20周年記念 INTERVIEW 〈菅原卓郎×いしわたり淳治 対談〉
菅原卓郎といしわたり淳治の対談が実現した。
2007年のメジャーデビュー盤『Discommunication e.p.』から2008年のアルバム『VAMPIRE』まで、つまりはバンドが世に羽ばたいていく時期に9mm Parabellum Bulletのプロデューサーをつとめていた、いしわたり淳治。両者の出会いから、当時の制作の裏側、歌詞について、歌謡曲の美学についてまで、結成20周年を機にたっぷり語り合ってもらった。
取材・文=柴那典 写真=西槇太一
レコーディングでもギターを振り回してた
お二人の最初の出会いは?
いしわたり:下北沢のBASEMENT BAR で9mmのライブを観たんです。音がデカくて、すごく暴れていて。でも、パフォーマンスとして暴れているというより、そこに必然性があって暴れているというか、暴れてないとやってられないみたいな説得力があって、めちゃめちゃ格好よかった。ライブが終わった後、メンバーがステージの上で機材を片付けているところに上がっていって「めちゃくちゃ格好よかったよ!」って、肩をバシバシ叩いて言った思い出があります。
改めて、当時の9mmはなぜそこまでライブで暴れていたんでしょう?
菅原:最初にライブで暴れたほうがいいって言い出したのは滝で。いつもライブハウスでライブした後に撮影してもらったビデオを反省会って言って観てたんですけど、ある時、めちゃくちゃ暴れてる日があって、その様子が格好よかったんです。そこから「やってみるか」って。僕たちはその頃ENDZWECK とかその周りのハードコアのバンドをよく聴いてたんですけど、あのへんのシーンのバンドはみんなめちゃくちゃ暴れてたんですよ。そういうエネルギーを自分でも出したいと思ったのもあったかな。あとは手本になるとしたらアット・ザ・ドライブインくらい。実際に自分たちでやってみて「この方がいいね」って思ったのが大きいです。
デビュー当時の取材で、滝さんが公園でギターを素振りして練習してたって言ってましたね。
菅原:僕が大学生の頃に住んでたのが公園のすぐ目の前にあるアパートで。そこの公園でギターを振りながら弾いてるんですよ。そういう練習もしてましたね。
いしわたり:レコーディングでもギターを振り回してたもんね。その必要ないのに。
淳治さんは当時SUPERCARが解散して一人になった時期だと思うんですが、プロデューサーをやるというビジョンはどれくらいあったんですか?
いしわたり:どれくらいってこともないですね。ちょうどチャットモンチーのプロデュースをやって1年経ったくらいだったんですけど、チャットはSUPERCARのレーベルの社長から頼まれたからやらせてもらったけど、プロデューサーを生業にしようと思ってたわけじゃなかった。ただ、もし、自分がバンドでやり残したことがあるとすれば、Mステにも紅白にも出たことのない音楽人生だったので、せめてもう少しメジャーなものをやりたいと思って、それをチャットとゼロからやってみようと思っていた時期です。なので、まさか、自分が外部のレーベルのバンドのプロデュースをやるとは全然思っていなかった。
プロデュースをすることになったのはどういう経緯だったんですか?
いしわたり:ライブを観たのが、ちょうど彼らがメジャーに行くタイミングだったので、そこから当時のディレクターの嶋津さんと知り合って。
菅原:嶋津さんが「9mmは淳治さんとやったらいいんじゃないか」と言って。ソニーの会議室で顔合わせみたいなことをしましたよね。そのときに「なんでもいいから1時間喋れることありますか?」って聞かれたんです。
いしわたり:そうそう、UFOとかオカルトの話でもいいし、頼まれてもないのに自分が分厚く知識を持っていることって何かないですか?って。そしたら、かみじょうが麦茶を上手く入れられますって言ってた。麦を炒ったり、いろいろやってみたけれど、一番美味しいのはパッケージに書いてある通りに入れることだ、と。で、それ以上に美味く飲む方法があるとしたら、2倍の濃さで入れた麦茶を氷にしてそれを落として飲むのがいいって。
菅原:「薄くなるのが嫌なんですよ」って、口ぶりまで覚えてます。
いしわたり:「え? 麦茶?」ってなって(笑)。
なぜそんな話をしたんですか?
菅原:一緒にものを作るにあたって、その人のパーソナリティを知りたいから、何が好きなのかを知りたいということだったと思います。
いしわたり:誰にも頼まれてもないのに自分でずっと調べてることって、それがすなわちその人の個性だと思うんですよね。そういうのがある方が面白いし、それを知りたかったんです。滝は自作エフェクターと電子回路と電子部品の話を相当してた覚えがある。
菅原さんはその時どういう話をしたんですか?
菅原:僕は結局、好きなのは本と音楽だから、バンドマンの答えとしては当たり障りなかったかな。麦茶かぁ、って。まさか麦茶がパンクに聞こえることがあるんだって(笑)。
菅原さんからの淳治さんの第一印象は?
菅原:初めて会った時に「すごい格好いいよ!」って来てくれて。俺たちみんなSUPERCARのCDを買ったり聴いたりしてたから「わ、本物だ!」ってなりました。その時はチャットモンチーのプロデュースをしてるってことは知ってたけど、プロデュースしてもらおうとかいうのは全然なくて。自分たちが好きなミュージシャンにライブを観てもらって、しかも格好いいって言ってもらえたっていう。ちょっと事件みたいな感じでした。
いしわたり:ライブで暴れてるから格好いいというのも要素としてはあったけれど、僕は9mmにもっと根本的に格好いいポイントを感じていて。いわゆるメタルと言っていいのかわからないけど、ハードロックマナーみたいなものって当時のメジャーシーンにはあまりなくて、まずそこが新しかった。それと、彼らには根底に歌謡曲が流れてるんですよ。歌謡曲の人懐っこいメロディとゴリゴリにハードな部分っていう2つのベクトルを確信犯的に混ぜてる感じ。それは何ともかぶってないし、新しいし、ライブも格好いい。絶対に大きくなっていくだろうと思ってました。
変だとしても、それが狙いなら全然いいよ
プロデュースするにあたっては、具体的にはどんなやり取りをしていたんでしょう?
菅原:俺たちと淳治さんがスタジオに入って、まずはデモをみんなで聴いて、その後実際にその場で演奏して。で、淳治さんが「こういう風に聴こえてるけど、みんなはそう聴かせたいっていうので合ってる?」って言うんです。
いしわたり:そうそう。「こう聴こえてるよ」ってよく言ってた。
菅原:俺たちがやろうとしてることと、淳治さんがキャッチしてるものが合ってれば大丈夫。変だとしても、それが狙いなら全然いいよ、バンドがやりたいことがそれならいいよ、って。そういう風に関わってくれました。
いしわたり:あと歌詞は大きかったよね。歌詞は俺の家に来てやってたもんね。
菅原:淳治さんの家に行って書いてました。
いしわたり:サビのここの部分は残そう、じゃあここからここの部分を30分間お互いに書いてみよう、用意、スタートって。千本ノックに近くなっちゃったよね。
菅原:その頃は全然ダメでしたね。どうやったら自分が書きたいものを歌詞にできるかの方法がわからなかった。千本ノック状態が何度もありました。
淳治さんの方に作詞のノウハウはありました?
いしわたり:いや、当時は僕も感覚でやってたから。「何か違う」ってことを伝えるだけの人間になっちゃってたんですよ。どう説明していいか分からないから、とにかくやってみようって言って。で、やってみて、それを否定する人間になっちゃって、申し訳なかったなって思う。もっといい方法はあったはずなんですよ。きっと、もっとうまく教えられたはずなんです。
菅原:でも、俺にとってはその時にたくさん話してくれたことが元になって書いてます。
いしわたり:「Vampiregirl」とかめっちゃ覚えてるんだよなあ。最初はそんなにしゃべる曲じゃなかったんだよね。
菅原:そうそう。なんか語りみたいなものを入れてくれって言って。
いしわたり:喋った場合、何行書けるのかなってバーって文章を打って、それを削ったり。
菅原:それを淳治さんの家でやってました。
阿久悠のボックスセットが歌詞の教科書
初期から9mmの歌詞は情景描写が特徴で、世界観のある歌詞だったと思うんですが、そういうところも淳治さんとの制作を通して培われていった。
菅原:言葉の強さということを淳治さんはすごく気にしてましたね。サビは広がったほうがいいとか。たとえば「僕」よりも「俺」の方がいいんじゃない?とか。
いしわたり:9mmって、仮タイトルが大体柔らかいんですよ。「ロボットさん」とか(笑)。最初は曲に全く関係ない記号的なタイトルがついていて、曲を作り終わってからタイトルがシュッとするんです。仮タイトルのゆるさに惑わされるというのもあったかな。
菅原:ずっと仮タイトルでやってるんですよ。歌詞とタイトルが最後だからどうしてもそうなっちゃう。
たとえばどんな仮タイトルがあったんですか?
菅原:「シャバダバ天国」ってのがあって。でも「天国と地獄入れ替えても意味一緒じゃね?」って言って、その後に「シャバダバ地獄」に変わった(笑)。
いしわたり:仮タイトルを変える理由ってなんだ?っていう(笑)。
菅原さんから見た作詞家・いしわたり淳治ってどんな存在でしょうか。
菅原:淳治さんはすごく整合性のとれた歌詞を書くんです。たとえば二人で作業してる時に、一番最後の行から考えて逆算したりする。「ってことは、ここで何か起きてないとおかしいよね」とか。
いしわたり:「この人、部屋の中にいなかった? 急に通りに出てない?」とか。
菅原:そうやって、全部の行につながりを持つように書くんです。で、僕は親が歌謡曲を聴いていたのを耳にしながら育ったんですけど、淳治さんはすごく歌謡曲的なマナーを持っていて。歌詞の作業をしに行ってた時に「これを参考にするといいよ」って見せてくれた中に阿久悠のボックスセットがあったんです。ピンクレディーの曲とか、知ってた曲もたくさんあったんですけど、改めて見たら、これは確かに歌詞の教科書だと思って。確かその日の帰りにボックスセットを買って、しばらく持ち歩いてました。
いしわたり:9mmの楽曲は言葉の立ち上がりの強さ、言葉のインパクトも大事じゃないですか。でも、そればっかりになると切れ味が鈍るんですよ。だったら、そのワードに辿り着くための階段をちゃんと登らないといけない。要は正しいスイングで切りたいんですよね。どうせなら華やかに切りたい。そのためには階段が大事で、フォームが大事だっていう。
菅原:淳治さんが書いてる歌詞はずっとそういうものがあるなって思います。遊び心もあるけれど、たとえばTHE BLACKBANDの曲を聴いててもやっぱり阿久悠的な整合性があるな、継承してるなって思います。そういう風に歌詞を書く人って、いないんですよね。俺はその弟子だって思ってるから、例えばチャットの歌詞でも、a flood of circleの(佐々木)亮介でも、淳治さんの流儀が入ってる歌詞を見るとすぐわかるんですよ。
いしわたり:嬉しい。
菅原:自分が書いているからかもしれないけれど、歌詞に重点を置いて音楽を楽しんでる人には、きっと伝わると思います。
今でも自分の中に「リトル淳治」がいる
淳治さんとの制作を経て、言葉の向き合い方も変わった感覚がありますか?
菅原:そうですね。淳治さんと一緒に作業していたのは修行の時期だったんだなって思います。で、「Black Market Blues」の時に自分たちだけでやろうってなったんですけど――。
いしわたり:今でも忘れないけど、「Black Market Blues」聴いたとき、めっちゃ嬉しかった。めっちゃ格好よかった。Mステ出たでしょ?
菅原:出ましたね。
いしわたり:もう完璧で。さっき言った通り、俺がやり残したことはこういうことなんだ、よくわからないバンドが突然Mステという華やかな場に出て、格好いい曲を鳴らして颯爽と帰るっていうことなんだって。それが全部できていて。ものすごい嬉しかった。その時はもう9mmのプロデュースはしてなかったんだけど。
菅原:面白いことに、「Black Market Blues」のときは淳治さんと一緒に作業してないんですけど、そこでは内なる淳治、「リトル淳治(LJ)」がいて。「LJ」にお伺いを立てながら作った感じだったんですよね。
いしわたり:今見てもめっちゃいい歌詞ですよ。
菅原:今でも「LJ」がいるんですよね。書いてる時に悩んだら、悩むんじゃなく考えよう、次に歌わなきゃいけない言葉をとりあえず何でもいいから入れようっていう風に書いていくのもそうだし。聴いた人のことをスパーンって切れる言葉を入れようっていうのもそうだし。繋がりがあって、整合性がある歌詞にしようというのもそう。あとはことわざとか慣用句を使ってみるというのも淳治さんと一緒にやったから分かったことだし。歌詞を書くときって、自分の文体みたいなものがわからないから書けないっていうのも大きいと思うんです。強く言うための語尾というのもその時にわかったんですよね。「のさ」って歌ってる人、誰もいなかったんですよ。
確かにそうですね。「狂わせてしまいたいのさ」っていうフレーズがフックになっている。
菅原:シアトリカルにするっていうか、小説のようにするには誰か登場人物の言葉にしなくちゃいけないんだって。好きなバンドとかアーティストにはシンガーソングライターみたいな書き方をするミュージシャンがたくさんいたからそっちに引っ張られてたんだけど、自分の体験した感情が一緒だったら俺の言葉じゃなくていいじゃんって思うようになって。「のさ」とか「だぜ」とか、あっていいなって。
いしわたり:そうそう、キザって格好いいんだよ。キザってエンターテインメントだから。
菅原:淳治さんが一緒に作業してた時によく言ってたのは、「9mmはめちゃくちゃ格好いいんだから、ここで卓郎が格好つけなきゃ誰が格好つけるんだよ」っていう。
いしわたり:それもキザが好きだからだと思うんですよね。ちゃんと格好つけてくれるから。
菅原:まさにジュリーがそうですけれど、そうやって格好つけるマナーも阿久悠全集に詰まってたんで。そこに恥ずかしさとか引け目がなくなって、「格好いいことをやりなよ」っていうのをリトル淳治さんが常に俺に言うようになった。そうしたらもうあとはやるだけだから、そこから書けるようになっていった。それが淳治さんと作業しなくなってからだというのは面白いなと思うんですけど。
2018年には菅原さんのソロアルバム『今夜だけ俺を』で淳治さんが作詞を担当しましたが、あれはどういう経緯だったんでしょうか?
菅原:あれはもともとツアーの予定があって。でも、そこまで2ヶ月もないような時期だったから、歌詞を書いてる暇もなかった。誰かに頼もうってなったら、もう淳治さんしかいなかった。かなり急だったんです。
いしわたり:気づいたら会議室で打ち合わせしてたもんね。
菅原:で、淳治さんにお願いして。滝の曲もあったし、淳治さんは詞先の曲も用意してくれたんで、それに滝が後から曲をつけたやつもあって、それでアルバムになったという。
いしわたり:課外活動みたいな感じでしたね。
菅原:友達のバンドマンで歌詞を書ける人も沢山いるんですけど、歌ってる時に頭の中に浮かんでくる映像がしっくりこないと歌えないんですよね。だから淳治さんなら間違いないというのでお願いしました。
菅原さんのソロは歌謡曲ということを打ち出していましたが、そのあたりもイメージを共有していましたか?
いしわたり:もちろん。だからその時もキザをやろう、キザが一番かっこいいんだよって話をしました。
菅原:ジュリーにしようって。9mmの曲って、滝は歌謡曲のつもりでは書いてないって言うんです。だから、9mmの歌謡曲的な要素って、もしかして俺の歌い方とか声のせいなんじゃないかって思って。歌謡曲にしてみたら面白いんじゃないかっていうのは、そこもあったんですよね。ここで淳治さんと一緒に作業したのもかなり心の栄養になったと思います。
青春の1ページ
淳治さんとしては、今振り返って、9mmのプロデューサーとしての仕事は自分のキャリアの中でどういう位置づけだと感じていますか?
いしわたり:さっき話した通り、僕も感覚とか手探りで、場にも慣れてなければ仕事にも慣れてないからノウハウもない。とにかくメンバーに仲間に入れてもらってわちゃわちゃやるっていうことしかできなかったので。それこそ卓郎と同じ髪型にしてみたり、全く関係ないところで楽しんでましたから。青春の1ページという感じですね。自分が自分のバンドではやれなかったことを味わせてくれた人たちで。今思えばやり方もひどかったし、もっと最短ルートでやれればよかったんだろうけれど、感謝しかないですね。
菅原さんとしてはどうでしょう? 初期の2枚のアルバムって、9mmの歴史の中ではどういう位置づけと捉えていますか?
菅原:僕はやっぱり歌詞のこともあるから修行って言ったんですけど、バンドとしてもやっぱりそこで淳治さんと2枚アルバム丸ごと作ったから、その後、自分たちだけでもできるようになったんだと思うんですよね。
いしわたり:そうそう、今思い出した。「Discommunication」のキメだらけのBメロのところ、最初はすごくシンプルなBメロだったよね。
菅原:そうだったと思います。
いしわたり:「こんなバージョンもあるんですけど、これだと歌が聴こえなくなるからやめたんです」って言ってたのが今の原型で。「え?これ弾きながら歌ったらめっちゃ格好いいじゃん、それやらないでどうすんの?」みたいなことを言った覚えがある。いいアイディアがいっぱいあっても「狙いすぎだと思うんですよね」とか言って、それを引っ込めてた印象があって。もっとやればいいのにって思ってましたね。
菅原:いろんな人がいろんなことを言ってきてたんだけど、今考えると淳治さんだけ「それがバンドのやりたいことならやろう」っていう風に言ってくれてたと思いますね。だから、もしかしたらメンバー各々上手くいかないこともあったかもしれないけれど、でも出来上がったものがあの時の俺たちの最大限としか思えないアルバムになった。さっき淳治さんは「青春の1ページ」って言ってましたけど、俺たちとしても、大変だったけどすごくキラキラしてる時間だったなと思いますね。スタジオにほとんど寝泊まりしてるみたいな状態で、歌詞書けなくて泣いたりもしていて。でも、楽しかろうが、ちょっとキツかろうが、いい方に向かってるんだって思えてる時間だと思います。
最後に、バンドが20年続いてきたということについて、お二人はどんな感慨がありますか?
いしわたり:20年なんだ、っていうことをまず思いました。何と言うか、シンプルに言うと、成人した子供に会ってる感じ。生き別れた親の気持ちというか。育てたとか恩着せがましいことを言うわけじゃないけど、そんな感じです。
菅原:そうですよね。9mmが20歳になったんだなって。これだけ長く続けると、やっぱ人格みたいなものとしてバンドが存在し始めるなって思いますね。矢沢永吉さんが「俺はいいけど、矢沢はどうかな?」ってよく言うじゃないですか。それと同じように「俺はいいけど、9mmはちょっとなぁ」みたいな感覚って、やっぱり出てくるんです。それってメンバーの集合意識だけじゃないんですよ。スタッフも入ってくるし、ファンも入ってくるし、仲間のバンドとかも入ってくる。そこをどう上手く裏切るかが大事だと思います。同じことも見たいし、「ああ、そうきたか」と思いたいし。自分が親元を離れた後にメンバーと出会ってからの時間の方が長くなっちゃったから、それはもう、一つの家族ってことだなって思いますね。