私が「源氏物語」を最初に読んだのは戦時中の小学校の国語の教科書でした。
掲載されていた部分は、押さない美しい少女"若紫"が大切に鳥篭に飼っていたすずめを「いぬきが逃がしてしまった」と泣くところでした。すずめは普通の鳥で何処にでもいる雑鳥なのに、身分の高い若紫がどうしてすずめ?と、不思議に思いながらも、平安期という時空を越えた雲の上のような世界と、どこにでもいるすずめが逃げただけで大騒ぎをして駄々をこねる幼い女の子の、ごく身近な出来事が奇妙に調和して感じられ、いまだにその記憶が残っています。 あの「廣瀬中佐」や「木口小平のラッパ」が美談として教科書に載せられていた時代に、なぜか「源氏物語」のひとこまが取り上げられていたのです。 その後10数年たって、私は作曲の仕事をするようになり、日本の歴史ドラマが好きで、NHKの大河ドラマを何本も手がけていた頃、「源氏物語」にも再び興味を持ち、こんどは本格的に読み始めたのですが、読者に推測を促すような主語などがはっきりせず、誰のことを云っているのかわからない文体は、雰囲気としては感じられても、欧米風の主語がはっきりとしていて、「誰が何を考え、どう行動して誰をどうした」などという明確な表現にならされている私にとって、こういった書き方で長編となるとつらいものがあり、読む途中で頓挫してしまい、いずれ読もうという気持ちだけはあっても、そのままにまっていたところに、瀬戸内寂聴さんの現代語訳のわかりやすい「源氏物語」に出会いました。 わかりやすい上に面白く、途中で中断して、またあとでその続きを読み始めても容易に理解が出来ますし、現在われわれがテレビなどで耳にする日常的な身近な言葉が随所にでてきて親しみやすく、登場してくる様々な女性像を鮮明な姿でイメージすることができました。それは作曲の上でも"若紫" "葵の上" "六条の御息所" "浮舟" などの、それぞれの人間像と個性、そして彼女たちにまつわるさまざまな人間模様を描くことができました。 ところが肝心の主人公である"光源氏" の顔形も含めた人間像が私にはさっぱり浮かんで来ないのです。現在活躍している俳優やタレントさんのうちで誰がいちばん近いイメージか、想像をめぐらしたのですが、誰にも相当しません。いったい彼は何者なのか? たとえば私が大きなドラマ番組の音楽を担当する場合、最初に台本をプロデューサーから手渡されます。その時、まだ俳優が決まる前に台本に描かれた主要人物、"平清盛" "武田信玄" "上杉謙信" などの人間像が浮かんでくるのが常で、主題になるメロディーを前もって作曲することができたのです。 ところが"光源氏"は、私には顔の輪郭がいつまでたってもハッキリと浮かんでこないのには悩みました。 そこで、たまたまテレビや写真集で見たホリ・ヒロシさんの人形を見て、やっと「ああこれだ!!」と思わず叫びました。光源氏は時空を超えた人なんです。私の勝手な解釈ですが、汗をかく生身の人間の中には存在しないキャラクターなのかも知れません。 ホリさんのかもし出す異次元の世界、そして、怪しいまでもの美しさは、まさに私がイメージしていた"光源氏"の世界でした。 この曲には特に"光源氏"のテーマメロディーというものはありませんが、全編に渡ってそれぞれの登場する女性のテーマメロディーの背景に姫路で千年の歴史のある「明珍火箸」のぶつかり合う音とともに、和音となってながれる、ロンドンフィルハーモニーのストリングスのサウンドの中に"光源氏"を表現したつもりです。 そこで、私からホリ・ヒロシさんに直接、このCDのジャケットに人形を登場して頂けるかどうかお願いしたところ、快諾してくださり、お蔭様ですばらしいアルバムになったことに喜んでいます。 このCDの製作にあたって協力してくださった多くのみなさん、そして、この「源氏物語幻想交響絵巻」をとりあげて下さった日本コロムビアのみなさんに心から感謝いたします。
冨田 勲(ライナーノーツより)
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