなあたたかく胸に響く音楽が、具体的に何を意味するのかは分かりませんが、人類は、いつかこの恐怖を克服し、一人一人が人間らしい尊厳をもって生きられる社会を作ることができるようになってほしいという希望を表現しているような気がします。
インバル指揮ウィーン響の「バービー・ヤール」、いや、ショスタコーヴィチの交響曲全集は、90年代のインバルの貴重な記録というだけでなく、その鮮烈で豊かな内容を、もっと新たな視点から再評価されるべきではないかと私は思っています。
それにしても、エフトゥシェンコ、ショスタコーヴィチ、ディランという3人の傑出した芸術家たちが1962年という時代に感じていた、核戦争、人種差別、大殺戮、権力による弾圧、虚言、そういったものへの恐怖は、とっくの昔に消え去っているのでしょうか?いまもまだそこにあるのでしょうか?それともまた新しい別の恐怖に私たちは直面しているのでしょうか?そんなことを考えながら、「バービー・ヤール」や「激しい雨が降る」が語りかけてくるものにじっくりと耳を傾けていきたいと思います。
ところで、このインバルの「バービー・ヤール」のプロデューサーを務めた川口義晴氏が、今年の2月に亡くなられたそうです。 川口氏は、ブルックナーやマーラーの解釈で評価を高めていたインバルと契約し、数々のプロジェクトを制作しただけでなく、鮫島有美子を世に売り出し、武満徹のオーケストラ作品やポップスソング(石川セリ盤)など、70年代後半以降のコロムビアを代表する数々の名盤を手掛けられました。
インバルに関して言えば、氏が彼をコロムビアに引っ張ってきてくれたからこそ、数々の名盤を聴くことができただけでなく、それがきっかけとなって、彼の日本との長く深い絆が生まれ、それが都響との素晴らしい共同作業へと結実したのだろうと思います。また、武満徹の音楽のプロジェクトの大きな意義は、どんなに言葉を尽くしても表現しきれませんし、鮫島有美子のアルバムが、音楽ファンの心に、どれだけあたたかい音楽の灯火を与えてくれたかは計り知れないものがあります。
氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、いつまでも記憶に残る素晴らしい音盤を届けてくださったことに心から感謝したいと思います。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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