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第1話 エンドレス〜出会い
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僕は一年ぶりに、上京した。
東京に来たのは高校の修学旅行、高校三年生の受験に続いて三回目だ。修学旅行では皇居を一周し、高校三年生のときは幡ヶ谷のぼろホテルに宿泊した。三回目になっても、僕はこの東京という得体の知れない怪物の全体像をつかめないでいた。羽田空港から京急線に乗りながら覗く街並はどこまで見渡しても灰色で、ノミよりも小さい僕の視界からは、だだっぴろい背中しか見えず、どこに顔があるのかも分からない。ばかでかすぎてサイズが測れないのだ。あと、東京がいつもより広く見えたのにはもう一つ理由があったのかも知れない。今回は初めて一人だった。
上京の前日、福岡の郊外に住む僕は受験の準備に疲れて、休憩がてらダイエーに行った。今年の二月は別に雪が降るわけでもないが、なぜか例年より寒かった。最近近くの大通りはやたらと拡張されて、広々とした空間になっていた。僕は気持ちよく自転車を走らせた。もうすぐこのあたりに都市高速が通るらしい。
ダイエーに着いて、店のスペースの一角にあるCDショップにふらふらと寄った。店内では、新人バンドらしいグループのBGMが流れていた。どうやら東京について歌っているようだ。折しも今日は旅の前日。これも出会いかなと思って、そのBGMのCDを探した。そうしたらレジの店員があるCDをじっと見つめていた。あれかなと思って、「あの、…すいません、そ、それ、今かかっているやつですか?」「あ、はい」「あ、じゃあ、それ、いいですか?」何も買うつもりじゃなかったが、たまたま財布に入っていた小銭でそれを買って帰った。
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第2話 エンドレス〜一人旅
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一人旅をすると、それまで当たり前だった外の世界との関係性をはぎとられる。羽田空港に着いて、馴染みのない街、人。誰も僕のことなんて知らない。もちろんそれは福岡の街中でだってそうだ。しかし、福岡空港までと、羽田空港からでは、明らかに何かが違う。僕の皮膚のラインが強固な境界線を描いて、ぽつねんと自分だけが残ってしまっている。そのことになんとなく不安になった僕は、何かから身を隠すように、大きめの旅行カバンからCDプレーヤーを取り出し、耳かけ式のイヤホンで自分の耳を覆った。昨日買った新人バンドの音が流れてきた。
京急を下り、品川でJRに乗り換えて、小田急線で参宮橋駅まで行き、代々木公園のオリンピック記念センターに向かう。そこにはデザインの新しめな宿泊施設があり、そこに泊まることになっている。代々木公園というだけあって、緑の多い場所だった。東京という街は緑までが都市計画に織り込まれ、整然と整列させられているようだ。太陽はもう夕陽になろうとしていた。まだ三時半だというのに。福岡ならまだもっと明るいはずだ。僕ははるか東の異郷に来てしまったんだな。ポケットにかじかみそうな手を隠し、イヤホンで耳を覆い、眼鏡を曇らせながら、僕はだるまのような格好で歩いていった。
宿泊所に着いたら、どっと疲れが押し寄せてきたので、ベッドに横になってしばらく眠った。変な態勢だったので、あまり気持ちのよいものではなく、本当に眠れているかどうかも怪しいものだった。やっぱりどこかで旅の興奮が残っているのだろうか。…そんな状態でも夢らしきものは見るようで、少しずつおぼろげな映像の中に意識が埋没していった。両耳はイヤホンをしたまま、東京の歌を一曲リピートで鳴らしたまま。新人バンドは何かを叫んでいた。東京に来たはいいけれど、忘れられない人がいるらしい。何度も何度も叫ぶので、僕もそれらしい夢を見た。悲しいけれど幸せな夢だった。
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第3話 エンドレス〜特殊な空間
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この一年間、胸を張ってやったと言えるのは受験勉強だけだった。とはいえ予備校のカリキュラムに何とか付いていったというだけで、与えられたものをなんとかこなした行為を主体的に「やった」と言えるのかも怪しい。高校時代の友人ともたまに会うだけだったし、予備校でそんなに友達ができたわけでもない。大部分の時間は自習室の一席に陣取って、参考書を広げてなんとなく一人でぼーっとすることに捧げた。だが別に焦りはなかった。時が来れば勝負しなければならないが、今僕は予備校生であり、予備校生として過ごしていればいいのだ。時間が来れば家に帰り、飯を食い、もう一度参考書を広げて、寝て起きて、予備校に行く。その繰り返しだった。
退屈といえば退屈。輝きがないといえばない。しかし、それがそもそも人生というものだ。高校時代はいろんな行事があって、部活があって、毎日が目まぐるしかったが、そういう空間の方が特殊なのだと思った。この退屈に心を病むことなく、いかにやり過ごすかが重要だ。
そうして勝負の時がやってきたわけだ。まぶたがゆっくりと開く。一年間の集大成をまとめたノートに早く目を通さなければ。しかし、なかなか起きられない。両耳ではまだ新人バンドの曲が鳴っていた。ギターのリフが気持ちよく、ずっとこのままでいたかった。
「僕の思いは君には届かないから」
「久しぶりに君に会えました」
そんなことばかりをこの曲は繰り返す。やたら未練がましい詞だ。しっかりしろよと言いたくなる。お前の恋の話なんて知らないよ。…じゃあ聴くのを止めればいいんだ。しかしそうもいかない。彼の叫びのような歌声を聴いていると、なんだか懐かしい気がしてくる。最近、こんな気持ちになったことはなかった。いつ以来だろう。忙しくて楽しかった高校時代の思い出が次々とよみがえってきた。部活のこと、文化祭のこと、バンドのこと、気になっていた女の子のこと。学校にいる間、常にその子の視線を気にしていたことも、いつの間にか忘れようとしていた。別に失恋したわけじゃないが、全ては学校の中での話だと思っていたのだ。卒業して、違う予備校に行って、あの頃の僕は終わった。もしかしたら、退屈な受験生活を送ることで昔の気持ちを封印しようとしていたのかも知れない。彼氏もできているのかも知れない。そんなことを曲を聴きながら少しずつ思い出した。彼女の面影が浮かんだ。まだなんだかぼやっとしている。もうちょっと、懸命になってはっきり思い出そうとしてみる。少しずつ輪郭が見えてきた。新人は彼女を歌った。僕は胸が締めつけられるような彼女の笑顔を思い出した。もはやこの曲は、新人君の話ではなく自分の話になってしまっていた。一年間うっ積していた感情を今になって吐き出そうとするかのように、突然、ぶわっと涙があふれ出て、嗚咽が止まらなくなった。その日は結局ベッドから起きられなかった。
次の日、電車で受験会場に向かう。耳かけ式のイヤホンで同じ曲を聴きながら。眼前に広がる東京の街。昨日の僕をこんな気持ちにさせたのは、大東京にぽつんと一人でいるせいか、新人バンドの未練がましい音楽のせいなのか、はたまたそれらの相互作用か。視覚も聴覚もこれまでの退屈を打ち破る鮮烈な刺激を受けたから、ショックだったのかもしれない。受験会場に入ってもずっと、音楽と太陽の光があいまって、キラキラと金色に輝き続ける東京の街並の余韻が抜けなかった。
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第4話 エンドレス〜再会
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試験は思いのほかうまくいった。やはり予備校の分析力は偉大で、直前にやった大学別模試の内容がかなり的中していた。門の外では各予備校が早くも速報解答例を配っている。自校の宣伝を隅に載せているので、なんとなく来年も来いと言われているようで気が引けたが、合格を確信したかったので解答例を受け取った。よく読むと、思ったよりも間違っていた。
何百何千という受験生が一気に門をなだれ出る。ふと僕は辺りを見回した。同級生の知り合いも何人か受けているはずだった。なかなか見つからない。しばらく探した。十五分くらいしても誰もいなかったので、もうみんな帰ったのかなと思った瞬間、後ろから声がした。
「黒ちゃんやない?」
僕は振り返った。同級生の和美だった。
「おう、誰かと思った」
「久しぶりやねー、元気にしてた?K塾に行きよったんよね」
「うん、Yゼミには模試ぐらいでしか行かんかったし、会ってないね。他の奴らは?」
「さあー、見らんね」
僕らは渋谷のカフェに入った。女子とカフェに入るなんて、そうそうなかったが、同級のよしみということもあって、意外と平気だった。
話題は試験についてと、高校時代の同級生の進路についてと、最近聴いている音楽について。和美は浪人したのが信じられないくらい、僕よりはるかに成績が良いので、謙遜はしていたがこの調子だったらきっと受かるだろう。僕は手ごたえの割には解答例と違ったので、少し不安だと言ったら、速報の解答例は当てにならないことも多いという適切なフォローが返ってきた。
僕は新人バンドの話をした。彼女は僕よりもこと邦楽に関しては詳しいので、やっぱり知っていた。そして彼女もCDを買っていた。
「いいよね。私はメロディーラインとコーラスが好き」
「ああ、コーラスいいよね。サビとアウトロのね」
「サビにコーラスあったっけ?」
「あるよ。同じメロディーがダブルで重なっとうやん」
「そういうのはユニゾンって言うとよ黒ちゃん」
「ああ、ユニゾンユニゾン」
「ははは、ほんとに分かっとうとー?」
さすがに昨日涙を流しながら聴いたとは言えなかった。しかも思い焦がれた対象が和美本人とあっては…。しかし妙なもので、昨日はあんなに恋い焦がれたにもかかわらず、本人を目の前にすると至極冷静に受け答えをすることができ、ましてや昨日のような気持ちにはなれなかった。あれは和美本人というより、一年間の退屈で溜まりに溜まった妄想の産物だったのだろうか。ということは、今、和美には何の感情も抱いていないということか。何ごともなかったかのようにおしゃべりを続ける自分に違和感を覚えた。
「ねえ、明日新宿でこのバンドのライブがあるっちゃけど」
「あそうなん。行くと?」
「うん。黒ちゃんも行く?」
「終わるの何時?明日夜行バスで帰るっちゃけど」
「間に合うよ。出発二十三時過ぎやろ?」
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第5話 ラストショー〜擦れ違い
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「では、本番よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」「お願いしますー」
スタッフとメンバーが声を掛け合ってリハーサルが終了した。二月だというのにメンバー四人全員がTシャツだった。それでも全員汗をかいていて、ステージからはうっすらと湯気が立っていた。大事なのは本番だというのに、必要以上にヒートアップしてしまったのだ。ボーカルのハヤトは少し自分の喉を気にかけた。しかし、まあいいや、と思った。今日は全てがうまく行く確信があった。楽屋に戻って、全員タオルで汗を拭いた。本番まで時間があるので、近くの喫茶店で時間を潰すことにした。
ライブ前の空き時間や、練習の後は、決まって四人そろってどこかの店に入って馬鹿話にふけるのが恒例だった。仲が良いとかそういうことではなく、単純にそういう時間が一番楽だったからだった。真面目なミーティングは極力避けることにしていた。練習やミーティングをしていると、どうしても衝突が避けられない。お互いの性格が合わないからではない。日常ではみんな人間のできたいい奴ばかりだった。それに、もともとハヤトの書く曲が好きで集まったメンバーだ。しかし、このバンドには方向性を示す絶対的なリーダーがいなかった。もちろん、ハヤトが曲を作り、歌うというバンドなのだから、当然バンドの方針を決める責任の大部分は彼にあるといっても過言ではない。しかし、彼は四人の中で一番若く、精神的にも他の三人より弱かったため、三人三様の思惑をうまく一つにまとめることができないでいた。
喫茶店でくつろぐ四人はあのリハーサルのこともあって、さすがに少し疲れて会話もなかった。しばらくすると、ドラムのナギサが沈黙を破った。
「あのさあ、ハヤト。お前これからどういう名義でやっていくの?」
「いや、サカノボルトのままで行こうかなって」
「…ああ?おい、サカノボルトは俺ら四人のバンドだろ!」
「いいって、いいって、いいって」
ベースのツヨシがさえぎった。
「もういいじゃん、後のことはさあ」
「良かねーよ。お前が一人でやるってのはまだ仕方ないよ。
でもそれじゃあ俺ら三人が首になったのと一緒じゃんかよ。理由を教えろよ」
「いや、だって、やる曲は変わんないし、…知名度もあるし…」
「馬鹿にすんなよ!」
ナギサがテーブルを強く叩いた。コーヒーが衝撃でこぼれた。ツヨシとギターのトシヤがそれをいそいそと拭いた。ツヨシが言った。
「ねえライブ前にさあ、そういうの止めようよ。後で話そうよ」
「こういうのを放っとくからダメになるんだよ。ツヨシ、お前は気楽でいいよな。もう次やるバンドが決まってんだから。大体こうなったのもお前のせいだろ」
「いやいやそういう問題じゃないって…」
しばらく四人の間に沈黙が流れた。しばらくして、これまで黙っていたトシヤが言った。
「あのさあハヤト」
「…何?」
「サカノボルトっていう名前は僕ら全員で決めたんじゃん。
やる曲が変わらないからって同じ名前で活動するのは、僕ら全員が了承すればいいんだろうけど、
そうじゃない限りやっぱり良くないと思うんだよね」
「…うん、でもお客さんのことを考えたら…」
「考えたら?」
「…今まで出たシングルとか、サカノボルトの何々、どれどれっていう曲だしさ。
俺が歌うのは変わらないわけだし。いきなり変名で同じ曲をやっても混乱するんじゃないかなって」
「いいじゃんいったんフラットにしてしまえば。僕たちみんなゼロからのスタートになるわけだしさ。
それに、それって、今まで育ててきた自分の曲が可愛いだけでしょ?客のためって言ってるけど。
それ、すごい卑怯だよ」
「…」
ハヤトはもはや何も言えなくなった。トシヤは続けた。
「僕はサカノボルトっていうのは四人がそれぞれ四分の一の役割を持った本物のロックバンドだと
思ってるんだよね。誰が欠けてもそれはサカノボルトじゃない。たとえ同じ曲をやってもね。
みんな考え方はそれぞれだろうけど、僕はサカノボルトという名前にそういう愛情を込めて
やってきたつもりだよ。そこんとこよく考えてよ」
「…」
「まあ名義なんてどうでもよくてさ、どっちにしろ今日が四人でやる最後だしさ。
悔いのないようにしようよ。それしかないって」
「そうだね」「うん」
ツヨシとナギサも同意した。ハヤトも静かにうなずいた。四人とも、これ以上泥仕合をやっても仕方がないと思ったし、普段あまり語らないトシヤの意気に感じた。本番まであと一時間を切っていた。
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第6話 ラストショー〜嘘つきの歌
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楽屋で衣装に着替えた四人は、タバコを吸ったり、お茶を飲んだり、爪を切ったりしながら本番を待っていた。前の出番のバンドは最後の曲をやりはじめた。古いライブハウスなので壁が薄く、楽屋までMCがまる聞こえだった。デビュー以降数十本のライブを消化してきた彼らだったが、本番直前はいつも緊張する。ドス、ドス、ドスと地鳴りのように楽屋を揺らすバスドラムのビートが自分たちの心臓の鼓動のように響いてくる。ハヤトは深呼吸を繰り返したが、何度やっても体の固さが取れずに気道が確保できない。腹式呼吸ができず、呼吸が胸で止まっている。もともと一度も専門的なボイストレーニングなど受けたことがなかったので、こういうときにきちんと身体を起こす術など知らず、なんとか我流でやるしかなかった。ハヤトは深呼吸をしながら、飛び跳ね始めた。
前のバンドの演奏が終わった。前のバンドの機材がハケるのを待った後、メンバーとスタッフでほぼ真っ暗なステージに行ってセッティングを始めた。四十センチくらいの高さしかないステージから客席をそっと覗くと既に満員で、彼ら目当ての客が多いらしく、まるで夜の岸辺の黒い波のように、ゆらゆらと、前へ前へと押し寄せていた。関係者を除く満員の客のほとんどはまだ、このバンドが今日を限りに活動休止することを知らない。誰もが期待の眼差しでこちらを見ている。ハヤトはまだこのバンドを始めたばかりのことを思い出した。
最初にライブをやったのは、ここ、新宿JAMだった。オーディションを兼ねたライブだったが、来てくれたのはみんな友達で、それも六人ほどだった。他のバンドを見に来た客の中には座っている者もいた。それから都内各地で月に二、三本のペースで活動を始めたが、客席ではいつも閑古鳥が鳴いた。ライブハウス側からノルマとして課される十五枚〜二十枚のチケット代の半分は自分達で払い続けた。一本ライブする度に一人当たり五千円〜一万円が飛んだ。毎回アンケートを回収してもほとんどが友達からのもので、プライドが高く、自分のやっている音楽に絶対の自信があったハヤトにとっては辛かった。インディーズでCDを出す機会に何度か恵まれると、少しずつバンドマン界隈では認知度も上がっていったが、なぜかお客は一向に増えない。ライブは常に完全燃焼しているつもりなのに…意気込みに結果が付いて来ない焦りを感じながら、何の根拠もなく「自分達はプロだ」と言い聞かせる日々が続いた。
そんな状況が二年ほど続いたが、にも関わらずあるプロダクションに興味を示され、メジャーのレコード会社でCDを出してからは、大々的に広告もされるようになり、急に動員が増え始めた。メンバーの士気も上がり、ライブも良くなっていった。このことはハヤトにとっても喜ばしいことだったが、結局他人の力を借りてしか注目を集められなかったことに心のどこかで絶望していた。満員の観客の前で歌う日々。夢にまで見た光景だったが、どうしてもどこかでその状況をあざ笑う自分がいた。これは、自分の力じゃない。バンドの力でもない。このバンドはメディアに作り上げられただけのニセモノだ。それでもハヤトは先行するバンドのイメージに楽曲をすり寄せ続けた。それが仕事なのだと思った。プロダクションやレコード会社も何かとうるさかった。モチベーションはどんどん下がっていった。他の三人はそんな悩みも知らず、お金の心配をせずにバンドがやれることに有頂天だった。少なくともハヤトからは、そう見えた。
しかし、バンドのイメージとは、ハヤトの作る楽曲から生まれるイメージであって、バンド全員自分達がどういうバンドとして売り出されているのか、分かっているわけではない。スタジオに入っても、それぞれが自分の趣味に走るばかりで、急に演奏をやめたり、フィルインを変えたり、気分次第でフレーズを雑に弾いたり、アレンジと称して的外れなところで曲作りが止まったりすることが多かった。ハヤトは一番年下なので、そんな自分勝手なメンバーに手を焼いたが、「それがロックだ」と言われると二の句が告げられなかった。バンドを完全にコントロールするだけの力もなく、思い通りに曲作りが進まない状況に嫌気が差していった。そしてその「思い通り」というのも、売るために決められた「イメージ通り」ということ。ハヤトは二重の苦しみにさいなまれ続けた。
三年前のオーディションライブがなつかしい。セッティングをしつつ、満員の客を見ながらふと、自信満々でわずか数人の友人に向かって歌っていたあの頃と、満員の客の前でいろんな雑音にさいなまれながら歌っている今と、どっちが幸せだろうと考えた。答えは明白。今の方だ。俺はこれまでそう思ってやってきたんじゃなかったか。ビートルズに衝撃を受けて以来、自分もああやって自分の曲が全世界で愛される光景を見てみたいと思いながら。そして今、ステージを見渡せば、自分の本当の気持ちから出たかどうか怪しい歌詞を信じ、少女漫画のようなキラキラした眼差しでこちらを見つめる人たち。ここには、この日のために少ない小遣いを切り詰めて来た女子高生がいる。わざわざ大阪から新幹線でやってきた社会人がいる。一年前からほとんど皆勤で客席の右端最前列にいる人がいる。本当かどうか分からないが、「あなたの歌で人生が変わりました。今度またライブ行きます」と手紙をくれたあの人も今日来ているかも知れない。俺の歌は、彼ら・彼女らの人生の一部となっている。もはや、自己満足のバンドではなくなっているのだ。自分の本当にやりたいことが何かなんて、忘れてしまった方がいいんじゃないかとさえ思う。俺の歌が嘘か本当かは分からない。それは俺だけが決めることじゃなくて、歌を聴いた人それぞれに判断してもらえばいい。どうあれ、一つの事実として、今俺は沢山の人の賛同を得てステージに立っている。ならば俺は、嘘でも何でも歌ってやろうじゃないか。誰かの心の中で真実となって輝き続ける歌を。
セッティングが終わって楽屋に戻り、ステージは暗転、転換中のBGMとは明らかに違う音量で、登場の音楽が流れ出した。舞台袖でいつものように円陣を組んで軽く気合を入れ、ステージに登った。大歓声が彼らを迎え入れた。
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第7話 ラストショー〜アンコール
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「こんばんは、サカノボルトです」
客は歓声で応えた。ナギサがスティックで四つカウントを入れた。全員が渾身の一撃をおのおのの楽器に加えた。四つの音が出た。鳥肌が立った。「こんばんは、サカノボルトです」――このセリフを言うのは、今日で最後にしよう、とハヤトはなぜかこの時になって思った。ハヤトはその四つの音に三年間酔いしれていた。何が起ころうと、評判の悪かったライブだろうと、これらの音が鳴ってしまえば何もかも忘れられた。やっぱりこの四つの組み合わせは特別だ。久しぶりにそう思えたのだった。そしてこの組み合わせは、明日以降生まれることがないと、強く感じた。この気持ちを忘れたくない。やっぱり、ソロになったら何か別の名前をつけようと思った。そっちの方が正しい。何が正しくて何が間違っているのかは、誰にも分からない。神様のみぞ知る。楽器を鳴らして出てきた音がその神様を呼び出してくれる。音は神様からいろんな話を聞いている。そのごく一部ずつを、楽器を一音鳴らす度に教えてくれるのだ。音を鳴らし続けていれば、いつかは全てが分かる。まったく、このどうしようもないダメ人間達からどうしてこんな素敵な音が生まれるんだろう。
歌い出しは失敗してしまった。一曲目、二曲目とやはり緊張からかあまり声が出てこない。なんだか身体が震えている。周りの音が凄すぎて負けそうだった。いつも歌いながら、ベースのフレーズが間違っていたら気にかかり、不安定なドラムのリズムに懸命についていこうとしながら、歌の音程も外れないようにしなければならない等、とにかくこのバンドで歌うには労力が必要だ。今はその心配が全くない。次のミーティングで改善すべき課題など存在しない。何をやってもいいのだ。いつもより暴力的でハッキリしたリズムが歌っているハヤトの後ろから攻めてきた。後ろを心配する余裕なんてない。心配なんてしていたら置いて行かれる。
今日はなんだか、歌っていて全然孤独じゃない。全員の音が客席に全力で向かっている。ハヤトはバンドのフロントマン。一人で客と相対しなければならないが、今回はハヤトの役割は四分の一でよかった。四人全員で客と戦う。ハヤトは自分の歌に集中した。
ギターのトシヤはいつも死にたいような顔をしていて生きているのも億劫そうなのだが、ことライブの瞬間だけは活き活きしている。今日は特にそうだった。この日のために生まれてきたような顔をしていた。必要以上に頭を振りながらハヤトに近づいてきた。二人は向かい合ってギターを掻き鳴らした。ベースのツヨシはなぜか客席に背を向けてひたすら頭を振りながら演奏していた。
曲はどんどん進んで、ついに残りの一曲になった。ハヤトは予定にないところで、マイクを持って肩で息をしながら話し始めた。
「ありがとう、ありがとう…。今日は、…アンコールはやりません」
客席から大ブーイングが起こった。
「今まで…三年間、…デビューしてから半年、本当に多くの人に支えられてきました。
…本当に感謝してます。国民栄誉賞を…狙うと豪語して結成したサカノボルト、少しでも何か変えられたかな」
ハヤトは雑誌の取材などで常々、バカっぽい大げさな表現を使って自分のバンドをアピールしてきた。
「もしかしたら、変えられたのは俺達かも知れないな。…夢も希望もなんにもなかった。食うために仕方なくバイトやって…、食うための金もすぐレコードに消えて…。音楽聴く以外何の楽しみもなかったんだ。死んだ方がましかなと思ってた。現実逃避…ていうの、本当は、俺達が世界に対して何かやれるなんて思っちゃいなかった…何かやれるとしたら、バンドかなとちょっとだけ思って、始めたらこんなんなっちゃって…。まあ、まだまだなんだけどさ。とにかくステージからのみんなの眼差しが俺を変えてくれた。俺を必要としてくれる人がこんなにいるんだなって。ほんとにありがとう。どんな形であれ、これからも歌っていきます。…サカノボルトは本日をもって活動休止します、最後の曲、『流れ者』」
歓声なのか悲鳴なのか分からない声が沸き起こる中で、ギターがイントロを刻み始めた。今まで三年間の中で最高の音が鳴った。ハヤトは気持ちよさそうに笑いながら思い切り歌っていたように見えた。人によっては、泣きながら歌っていると思ったかも知れない。本当はどっちだったのか、ハヤトしか知らない。
演奏が終わり四人は深々と礼をし、退場した。客席が明るくなってBGMが流れた。拍手が鳴り止まなかった。やがてその拍手がだんだんリズムを刻み始め、手拍子になった。店員が退場を促すが、誰もその場を離れない。普通は演奏者が退場してステージの照明が落ち、客席も暗いままならば、アンコールが用意されていることの暗黙の合図であって、客は手拍子を始める。しかし客席が明るくなれば本当に終わりということであり、三々五々退場を始めるものなのだ。しかし今回は事情が違った。突然の活動休止宣言に客は戸惑い、泣き出す者もいた。中には怒鳴りだす者も現われ、誰一人として帰ろうとしない。客は懸命にアンコールを続けた。十分経っても状況は変わらなかった。
「こりゃまずいな」
楽屋でベースのツヨシが言った。
「どうしよう、アンコールやる?」
ギターのトシヤが他の三人に尋ねた。しかしハヤトは
「いや、やっぱりやりたくない。カッコ悪い」
ドラムのナギサが言った。
「お前だけ弾き語りとかは?」
「ゼッタイやだよ!」
「でもこれ暴動が起こってもおかしくないぞ」
ナギサは客席の方を向いた。壁の向こうから、手拍子が聞こえてくる。スタッフも困り果てた顔をしていた。
「でもやらないって言っちゃったもんなー」
と言ってトシヤは下を向いて考え込んだ。二十秒ほどして、突然顔を上げた。
「ねえ、こういうのは?」
客席は相変わらず満員でアンコールが鳴り止まなかった。ステージは暗いままだった。と、その時客席が暗くなり、ステージが明るくなった。客席からは歓声が沸き、ステージに四人が出てきた。四人は演奏の定位置に着くことなく、ステージの真ん中に並んだ。そして無言のまま、両膝を曲げ、床に両手をつき、頭を垂れた。
――土下座が一分間続いたその間、歓声が鳴り止むことはなかった。
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第8話 BLUE〜CBGB
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新宿東口のアルタ前に六時半。現在六時三十五分。僕はまだ山手線の中にいた。メールで遅れる連絡はしておいたが、気持ちが焦る。新宿に着いて、駆け足でアルタ前へ。おびただしい数の案内板の中からなんとか「STUDIO
ALTA」を指す方向を探し出して駆け足で向かった。
アルタ前に着いたはいいが、この狭い歩道に対して人が多すぎる。皆が皆「アルタ前」で待ち合わせているんだろう。福岡では想像もできないことだったが、待ち合わせ場所に着いたにもかかわらず、僕は居場所を確認する電話をかけた。
「もしもし」
「あ、黒ちゃん、着いた?」
「着いた。ごめんごめん」
「私もおるよ。入り口の近く。見える?」
入り口の方を見回すと、白いコートをまとった腕が振られているのがなんとか見えた。和美だった。僕が近づいて行ったら開口一番、
「相変わらず遅いね。早よ行こ!」
和美は高校の頃から、明るい顔して歯に衣着せぬ言い方をするので余計にグサッとくる。僕らは急ぎ足で靖国通りへ向かった。二人とも新宿は初めてだったので、なかなか正しい道を見つけられずに苦労した。
「地図見たらこっちなんやけどねー。ねえ、これ、どっちかな?」
僕より十センチほど背の低い和美はこちらを見上げて、大きな眼をひときわ見開いて尋ねた。僕はライブハウスまでの道筋を頭の半分で考えつつも、残りの半分で、ことあるごとに和美の唇や眼を眺めながら、分析に努めた。一年間のブランクで蓄積されたイメージとの擦り合わせが続いた。同じ顔だが、完全に同じとも思えなかった。制服を着なくなった分大人っぽいのだろうか。場所もシチュエーションも変わってしまったせいで、なんだか違和感はあるが、それでも分析すればするほどに、昔どおりの和美のようにも見えてきた。やっぱりかわいいなという当たり前の結論が出た。
目的地のある大通り沿いに出た。ライブハウスのある通りというより、オフィス街の通りのようで、車の移動も激しかった。しばらく行くと、周りと同様にオフィスなビルの一階に、雰囲気の違う看板とその入り口があるのを見つけた。看板には雑に「STUDIO
JAM」と書かれてあった。その看板の下に入り口があり、入り口の周りだけがレンガ造りで固められていて、さながらオフィス街の中に、ニューヨークパンクの殿堂「CBGB」が迷い込んだようだった。入り口にたむろする女の子集団を掻き分け、和美は前売り券をカバンから取り出し、僕は当日券を買って中に入った。
分厚い扉の向こうでは、既に前座のバンドが演奏していた。重いドアを開けると、轟音が襲ってきた。客席にはかなりの客が入っていた。二百人はいそうだ。若い男もいたが、若い女の子の方が多かった。前座のバンドはすでに大汗をかいていた。彼らはかなりメタル色の強いプログレをやっていて、最前列の方には軽く頭を振っている客も数人いたが、ほとんどの客は静観している。前座目当てで来ている客はほとんどいなさそうだった。プログレバンドは、みんな巧いが、それ以上に「自分達はコレが好きなんだ!」という開き直りが感じられて好感が持てた。ボーカルがもっと若ければかっこいいのにとも思った。とはいえ、女の顔をコソコソ覗き込むようなことしかできない僕よりは、確実に輝いている。
前座の出番が終わり、ステージは暗転、客席が明るくなった。その途端に、客が前の方に押し寄せ始めた。やっぱり次目当てだったんだ。僕と和美も逆らえず、どんどん前へと押し流される。周りはほとんど女子だがお構いなし、肩や手、胸までも押し当ててくる。和美が僕の方に押されてきた。和美はなんとか腕でガードしようとしたが、耐え切れず、柔らかさを含んだ胸が僕の腕に押し当てられた。お互いコートは脱いでいた。和美はすぐに態勢をひねって背中を向けたが、今度は僕の方が背中から思い切り押されたので、和美の背後に回り込む形になって、そのまま押され続けた。目の前にある和美の首筋辺りから香水の匂いがした。僕は最悪の事態として股間が当たってしまわないように、腰を引いてなんとかしのいだ。
そのうち、BGMが止み、客席が暗転した。周囲が一斉に歓声を上げる。かなりでかい音量のBGMが流れ出すと、今日の真打ち四人が現われる。それぞれ定位置について、真ん中と右手の人はギターのチューニングを始めた。しばらくすると、真ん中にいるボーカルが顔を上げた。
「こんばんは、サカノボルトです」
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第9話 BLUE〜「オリジナル」
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演奏が始まった。最初の瞬間から、爆音の塊だった。ライブハウス慣れしていないからということもあるが、前座のときと違って前から四列目くらいに来ていたのでさらに凄まじかった。こんな音量で一時間もいたら耳が聞こえなくなってしまう。しかし、そんなこと思う暇もないほど目の前では訳の分からない光景が繰り広げられていた。まず、左手にいるベースがこちらを向いていない。背を向けている。右手のギターがピョンピョン飛び跳ねている。真ん中奥のドラムが思いっきり前のめりでタヌキのような顔をして叩いている。そんな状況の中で、普通に、というか、周りの三人をなぜか一切気にせずに、ボーカルはエレキギターを弾きながら歌っていた。歌自体はメタルでもプログレでも何でもなくただのポップス・ロックのようだったが、それだけに演奏とのアンバランスが際立ってむしろよりプログレッシブだった。
余裕も甘えも一切許されない空間だった。観客はビートに合わせてほぼ全員が飛び跳ね続けた。彼らにしっかりと挟まれて、僕や和美も揺れ動いた。股間なんてもう気にする必要もない。当たるのが当然の状況だったからだ。こんな時間がずっと続くのはばつが悪いが、悪くはない。和美はそんなことお構いなしにステージに見とれているようだった。
中学の頃にギターを始め、高校でコピーバンドでギターを弾いた経験があった。スタジアムの広大なステージで自由に演奏するようなプロのロックギタリストに憧れていた。今、スケールはちょっと小さいが、プロを地で行くギタリストが目の前にいる。客からチケット代をとって、その金で暮らしている人間だ。一体どうすればそんなことが可能になるんだろう。僕はギタリストをじっと見た。…ただメチャクチャやっているだけ。右手も左手も力任せにワーッと掻き鳴らすような感じで、まるで素人がカッコつけてやるエアギターのようだ。そんなんでいいのか。スピーカーからは支離滅裂な音が襲ってきた。これなら、俺にでもできる。確実にそう思った。しかし、今このバンドのあのギタリストの代わりに別の人が入って、ああいうふうにメチャクチャやったとしたらどうだろう。全然想像できない。あり得ない。今激烈な音を鳴らしているバンド「サカノボルト」の音になる気がしなかった。あんなにヘタクソなのに。それは、さっきから顔の見えないベーシストもそうだし、タヌキのドラマーもそう。もちろんフロントにいるボーカリストもそう。この四人の組み合わせで演奏しなければ成立しない音が鳴っていた。この独自性、特異性は自分達の曲をやっているから出てくる訳じゃない。彼ら一人一人が上手いからでもない。ただ、俺達はロックをやっているのであり俺達は「サカノボルト」という唯一無二のロックバンドだという強い気概を四人が等しく持ち合わせている。これが本当の「オリジナル」なんだ。僕は大好きなバンドのCDを聴いて、高校でコピーバンドをやって、ライブのセットリストに自作曲を申し訳程度に挟んだりしながら(しかも、セットリストの最もどうでもいい箇所に入れていた)、何を探していたのか。僕もCDラジカセのスピーカーの向こうで演奏しているバンドのような、「カッコいい」、「オリジナル」になりたいと思っていたんだ。さらに言えば、東京の大学を受験したのも、東京でもっと本格的な「オリジナル」バンドをやるための大義名分だったという一面も実はあった。そんなことは恥ずかしくて誰にも言えないが。でも、やっぱり東京に来れたら、バンドやろう。
MCはほとんどなかった。音楽で全てを語っている自信の表れのようにも思えた。最後の曲をやる前に、少しだけボーカルが喋った。夢も希望もなく、ただ音楽を聴くだけの日々。それをみんなの眼差しが変えてくれた。ありがとう。…ああこの人は、本当に音楽をやるために生まれてきたんだな。僕なんかこの人と違って、平和な家庭に育って、学校に行って、受験勉強して、趣味でバンドやって、恋愛もオクテで…何もこれといったものがない。どうやったらあんなに真っ直ぐな眼をしていられるんだろう。運命が違うのかな。
最後の曲は、このバンドとの出会いの曲、『流れ者』だった。やっぱりこの曲はシングル曲だけに、客の反応が違った。僕はこの曲を何度も何度も聴いた昨日のことを思い出そうとしたが、生で聴くとまた何か違ってなかなか思い出せなかった。ボーカルの歌い方が音源と違って物凄かったからかも知れない。期待した気持ちになれなかったのはちょっと心残りだったが、今日はもうそれでもよかった。和美は白くまぶしい光を浴びながら、じっと聴き入っていた。この曲を二人で聴けるなんて、思わなかった。
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第10話 BLUE〜一回コールド
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ライブはアンコールを一曲もやらずに終了して、人の流れに任せながら僕と和美は外に出た。まだ耳鳴りがする。深夜バスの発車時間が来るまであと三十分くらいしかなかったので、とりあえず新宿西口にあるバスターミナルへ向かうことにし、新宿駅に向かって歩き出したが、ライブのあまりの衝撃からか、しばらく無言が続いた。東口の階段を下りて、新宿駅の地下構内を通る。予想以上に経路が複雑で、人も多かったので通り抜けるだけでかなり疲れた。和美も疲れた様子だったので、バスターミナルの待合室で少し休もうということになった。二人は待合室の外に備え付けてある自動販売機で温かいコーヒーを買い、中に入って、少し薄汚れた、水色のベンチに並んで腰掛けた。ガラス越しに外を見ると、京都行きの高速バスが乗客を乗せている。乗客は入り口から二列に並んでいて、今から旅の始まりと言わんばかりの楽しげな家族連れもいれば、くたびれたスーツを着た出張帰りとおぼしきサラリーマンもいた。その光景を一通り眺めた後、コーヒーを一口すすって少し間を置いてから、僕は初めてライブについての話題を振った。
「今日、来てよかった」
和美も応えた。
「私も。すごかったよね、今日」
「前にも見たことあると?」
「タワレコのインストアイベントで一回見たよ。福岡の。その時はアコースティックセットやったし、
なんかユルイ感じやったけど。あんまり今日みたいにまとまってなかったかな。
今日が最後だったていうのもあるのかもね」
そういえば、ボーカルがMCで活動休止すると言っていたことを僕は今更思い出した。
「でもなんであんなにいいのに活動休止するんやろ?」
「まあ、最後のライブは誰だっていいライブするものよ」
「なんで?」
「それはね、最初のライブと一緒だから」
「どういうこと?」
「ゼロと隣り合わせやけんよ。一回目の前は、ゼロで、最後の後も、もう何もないけん、ゼロやろ。
人って、ゼロとか無とかそういうものに近づくと、いつも以上の力が出せるもんなんよ。
黒ちゃんのバンドだって、最初の文化祭のライブが一番良かったよ。ちかっぱテンパっとって」
和美は笑った。話している間、和美の唇のなまめかしい動きをじっと見ていた。僕は人の目を見て話せない時が多いので、そんな時は唇を見つめながらやり過ごすのだ。
「そう言われると、なんだかなあ。誰が言いよったん?そんなこと」
「私の持論よ」
「あ、なんだ。なんか哲学者の有名な言葉かと思った」
「えー、私の考えってだけじゃ信用できんとー?」
「そんなことないけどさ。でもなんか、俺結構感動しとったけん、そう冷静に分析されるとなあ」
「私もあのバンド好きやったよ。でもなんか事情があるんやろ。
終わってしまうようなバンドは結局その程度ってことなんよ。悲しいけど」
「厳しいね」
「そう?…そういえば黒ちゃん、ライブ始まる前私のおっぱい触ったろ?」
突然の急展開に僕は慌てた。
「何いきなり!いやありゃしょうがないよー。客が凄かったもん」
「はあそういう問題?」
「あいや、すまんかった」
「もうやめてよねー。嫁入り前なんやけんさ」
和美は無邪気だった。今の時代嫁入り前も何もないだろと思ったが、肩をすくめて力なく「ハイ」と言ってしまった。恋人同士なら別にこんな話をするまでもないし、他人同士ならこんな話はできない。僕と和美はそのちょうど中間の関係にある。高校時代の級友で、友達づきあいもそこそこ長いので、彼女は特有のいたずら心でこんな話ができたのだろう。しかし、こういう中途半端な距離でなされる会話が実は一番危険だということを和美は知らない。
「しめたと思った?」
和美は少しからかうようにこっちを見て訊いた。もう勘弁して欲しい。僕は軽く否定した。少し気まずくなり、結果的に和美に向けていた視線が唇から胸元へと滑り落ちて行った。恐らく日本人の平均より少しだけ大きめと思われる、白いコートをささやかに押し上げるふくらみが何とも言えなかった。落ち着いてよく見ていると、とんでもなくいやらしいことをしているような気がして慌てて窓に視線を逸らした。京都行きのバスはもう出てしまっていた。僕はなんとか話題を変えようとした。
「大学、受かるといいね」
「そうねー。どっちにしろ東京に来れるけん、それはいいけどね。でも国立がいいなあ」
和美は事前に東京にある私立大学に合格していて、今回の国立大の試験がダメでも東京に行くことは決まっていた。僕は福岡の私立大学に合格しているので、落ちれば福岡に留まることになる。両方受かれば、和美と一緒に東京の大学に行ける。同じ場所で同じ時を過ごせれば、もしかしたらもしかするかも知れない。今、僕は重要な岐路に立たされているのかも知れない。どちらの道を行くのかは、自らの意志ではなく、二人の解答用紙に記された点数にかかっている。そんなものに今後の人生を左右されるのは、なんとなく悔しいし、ばからしい。しかし、今の自分にはどうしようもない。勉強でも金でも権力でも、力のある奴は人生の選択肢が増えるのだから、やっぱりこの世界は実力が物を言うのだ。和美は真っ直ぐこっちを向いて優しく言った。
「一緒に行けたらいいね」
一体どういうつもりでこんなことを言ってくるんだろう?深読みしてしまうじゃないか。これはカマをかけているのか?今の自分にはそうとしか思えないが、本当はそんなことはないんだろう。自分の都合のいいように現実を解釈してはいけない。ただ、深読みの解釈が正しい可能性もあるのだから、その気持ちに応えたい。危険過ぎない程度に。男女の駆け引きに勝ち負けがあるとするならば、得てしてこういう時、男はすでに大敗を喫しているのだった。野球で言えばコールド負けの状態だ。僕はなんとか和美の目を見て真意を測ろうとしながら言った。
「うん。そうね。あ、そうだ、一緒に行けたら…」
「行けたら…なあに?」
どうして「な」と「に」の間をかわいらしく伸ばすんだろう。僕はなんとか声を絞り出した。
「…一緒に行けたら…一緒にさ、」
「え?」
「一緒に…バンドサークルに入ろうよ」
これもまた、深読みができないこともない曖昧なセリフだった。
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第11話 ロシアンヌ〜キャンパスライフ
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結局、僕と和美は共に合格した。受験が終わって、半分合格した気になっていた僕は、東京で一人暮らしをするための訓練と称して、実家の夕食作りを毎日手伝うようにしていた。合格の電報が届いたときもちょうどから揚げを作っているときで、エプロン姿で電報を握りしめ、ガッツポーズをした。その日、親はから揚げがあるのにもかかわらず、寿司をとったのだった。
再度の上京。前回の受験の時とは違って、今度は福岡に帰ることなく、東京に住み続けなければならない。僕は例のサカノボルトの音源をずっと聴いていた。二十四時間聴いていた。東京に来たら聴かなければならないという戒律が自分の中であるようだった。街の印象は初めて見た時よりも素気ない感じは少なくなったが、それでもやっぱりこの曲を聴きながら見る東京の風景はいつもキラキラと輝いている。
入学式が終わって次の日は、サークルや部活動が一堂に会して新入生を勧誘する、オリエンテーションの日だった。構内道路脇の至るところにラクロス、テニス、野球、アニメ研究会、囲碁・将棋、政治研究会といった立て看板がひしめきあい、柔道着やらアメフトやら、いろんな格好をした部員たちが通り行く新入生にビラを撒いたり、声をかけたりしていた。芋洗いのようにひしめく人・人・人の間をかいくぐりながら、七号館に向かう。近づくにつれ、ドラムの音やギターの音が聴こえてくる。この日はそこで、バンドサークルが集まってライブをしているのだ。和美もそこにいるはずだった。
古びた茶色のコンクリートでできた七号館に入ると、壁に所狭しといろんなビラが張ってある。剥がれ落ちて床のそこら中にそれが落ちていた。でっかい紙吹雪のようだった。テレビで見た昔の学生運動でもやっているみたいだ。七号館に入って最初に通った教室では、ごく普通の服装をしたいかにも大学生な人たちがジュディマリをやっている。そういえば、高校の文化祭の時も毎年絶対誰かがジュディマリをやっていたよな。しばらくそれを観ていると、声をかけられた。
「キミキミ!!新入生?」
「あ、はい」
振り向くと、黒くグロテスクな絵のTシャツを着た、眼鏡で長髪の男が立っていた。
「やあ、そうか!バンドサークル探してるなら、ウチのライブ観に来ない?」
「あ、はい、…どこですか?」
「二階だヨ!!ウチはけっこう大きいサークルだから、大きめの教室でやってるんだ!」
普段からネクラなのか目線は下を向いているのに、声だけはやたらと営業モードで明るくてなんだか気味が悪い。先輩風を吹かせているからこんなに馴れ馴れしいのだろうか。
「何ていうサークルですか?」
「ウチらはねー、『S研』っていうんだ」
「『S研』?」
「『スラッシュメタル研究会』の略さ!」
「え…」
「キミ、スラッシュメタル、好き?」
どうしよう、全く興味がない。
「あいや、ちょっとそこらへんのジャンルは、そんなに詳しくはないですけど…あ、でもメタリカとかなら」
最後まで言い終わらないうちに男は鋭く反応した。
「あーーメタリカ!!それはかつてアンスラックス・メガデス・スレイヤーとともに『スラッシュ四天王』と呼ばれていたバンドじゃないか!僕も大好きだよー−!!それじゃあ、『ジャーマンスラッシュ三羽ガラス』は?『突撃型スラッシュ』というスタイルの連中だね。分かるよね?ソドムとか、デストラクションとか…」
「いや全然知らないんですけど」
男の勢いは止まった。
「あ…そう、いや、誤解しないでね、もちろん普通のJ−POPもやってるから、心配いらないヨ!大体、『S研』とか言ってるけど、『スラッシュ』のつづりの頭は『S』じゃなくて『T』だよね、『T・H・R・A・S・H』だからサ。全く命名した初代の部員ってば…あ、ごめんどうでもいいよね、とにかく二階行こう!」
とりあえず付いて行くしかなかったが、向かう先には明らかにJ−POPなどやっていない連中しかいなさそうだった。全員が男で黒Tシャツ。そしてその中の一人が持っているギターはフライングV。
僕はなんとか男の視線を人ごみで煙に巻くことに成功し、『S研』の向かいの教室にもぐりこんだ。そこでは最近のイギリス出身バンドの曲をやっていた。なかなかセンスの良さそうなバンドで、J−POPばかりやっているサークルには入りたくなかった僕は、このサークルはいいな、と思った。隣にいた部員らしき女の子に訊いてみた。
「あの、ここのサークル、何ていうんですか?」
「はい、『リズム感』よ!入部希望ですか?ぜひぜひ!」
「あいや、どうもありがとうございます」
『S研』をさらに上回る、かなりの名前の安直さに一瞬圧倒されたが、ここは男女比も悪くなさそうだし、明るいキャンパスライフが待っていそうだ。和美も入りやすいだろう。まだサークルはあるけれど、ここでピンと来たからここにしよう。
さあ、和美を探さなくては。電話をかけたら、同じ階にいるということでもう一つ別の教室に行ってみた。もう一つの教室の扉にはでかでかと「OMP(おんぷ)」と書いてあった。「音符」…これまたさらなる安直さである。
教室の中は暗く、仮設のステージで安っぽい照明に照らされながら、バンドが演奏していた。何だか小難しくて大人びた音楽をやっていた。こういうのをジャズとか、フュージョンというのだろうか。どちらにしても興味が持てそうにない音楽だ。インストゥルメンタルな曲でボーカルはいない。僕は歌モノのロックやポップスしか聴かないので、何も面白くない。しかも、演奏している連中はギタリストもベーシストもキーボードプレーヤーも、ドラマーですら、小難しいソロとかフレーズばかりやって、観客もその難しさ加減ばかりに注目して、ため息をついたりうなずいたり、拍手をしたり「イエイ!」とか言ったりしている。こんなのは音楽というより、指先の技術発表会だ。何よりロックを感じない。得意げな顔で何やってんだ。ああ胸クソ悪くなってきた。
…と、座席を見渡すと、後ろの方に和美が座っているのが見えた。近づいていくと和美は気付いたようで、元気に手を振って応えてきた。爆音の中、和美は僕の耳に口を近づけて大きな声で言った。
「私、ここに決めた!ここにしようよ黒ちゃん!」
こうして僕らは「OMP」に入部することが決まった。
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第12話 ロシアンヌ〜身から出たさび
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バンドサークル「OMP」に入部してからすぐに、新入生がバンドを組むための会合があった。キャンパスを入って奥まったところに、三階建てで鉄筋コンクリートの比較的新しめな建物があって、そこが部室になっていた。男女合わせて三十人ほどが二十畳ほどの一室に集められたので、なかなかごみごみしていた。サークルの部長である男がその場をとりしきっていた。
「えー、みなさん!これからバンド組みはじめますんで、一人ずつみんなに自己紹介してもらいます。
で、そのあとフリータイムでそれぞれご自由に声をかけてください。では、こっちの方の、君から」
「あ、はい、…えー、僕は…理学部の山田大樹といいます。山ちゃんと呼んでください!
こう見えてもけっこう明るい性格なんで、声かけてください。よろしくお願いします!」
「山田君、パートは?あと好きなアーティストもね」
「あ、はい、パートはギターで、好きなアーティストはイングヴェイ・マルムスティーンとビーズの松本です」
「はい、パチパチ〜。じゃあ、次の人」
「ええ、俺は工学部の本間満です。最近のマイブームは、卓球です。パートは歌を歌っています。
楽器はできません。尊敬する歌手は和田アキ子です。ええ、みんな俺のソウルを聴いてください!」
「はいはい拍手〜じゃあ、次」
「えっとぉ〜、文学部の長谷川です〜。私はぁ…」
そんな感じで自己紹介が回っていった。初見で三十人に自己紹介されても覚えられるわけがないが、その中で、良いなと思える人にはチェックを入れておいた。和美の番になった。学部と名前を緊張した様子で告げた。すると、見るからに女たらしそうな茶髪の上級生がヤジった。
「カワイイ!」
「えーと、楽器はキーボードがちょっとしか弾けないんですけど、ドラムも始めてみようかな、と思ってます。
よかったら誘ってやってください」
「誘う誘う!」
うるっせえ。
「好きなバンドは、ピロウズと、フラカンと、サニーデイサービスです」
おお、と少し部屋がどよめいた。和美は邦楽に明るい。向こうの方では女たらしの茶髪とその周辺がなにやら和美を横目にひそひそ話していた。どうやら和美のことを噂しているらしい。やな連中だ。やがて、自分の番が回ってきた。
「え…文学部の黒田…晃太郎です。
パートは…ギターと…ボ、…ボーカルで、…好きなバンドは…えと…え……え…。
すいません…なんだろ…オアシスとか…よろ、…よろしくお願いします…」
ひととおり自己紹介が回ると、「フリータイム」となり、早速目星をつけたベースとドラムに声をかけた。どちらも高校時代からの経験者の男で、趣味は違うものの、なかなか話の出来るやつだった。ようし、これで、僕がギターボーカルのバンドが出来るな。曲は何やろう。やっぱり「流れ者」をやろうかな。などと考えていると、男が一人寄ってきて言った。
「ねえ、ボーカルってまだいない?」
自己紹介二人目の、和田アキ子が好きなボーカルだった。いやいや間に合ってます。僕がギターボーカルをやろうと思っているんだ。そう思ったが、何を思ったか、
「い、いや…」
「じゃあ、俺も入れてよ。まだ組めてへんねん」
「あ、ああ、他に楽器は?キーボードとか、できない?」
「いや無理」
「そうか…」
「もう他のバンドみんなボーカルおるんよー。頼むよ」
一人だけあぶれる、というのもかわいそうだということで、僕は残念ながら承諾した。和田アキ子の曲はやらない、という条件で。
バンド組みが終了し、解散となった。僕は和美と一緒に帰ることにした。まだ歩きなれないキャンパスの並木道を歩きながら、僕は言った。
「和美さあ、バンド、先輩と組んでなかった?」
自分のバンドを組みながら、和美の様子も気にかけていたが、和美はあの女たらしの茶髪あたりの連中とずっと話していたのだ。
「うん」
「なんで?あいつらなんか気色悪くない?」
「いいや、いい人たちよ。それになんか話が合ったんよ。サニーデイとか好きらしいし。
私ドラム初心者ですけどいいですかって言ったら、全然いいって」
傍目から見てどうしても動機が不純な気がするのだが、和美はそれに気付いているのだろうか。
ともかく、一ヵ月後の新人ライブに向けて、練習が始まった。練習は一週間に一度のペースで三回、部室で行われた。第一回目の練習、初めて音を合わせる。曲はサカノボルトの「流れ者」をやることにした。イントロから始まり、Aメロ、Bメロ…ギターの音はペケペケと薄っぺらく、ドラムとベースはなかなかリズムに乗れない。挙句の果てにボーカルに至っては完全に和田アキ子の物真似をやっていて、しかも音程が定まらない。「ジャイアン」という名前が浮んだ。そんな太い声じゃなくて、もっとハスキーに、素朴に歌って欲しいのに。原曲とかけ離れたあまりのショボさに僕は焦った。あのキラキラした東京の街はどこへ行ったんだ。演奏が終わり、僕とドラム、ベースは気まずそうに顔を見合わせた。ドラムはあんまり練習していなかったらしく、口パクで申し訳なさそうに僕に「ごめん」と言った。僕の方も、何度も聴いた曲でコピーも完璧にしてきたはずなのに、全然合わせられなかった。そんな中、ジャイアンは一曲歌っただけなのに、すでに大汗をかいていて、振り向きざまにとびきり目を輝かせて言った。
「すげえよこのバンド、最高やな。な、な」
このように、初回練ではどうなることやら…という船出だったが、なんとか三回の練習でそれなりの改善がなされた。ドラムとベースのリズム隊は経験者なので、ある程度練習を重ねると自然と良くなっていった。問題はジャイアンで、練習時間のほとんどは僕からジャイアンへの歌唱指導、もといダメ出しに費やされた。三回目、最終練のときのことだった。
「俺の歌い方は一つしかないんやって!なぜならそれがオリジナルだから」
「いや、そういうことじゃなくて、曲調に合わせろっつってんの」
「合わせとるやんけ。切ないところは切なく、盛り上がるところは大いに盛り上がってるつもりやで」
「原曲と全然違うやん。もいっぺん聴いてみろって。オペラみたいな歌い方しとるやつがどこにおるか!
もっとこう明るい感じの声質にしてよ」
ベースの川崎が口を挟んだ。
「黒田、『流れ者』に関しては厳しいな。確かにTHE BOOMの『島唄』と『風になりたい』はその歌い方でもなかなかハマってるけど、『流れ者』は原曲のボーカルの声が細いからな。確かにちょっと違うかもね。でも、THE BOOMとサカノボルトとでは、歌っている人がもともと違うしねえ」
ライブでは、THE BOOMとサカノボルトという、異色の取り合わせの三曲をやる予定だった。
「とにかく俺はそんな俺流以外の歌い方は無理」
この「無理」というのがジャイアンのよく口にする単語だった。
「そんなん言うんやったら、お前歌ってみろや」
「…じゃあ一回歌ってみるからさ。こんな感じで歌ってよ」
こうして、僕がボーカルで一度曲をやってみることにした。もちろん歌詞は全部覚えている。ボーカルは正直高校のバンドで一曲だけやらせてもらったきりなのだが、中高と運動部で声出ししていたので、まあそこそこ歌えると思っていた。少なくとも「流れ者」に関してはジャイアンよりは上手く歌える自信があった。バンドの演奏をバックに、初めて歌う「流れ者」はなかなか感慨深いものがあった。今まで六畳一間の部屋の中で小さめにしか歌えなかったが、今回は思い切り歌える。ドラムもベースも爆音で、ボーカルもスピーカーで増幅されて負けないくらいでかい。これは気持ちいい。曲が進むに連れどんどん体中がノって来た。初回練でジャイアンだけが大汗をかいていた理由が分かった気がした。しかし、ということは自分だけが気持ちよくて周りは引いているかも知れないということか?歌いながら不安になった。ジャーン、と曲が終わって、僕は恐る恐るみんなの顔を覗き込んだ。耳に痛いほどのクラッシュシンバルの余韻がだいぶ消えたとき、ジャイアンが言った。
「ええんちゃう。なあ、この曲だけお前が歌えば?」
「え、いいの?」
「俺は別にええよ」
他の二人も、
「うん、いいと思うよ。この曲に関しては黒田の方が合ってるよ」
「そうだね」
と同意した。
「じゃあ決まりやな。それで行こう。ただし、THE BOOMでは俺流を貫くでえ〜」
ジャイアンはガハハと笑った。僕らも笑った。笑った後で、ジャイアンは小さく付け加えた。
「ほんとはこの曲自分で歌いたかったんちゃ〜う」
そう、僕はこの曲を歌いたかった。ジャイアンがバンドに入れてよと言ってきた時に、はっきりとそう言えば良かったのだ。そうすれば、あんなに歌のダメ出しをする必要もなかった。今考えるとあれはダメ出しと言うより、恨み節だったのかも知れない。なんて卑怯なことをしてしまったんだろう。全部、自分の身から出たさびじゃないか。つくづく自分の弱さが嫌になった。そしてそれと同時に、豪快な振りをして、こうした繊細なところに気付いて気を配れるジャイアンにある種尊敬の念のようなものを抱いた。
「じゃあ今度は『風になりたい』やろうぜ。さっきから俺様のソウルがうずうずしてんねん。思いっきり歌わしてもらうで」
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第13話 ロシアンヌ〜リサイタル
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五月の第三週の土曜日、新人ライブの日が来た。朝の九時に大学生協の食堂前に集合。朝ではあるがもう寒いということもない。ライブ会場は生協食堂だった。僕は十分遅れくらいで着いたが、もうみんな準備を始めようとしていた。和美がいた。最初は和美かどうかよく分からなかった。というのも、少し容貌が違う。
「おはよう」
「あ、おはよう…」
「髪、あれ、変わった?」
「見て分からん?」
和美はちょっと不機嫌そうに答えた。これまでの肩まで伸びた美しいストレートではなく、こめかみあたりからウェーブがかかった髪形になっていて、派手な印象を受けた。
「セレブみたいやろ?」
「セレブ…なんか、キャバ嬢みたい」
「もう、バカ!キュートなソフトウェーブよ。ライブやけんお洒落してきたと。可愛いかろうもん!」
言葉は強気だったが、なんだか恥ずかしそうだった。新しい髪型をもてあましているように感じた。大学生になったから、やってみたのだろうか。そういえば大学で同じクラスの女子のパーマ率は、驚くほど高い。ともかく、和美の高校生っぽい清楚な感じが無くなって、僕としてはかなり残念だった。それと明るい性格のギャップが良かったのに。和美は小走りに準備を手伝いに行った。和美が周りの女子と挨拶を交わすと、彼女らは口々に髪型を一目見てカワイー、カワイーと褒めそやしていた。
部室から食堂へ機材を運ぶ。食堂は三百人分ほど座れるテーブルが並べられているが、その一部を取り除いて特設のステージを作る。色付きの照明を取り付ければそこそこの見栄えはするものだ。ドンキホーテで買ってきた缶ビールやお菓子などが客席の各テーブルに散りばめられ、部長の挨拶のあとライブが始まった。僕のバンドは七バンド中、六番目。
最初のバンドが始まった。和美がドラムを叩くサニーデイサービスだ。ボーカルギターは、あの女たらしの茶髪先輩だった。やれやれである。
「みんなー、今日は俺のために集まってくれてありがとう!一生懸命歌います!最初から盛り上がっていこーぜーほらみんな前出てきてさ!さあさあさあ!」
サニーデイってこんなノリのバンドだったっけか。ともあれ、しっかり盛り上げ役ができているMCに、ちょっと感心した。そして演奏が始まると、もっとびっくりした。茶髪先輩の意外にも伸びのある高い声。筋肉質の身体が織りなす、見たこともないエモーショナルな動き。何より客に何かを伝えようとする「眼力」。すさまじいほどに印象的であった。僕は無意識のうちに気を落ち着けようとしたのか、本番が終わるまで封印しておくはずだった缶ビールの蓋を開け、いつの間にか一口すすってしまっていた。
和美にも驚いた。たったの一ヶ月で、頼りなさはあるが立派にエイトビートを叩ききっていたのだ。ちゃんとフィルインもしていた。総じて完成度の高いバンドで、周りからは拍手喝采が起こり、そのことが僕に嫉妬と焦りの入り混じった感情を引き起こさせた。
バンドの演奏が終わった後、和美が話し掛けてきた。
「ドラム、失敗しちゃった」
「いや、一ヶ月であれだけ叩けるってすごいよ。結構練習したと?」
「そうねー、結構部室で個人練したんよ!あっ、センパーイ、お疲れ様でした!私失敗しちゃったー」
「和美ちゃ〜ん、いやいや良かったよー!最高」
「センパイの歌こそホントスゴイ良かったー」
「いやあ、俺もまだまだだよ。あ、えーとこちらの君は?」
「あ、C年の黒田です。あの」
ボーカルすごかったです、と言おうとしたが、言う間もなく、
「D年本多っていいます。よろしくね。ねっ、和美ちゃん、もう終わったことだしあっちで飲もう!」
「はーい!」
サークルの年次はC(ド)から始まり、D(レ)、E(ミ)、F(ファ)、G(ソ)、A(ラ)、B(シ)と続く音階で表わされていた。つまりD年とは二年次を表わす。本多さんと和美は奥のほうの席にそそくさと移動し、サニーデイバンドのベースの男と三人で缶ビールを開け、楽しそうに乾杯した。僕は同じところでずっと直立したままそれを見ていた。
次のバンドは打って変わって、このサークルらしいジャズフュージョンぽいものをやっていた。新入生だから下手だろうと思いきや、ドラムもベースもギターもかなりテクニシャンで、これまた驚いた。しばらく聴いていたが、サークルオリエンテーションの時のような嫌悪感は湧かず、むしろ複雑な曲展開やコード感が興味深く思えた。これだから音楽は分からない。あのとき僕は「リズム感」「OMP(オンプ)」といった安直なサークル名を小馬鹿にしていた。しかし、それらなんかよりも僕の耳の方がずっと安直だったというわけだ。
バンドは続いた。青春パンク、椎名林檎、ファンクバンドと続いて、僕らの出番になった。
「ええ、どうもこんにちは、黒田バンドです」
ジャイアンが史上最強に安直なバンド名を名乗り、THE BOOM「島唄」の演奏が始まった。ライブは高校以来、久しぶりだった。本当に緊張する。手が震えてうまく弾けなかった。しかしジャイアンのほうを見ると、思いっきり歌っている。本番の緊張とは無縁な男だ。全力で客に歌を投げかけている。僕らはジャイアンに引っ張られるかたちで、曲の後半はなんとか自分たちの演奏を取り戻すことが出来た。
続いては「流れ者」。僕が歌う番だ。ジャイアンは立ち位置を後ろにずらし、僕がイントロを弾いた。しかし、上手く弾けない。歌には苦労しないと思っていたが、緊張で上手く弾けないギターという思わぬ強敵が現れた。練習のときと全然勝手が違う。歌っていても手元が気になり、音程がうまく取れない。思うように歌えなかった。歌いながらふと、ジャイアンは何してるんだろうと思った。が、チラ見する余裕もない。結局そのまま「流れ者」は終わった。ああ、不完全燃焼…これは客の拍手もあまり期待できそうもない。
しかし終わった瞬間、ものすごい拍手と喝采が起こった。僕は目を丸くした。一体どうしたんだ。これに応えるべきかと思って「ありがとう」の「あ」を言おうとしたそのとき、実は客の視線が僕に向いていないことに気付いた。
まさか…。そう、客の拍手はジャイアンに向かっていたのだ。彼は片膝をつき、顔を横に向け片方の手を額にかざし、もう片方の腕を飛行機の翼のように後ろに向けて真っ直ぐに伸ばし、キメのポーズをとっていた。まるでダンサーのように。肩で息をしているところを見ると、どうやら曲中ずっと踊りまくっていたようなのだ。そういえば歌っている間中なんだか笑い声が多いなと思っていた。なんだ…みんな僕を見ていなかったのか…。
「ありがとう!」
と言ったのは結局僕じゃなく、ジャイアンだった。続いてラストの「風になりたい」では一番だけジャイアン自身が歌い、それ以降のサビは客席を回って客に歌わせ、ラストのサビの繰り返しでは「みんな歌って!!」と合唱させていた。そんなことは打ち合わせていなかった。客は大盛り上がり。ほぼ全員が満面の笑みでの大合唱だった。演奏終了後にはすごい拍手が起こった。結局終始、ジャイアンのワンマンリサイタルとなってしまった。バンド名に自分の名前がさらされているのが恥ずかしい。これはまさにジャイアンバンドだ。自分の出番で目立たれたのは非常にしゃくだったが、自分たちの演奏でこんなに客が喜んでくれたことが素直に嬉しかった。全く彼には脱帽である。
楽器を片付け終わって、比較的空いている後ろの方の客席に回り、ジャイアン、ベース、ドラムとハイタッチを交わす。皆一様に健闘をたたえ合った。僕はあのとき一口飲んだきり我慢していた缶ビールを見つけてきて、思い切り喉に流し入れた。ビールはやや気が抜けて、ぬるくなっていたけれど、そのぬるさのためか飲んだらすぐに胸の奥が熱くなってきた。気分が良くなって、ステージを眺める。和美はやっぱりサニーデイバンドの先輩たちと、客席の真ん中の方に座っていて、リズムに乗っていつもよりふわふわした髪を揺らしていた。もうちょっとまともにちゃんと歌いたかったな。今日最も大事な仕事が終わって、僕は何を得たんだろう。まあ、いいか。気の抜けたビールは意外とすぐに底をついた。ステージではトリであるスカパラのコピーバンドが、スタンディングで最前に集まった客を盛り上げていた。
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第14話 ロシアンヌ〜好きな人
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ライブは無事に終了し、片付けの後、渋谷の地下にあるチェーン店の居酒屋で打ち上げという手はずだった。新入生と上級生合わせて五十人くらいで、座敷の広い一部屋を埋め尽くし、早々に乾杯が始まった。
「お疲れ黒田。ライブうまくいって良かったな」
「おお、お疲れ様。お前マジすごかったよ。神やった。人前に慣れとっちゃね」
「お前な、慣れはあるかも知れんけど、例えプロでも緊張はすると思うで。正直言って俺めっちゃ緊張しててん」
「うそ?」
「本当。じゃなかったらあんな変な踊りようやらんわ。照れ隠しよ照れ隠し。
踊るか死ぬ気で歌うかして我を忘れるしかなかったんやって」
「そうなんだ」
「ああ、眠い!」
「え、急にどうしたよジャイアン!まだ乾杯したばっかやん」
僕が名づけた「ジャイアン」というあだ名が、バンド内でも既に浸透していた。
「俺、酒飲むと眠くなんの。じゃあ、あっちでちょっと寝るわ。おやすみー」
ジャイアンはそそくさと和室の一角に移動し、上着をかけて横になってしまった。話し相手がいなくなった僕は誰かと絡もうとするが、数少なく話せる相手である黒田バンドのベースとドラムは少し距離のあるところで楽しそうにやっており、とても話し掛けられない。自分の周りには知らない先輩と同級生だけだった。向こうの方では、和美とその右手にサニーデイバンドの本多さんが僕に背を向けて座っていて、そのあたり五、六人で大いに盛り上がっていた。何となく、本多さんの身体が和美に少しずつすり寄って行っている気がする。僕は何だか見るのが辛くなって視線を下に落とした。目の前の料理が視界に入ったので、とりあえず、鶏の唐揚げと、カルパッチョサラダのマグロの部分だけを小皿に取り、一人黙々と食べ始めた。しばらくすると、向かいに座っている黒いおしゃれな服を着た女の人が声を掛けてきた。
「サカノボルトの『流れ者』歌ってた人?」
「あ、はい黒田です」
「やっぱりそうなんだ、なかなか良かったよ」
それを聞いて、僕は少し安心した。ライブが終わって様々な感想をもらったが、
ジャイアンのライブパフォーマンスと「風になりたい」の大合唱についてのものばかりで、
「流れ者」についての言及は、和美からも含めて一つもなかった。
「え…ありがとうございます!嬉しいす。あ、先輩は…」
「あ、ごめん、F年(四年次)の秋山理恵です。トロンボーンやってます。理恵って呼んでね」
「あどうも…サカノボルト、知ってるんですか?」
「知ってるも何も、ナギサさんってうちのサークルいたのよ」
「え!?ナギサって…」
「サカノボルトのドラムよ」
「そうなんですか!」
「私が新入生のときはまだいたかな。在学中から外でバンド始めてそれからは来なくなったけど。
だからE年以下の人はあんまり知らないみたい」
そう言うと理恵さんはカシスオレンジを一口飲んで、真っ直ぐで胸辺りまである髪をすくった。まつげが長くて、落ち着いたたたずまいの「大人」の色気を感じさせる人だった。
「理恵さん、知り合いだったんですか?」
「うーん、まあね。サークルにいるときはね」
「俺、最後のライブたまたま見に行ったんですよ」
「ホントに?ナギサさん、教えてくれれば行ったのになあ。あのバンド、終わっちゃったよねえ。
三年前にあのバンド始めたときはナギサさんすごい喜んでて、これに人生賭ける、みたいなこと言ってたなあ」
「そうなんですか」
「私たちと違って、音楽がないと生きていけない人だからね」
「やっぱり…。僕らとは住んでる世界が違うみたいな」
「まさにそんな感じ。ほんとにどうやって大学入ったのって言うくらい成績悪かったらしくて、
二回留年してるのよ。一日中部室でドラム叩いてて、夜になったら飲みに行って。
あの頃は毎日くらいの勢いで飲み会があって楽しかったなあ」
「ナギサさんと飲みに行ったりしてたんですか」
「うん」
「いいなあ…」
「別にそんな大したことじゃないよ。だってほんとダメ人間だったんだもん。
とにかく酒に女にだらしなくて、いっつも遊び歩いてて…典型的なロックミュージシャンって
感じだったからね。でも、面白くて優しい人だったよ。時々サークルの飲み会にも顔出すよ」
そう言うと理恵さんは笑みを浮かべた。笑ったときも、理恵さんの瞳には常にどこか憂いのようなものが含まれていて、吸い込まれるような不思議な魅力があった。
「今、何やってるんですかね」
「さあ、またバンド探してるんじゃない?あの人だったらまたいいバンド見つけると思うよ。あの人のドラム、まるで歌っているみたいなのよね」
「ああ、そうですね」
「すごく荒々しいんだけど、歌をギリギリのところで邪魔しないの。
叩いてる姿見たと思うけど、すごいでしょ?でも歌を聴いていると、メロディーとうまく絡んでるのよ。
私なんかが言うのもなんだけどね、彼は天才」
「はあ〜」
僕はもっとナギサさんの話が聞きたくて、いろいろ話してもらった。夏の合宿で急性アルコール中毒になったこと、何人もの後輩に告白されたこと、学園祭でマナーの悪い客がいたのでスネアドラムを投げつけ、乱闘になったこと…。どうやったらそんなに格好良く生きられるんだろう。
ふと和美のほうを見ると、本多さんと何やら話し込んでいた。二人の距離は相変わらず近く、おまけに今度は本田さんの左腕が和美の肩に回っていた。ことあるたびに顔を和美に近づけてはなにやら耳元でひそひそ語っていた。和美のパーマのかかった髪に男の唇が触れる。さすがに動揺した。僕は別に何を言える立場の人間でもない。だけどできることなら、目の前に置かれている使われていないアルミ製の銀の灰皿をあいつの頭に投げつけてやりたい。身体中の筋肉が緊張して、全神経が固唾を飲んで二人に注目しているようだった。しかし、今は理恵さんと話しているという手前もある。落ち着かなければ。何とかやり過ごそうと思って、僕は理恵さんとの話に戻った。ただ、それからの一時間はそれまでの五倍くらい長く感じられた。その場を去る勇気は僕にはなかった。
「えー、じゃあ、宴もたけなわだと思いますが、そろそろ時間なんで打ち上げはお開きで〜す、みんな気をつけて帰ってください!」
部長が大きな声で言った。ようやく終わりだ。腕時計を見たら二十三時半だった。僕は理恵さんと階段を登り、店の前に出た。みんながわらわらと出てきた。和美と本多さんはなかなか出て来ない。理恵さんは頭を押さえていた。
「黒田君、お家はどこ?」
「あ、井の頭線の永福町です」
「私も井の頭線。じゃあ一緒に帰ろっか。でもちょっとすぐ電車に乗るのは辛いかも…
ちょっと酔っちゃった…少し歩かない?」
「あはい」
入り口で和美と本多さんの笑い声がした。何がおかしいのか知らないが、二人とも何か秘密を共有したような満足げな笑みを浮かべて階段を登って来た。
「あ、黒ちゃん」
和美が向こうの方で僕に気付き、声をかけたようだったが、僕はわざと聞こえていない振りをして、
「じゃあ行きますか」
と言って足早に理恵さんと道玄坂を登り始めた。
とりあえず渋谷の次の駅、神泉まで歩くことにした。坂を登ると右手にラブホテル街の入り口があり、そこを抜けると、確か神泉駅があるはずだった。だんだん、青やピンク、黄色などの色つきのネオンが多くなってきて、いかがわしくて怪しい通りになってきた。道端にはアジア系外国人の女性が立っていて、道行く男に「オニイサン、オニイサンどう?」と声をかけていた。僕は理恵さんと一緒なので、声をかけられなかった。
「理恵さんは今、四年生なんですか?」
「うん、来年就職なの。弁護士事務所にね」
「弁護士になるんですか?」
「違うよ、事務よ。本当は大学院に行って社会学やりたかったんだけど、
文系で大学院行くのは難しいから…行けてもその後の就職先ないしね」
「じゃあ今の専攻は…」
「いえ、心理学。私、高校のときからずっと心理やりたかったの。でも、いざやってみたら、
自分の思っていたのと全然違った。心理学やったからって、他人の心が分かるわけじゃないのよね。
当てが外れちゃった。そんなのやってみないと分からないよね」
「そうですね」
「もうちょっとちゃんと勉強してから専攻選べば良かったな。
私ってそういうことばっかりなのよね…なんかいっつも後悔してる」
「…」
「…ゴメン、ちょっと休んでいい?」
理恵さんはかなり疲れた様子だった。座れるところを求めて、僕らはホテル街の狭い路地に入ったところにあった小さな公園に入り、奥に一つだけあるベンチに腰掛けた。公園は木陰に覆われており、路地側からの光は入りにくい。おまけに公園の真ん中に立っている電灯も消えかかっていて、ベンチに座ると隣の人の顔もよく見えないほど暗かった。理恵さんは僕の左に座り、身体を少し斜めにこちらに向けて物憂げにベンチにもたれた。
「大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとすれば治るから。ゴメンね」
「でも、こんなところに公園あるんですね。よく知ってますね」
「渋谷はよく行くから。ここも何度か来たことがあるしね」
「え…」
「この公園にね。疲れたらよくここで休憩するの。私、さっきよく後悔するって言ったじゃない?
どうしてもいろいろ考えちゃう。必要以上に悩んだって、後になったら必ずそれが
意味のないことだったって気付くの。だからいつも直観だけで行動できる人って、羨ましいの。
音楽やってる人って、そういう人が多い気がする。黒田君もそんなタイプじゃない?」
「いや、全然。すごい優柔不断ですよ。ファミレスの注文の順番とか、いっつも最後やし」
「ふふ、そう。歌っているときと全然感じ違うね」
理恵さんは街灯の弱い光を受けて輝いている瞳を見開いて、僕の顔を覗き込んだ。ベンチに座った当初よりも明らかにお互い近付いていた。それに気付いた僕は、少し緊張した。
「今日俺全然ダメで、ナギサさんとかみたいにはやっぱなれないなあって思いましたよ」
息もかかる距離だったので自然と声が小さくなった。
「そんなことないよ。ナギサさんもドラムは大学から始めたんだってよ」
理恵さんもささやくような声になった。
「そうなんだ、すごいなあ」
「ボーカルはどれくらいやっているの?」
「いや、まだ全然やったことなくて…」
「そう、じゃあ、これから続けていけばもっと良くなるんじゃない?サカノボルトのハヤトみたいになれるよ」
「いやあ、そうなりゃあいいっちゃけど」
「『ちゃけど』って、かわいい」
理恵さんは妙に微笑んで、手を出して僕の頭を優しくなで始めた。
「かわいいねえ」
なでられている間、僕は石膏のように固まっていた。動きようがなかった。
「ほんと」
おでこをくっつけて来た。
「ね」
じっと見詰められていたが、視線を逸らすこともできず、ただ見詰め返すしかない。無言のまま微妙な探り合いが始まる。僕の心のどこかに、理恵さんを警戒している気持ちがあった。その気持ちがふとした瞬間にゆるんで、それを察知したのか、理恵さんはゆっくりと唇を重ねてきた。酒のにおいと、どこかタバコの味がした。そうなってからは、「たが」が外れたようにお互い背中をさすったり、手を握ったりするようになり、自然と理恵さんを押し倒していた。五月とはいえ、夜は少し寒い。そのためか服一枚を隔てた肌がとても温かいものに感じた。僕は持っている限りの知識を駆使して、こういうときに男がするであろうことを実践してみた。耳元を口で探り、胸も触ってみた。すると理恵さんの首がのけぞり、予想以上の反応が返ってきた。
「ねえ」
いままでよりずっと優しい声で理恵さんが言った。
「うん?」
「近くで休んでいっても、いいよね?」
「え、」
「ほら、この近く。泊まるとこ」
「ああ、いっぱいありますね…」
とだけ言うとまたしばらく本題から逃げるようにキスが続いた。どうしよう…。ホテルに泊まったことはおろかこういう状況になったことすらない。さっきまで和美と本多さんに嫉妬していたのは何だったんだろう。今が現実なら、あれは幻想だったのか。何がしたいんだ…僕は最低かも知れない。そう思った途端、
「やっぱり」
言うつもりでもないのに声が出て、理恵さんと顔を離した。
「やっぱり?」
頭を手で引き戻されて、また情事が続く。ひととおりのところを回ってきた両手が、これからどこへ行こうか迷っていた。しばらくすると、理恵さんは自身の太ももに乗っていた僕の右手を取って言った。
「ねえ、手、震えてるよ」
「…」
「もしかして、初めて?」
僕は黙ってうなずくと、何も言ってもないのにぎこちない愛撫によって気付かれたことが恥ずかしくて、すごい勢いで赤面した。顔から火が出そうとはこのことを言うんだろう。理恵さんは何もしてこなくなった。理恵さんと僕は起き上がった。明らかにさっきまでとは空気が違う。
「そう…ごめんなさい」
「え、いや、全然、大丈夫ですよ」
「でも、良くないよね、私となんか」
「そんなとんでもない」
「でもやっぱり…」
理恵さんは何か考える素振りを見せて、一言一言を確かめるように、言った。
「最初は、本当に好きな人としたほうがいいよ」
そう言うと理恵さんはゆっくりと立ち上がり、もう大丈夫だから行こう、と言った。僕は呆然としたまま、母親に連れられていく幼稚園児のように、ただただ理恵さんに付いていった。ただ、さっきの一言がずっと頭の中を回っていた。
「実はね」
理恵さんは歩きながらぽつりとつぶやいた。
「あの公園、一年生のときによく行ってたの、ナギサさんと」
僕は黙って聞いていた。
「ホテルに行った帰りにね。一ヶ月くらいの間だったけど」
「…付き合ってたんですか?」
「多分、違う。ナギサさんがどういうつもりだったのかは分からない。
直観で動く人だから。そういうところが、好きだったんだけどね」
するとようやく駅が見えてきて、また沈黙が訪れた。改札まで着いたところで、僕は立ち止まった。理恵さんが振り向いた。
「どうしたの?」
「僕、やっぱり歩いて帰ります」
「え、だって、永福町でしょう?」
ここから七駅くらいある駅だ。
「いや、結構近いですから、じゃあ」
「黒田くん!」
「え?」
「ごめんね、気を悪くしないで」
「なんで謝るんですか、全然いいですよ、大丈夫です、お疲れ様です」
精一杯笑いながらそう言うと、僕は理恵さんを振り切るように駅の出口まで走って行った。
街に出て、歩き出す。山手通りに出たはいいけれど、ここからどう行けばいいのか、全然分からなかった。そんな僕をあざ笑うかのように、「空車」の文字を光らせた無数のタクシーが通り過ぎる。とりあえず自分の身体が向いている方へ、とぼとぼ歩いた。どうしてここにいるんだろう。こんなところまで来て、僕は何をしてるんだろう。僕には何も確固たるものがない上に、一人前の男でもない。しばらく行くと、一つ、また一つと雨粒が落ちてきた。五分もしないうちに本降りになった。走り行く車のライトが雨の白いラインを映している。髪が、上着が、シャツが、そしてズボンが濡れる。靴の中に水が入ってくる。身に付けるもの全てが重たくなっていく。もういいや、いいじゃないか。このまま行こう。何もかもが、今の僕にはお似合いだ。そのままどこへ続くとも知らない道を僕は歩いた。
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第15話 テレスト〜志
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永福町の静かな住宅地の真ん中にある六畳の和室アパートには、既に高い日が射し込んでいて、小学校の頃の夢を見ていた僕はうっすらと目が覚めてからもしばらく自失していた。…どうやらここは福岡の実家ではないようだ。枕元にある目覚まし時計を拾って見る。短針が意外なところを差している。十四時三十五分。もうこんな時間か…。体を起こそうとすると、身体が鉛のように重たい。そういえばさっきから、咳が出る。結局昨日の夜は、四時間近く雨の中をさまよい続けたので、案の定風邪を引いてしまったようだ。
昨日があんな終わり方だったので、今日起きるまでに、もしかしたら理恵さんから電話かメールでも来ているかも知れないと思ったが、テーブルに置いてある携帯を覗いても何も履歴が残っていない。打ち上げで番号は交換したはずだ。僕は日光が差し込んでいてもなんだか暗いボロ家の中で一人、取り残された気分になった。
そういえば、さっきから夢の中でずっと同じメロディーが鳴っていた。すごく簡単なんだけど、なんだか印象的な旋律。僕は重い身体をなんとか起こして、ギターを手に取った。咳をしながら、しわがれた声で小さく歌ってみる。声がかすれてうまく出ないけど、まあ頭では理解できる。このメロディーなら、コードはこんな感じかな。ギターで和音をポロンと鳴らしてみよう。なかなか綺麗な曲ができそうだ。次のコードはこうで、その次はこうで、…とギターを鳴らして、早くも一つのメロディーが完成した。これがAメロかな。次はBメロを作らなきゃ。…一時間ほどすると、三分ちょっとで終わる曲があっけなく出来上がった。僕はこの曲が気に入った。何度でも繰り返してしまう。思えばこの部屋にいるときは起きているときも、寝ているときも、ずっとサカノボルトの「流れ者」をかけていて、もうステレオをかけなくてもこの部屋に入れば自然とその曲が脳内に流れて来る。だが今となっては、この新曲の方を繰り返さずにはいられない。何度も繰り返して聴ける曲って、思い出と一緒に残るから、素晴らしい。そんな出会いがまた一つ増えたのかも知れない。この新曲がそうなればいいな。タイトルは「エンドレス」に決めた。
この曲を録音しておこうと、上京してから一度も使っていないテープレコーダーに演奏と声を同時に吹き込む。二、三回間違えてしまった。よし、もう一回、そう思って録音ボタンを触わろうとしたとき、携帯電話が鳴った。いいところだったのに。
「はい」
「おう」
父親からだった。
「うん、お父さん会社は?」
「お前今日は日曜ぞ」
「あそうか。どうしたと?」
「いや、元気にやっとるか」
「元気よ。それだけ?」
早く新曲を録音したかった。親だと知ると余計に態度が邪険になる。しかし、家では満足に会話もしなかったのに、東京に出てきてからというものやたらと電話をかけてくるし、話の物腰もいつもよりどこか柔らかいのはなぜだろう。
「お前、風邪引いとるっちゃないとか」
「あ、ちょっと」
「ちゃんと布団かぶって寝んかバカタレが」
「で、何なん」
「大学はどげんな風か」
「いや、別に普通よ。講義もちゃんと受けよるし」
「お前ロックバンドやりよるごたるね。お前が歌いよると?」
「うん。サークルでやけどね」
「何を歌うと。ビートルズ?吉田拓郎とか?」
「そんなんやらんよ。オリジナル」
また微妙な嘘をついてしまった。
「オリジナル?」
「自分で曲を作るんよ」
「お前がか」
「そうよ」
「プロになるとか」
「そんなんなるわけないやん」
「やめとけよ。親の俺がよう分かる。お前は頭は良いばってん、吉田拓郎にはなれん。ああいう人は次元が違うと」
「ならん、って言いよるやろ…分かっとるわ」
僕は声を曇らせた。ビートルズと吉田拓郎くらいしか音楽について知らないのに、なんでそこまで言えるんだよ。
「で、何なんよ。それだけ?」
「お前の口座に十万入れとるけんな」
「十万?」
僕は耳を疑った。たぶん中くらいの会社のサラリーマン家庭にもかかわらず、四人も子供がいたので、そんなに裕福というわけではなかった。十万という金は、僕には途方もない。高校までの小遣いは月五千円だった。
「前も仕送りもらったやん、そんな金がどこにあると?」
「住み始めはいろいろと使うことあるけんアレやろ。心配せんでんよか」
「でも…」
「よかっちゃ。家計は苦しかばってん、ちゃーんとお前ら子供んこつぐらい考えとるとぞ」
「あそう…」
「そういや、お前、もう二十歳になるとか」
大学一年生は通常十八歳から十九歳になるが、僕は一浪したので、本年度で十九歳から二十歳になる。
「うん、なんでいきなり?」
「そうかあ」
そういうと父親は少し黙った。
「なんでよ」
「二十歳になったら居酒屋で堂々と酒の飲めるとやろ。ビールとか、焼酎とか。もう飲んだか」
「昨日飲んだ」
「そうか。あんま飲み過ぎんなよ」
「うん。もういい?」
「おう、じゃあ」
「じゃあね」
「待て」
「何なんよ」
「父さんの会社の近くに焼酎のうまい店あるけん、いつか連れてっちゃるたい。今度帰って来たときに」
「ああ…そうやね」
「俺あお前が生まれたときから自分の子供と酒ば酌み交わすのが楽しみやったとぞ。
お前がまだ小さいときはいつの話やろかと思っとったばってん、意外と早う来たな。
ところが来たと思ったらお前、すぐ東京行ってからに」
そんな話ははじめて聞いた。さっきからいつもよりよく喋ると思っていたが、どうやら昼間から少し酒が入っているらしいということに気がついた。しらふだったらまずこんな話はしない。
「まあお前が志をもって決めた道やけん、仕方なかろう。好きにせい」
僕は躊躇しながら言った。
「俺別にそんな志とか、何もないよ。何も、理由があって東京来たわけやない」
「そうか」
父親は意外に思ったようだ。そもそも進学先を決めるに当たり親と相談したわけではない。親は親自身で子供が進路を決めるいきさつについて想像するしかなかっただろう。分からないが、地元にとどまっている自分の果たせなかったあこがれを重ね合わせるということもあったかも知れない。そう思わずにはいられないほどに、上京が決まってからの父親の態度は優しいと思うことが多かった。
「やったら帰って来い」
「…」
「帰って来んやったらそげなこつ言うなよ。じゃあ切るけんね」
父親は寂しさを押し隠すような声で突然電話を切った。僕は受話器から流れる通話音をしばらく聞いていた。聞きながら、ずっと考え込んでしまった。父親は家で、仕事の話もしないし、仕事が終われば真っ直ぐに家に帰ってくる。僕から見て父親の残したものと言えば、一家を築き上げたということだけ。しかしそれが唯一にして最高の生きがいだったのかも知れない。守るものがある大人。今の僕にとっては音楽で食べていくよりも羨ましい立ち位置だった。自分には一体何ができるんだろう。そこまで考えて、僕はまだ通話音を聞いていた。そして次の瞬間、ようやく電話を切って、アドレス帳を検索し、電話をかけた。時計を見たら、四時四十分を回っていた。既に西日が射していた。
「あ、理恵さんですか。昨日はどうも…いや、いいえ、とんでもないです。あれから大丈夫でしたよ。
はい、あはい、ちょっと…。あの、すいません、突然なんですけど、ナギサさんに会うのって
どうすればいいですか?…連絡先だけでも教えてもらえれば…はい、あの、曲がいくつかあって、
はい、いやホントはあんまりないんですけど…それでバンドやろうと思ってまして、
これからどうやっていけばいいか、いろいろ聞きたいと思いまして…。はい、サークルじゃなくて、外で…」
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第16話 テレスト〜「彼女」
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理恵さんによると、ナギサさんは今度の土曜のサークル部会に遊びに来るということだった。その時に紹介するよ、と。そう言われた瞬間からまだその日が来た訳でもないのに身体が緊張してきた。とりあえず、会うまでに曲を録らなければならない。僕は急いで「エンドレス」の歌詞作りに取り掛かった。それまでも曲は作ろうとは思っていたのだが、いくら時間が過ぎても完成することはなかった。しかし締め切りが決まると奇妙なもので、次々にこれまでなおざりにしておいたコードや、メロディーや、歌詞のアイディアがみるみる組み合わさっていき、結局その日までに合わせて三曲をMDの中に流し込むことができた。
部会の当日、僕はいつもより早めに部室に行った。早めといっても、部会が始まる三時の三十分前に着いたというだけで、既にサークル棟のロビーには二十人ほど人が集まっているし、部室では既に有志が集まってジャムセッションをしていた。サークル棟の一階ロビーには膝くらいまでの高さの大きな白いテーブルが四ヶ所にあり、それらを囲むように水色の人工皮革でできたソファがきっちりと配置されていた。一つのテーブルの周りに十二人は座ることができる。すでにどのテーブルにも空席はほとんどなかった。手前二つが自分のサークル、奥二つは違う団体がなにやら会議をしていた。僕はロビーのドアを開けると、先輩が一斉にこちらを向いたので、挨拶をしようとしたが、彼らはまた各自のおしゃべりに戻った。文化系の連中は、満足に挨拶もしないのだ。僕は新入生がたむろしている方のテーブルに行き、席を詰めてもらって座った。黒田バンドのメンバーが全員いた。ジャイアンが声をかけた。
「おう黒田、風邪は治った?」
「うん、治った」
「そりゃよかった。黒田さあ、夏合宿もこのバンドでなんかやろうぜ」
「いいね。何やる?」
「今度スガシカオとかやらへん」
和美は違うテーブルの先輩グループの席に座っていた。僕が入ってきたときも、お互い何の挨拶も交わさなかった。小一時間ジャイアンやベースの川崎、ドラムの松中と次のバンドの構想を話し合って、僕は彼らに持ってきた自分の新曲のMDを渡した。早く誰かの感想が欲しかったので、配布用にナギサさん用以外に数枚持ってきていたのだ。その後、ジュースが飲みたくなったのと部屋の中の人ごみにうんざりしたのとで外に出た。五十メートルほど離れたところにある生協前の自動販売機でジュースを買って、ロビーに戻ろうとすると、ロビーから和美が出て来た。和美は何も言わずゆっくりと歩いてきた。
「…もう、帰ると?」
「バイトあるから」
「あそう」
「今日サカノボルトのドラムの人が部会来るらしいよ」
「そうなんだ」
「元うちのサークルやったって、知っとった?」
「うん、知ってたよ。先輩から教えてもらったんだ」
和美は素気なく答えた。素気ないせいか、方言が薄まっているような言い方に違和感を感じた。
「黒ちゃん彼女できたらしいやん」
ようやく方言が出たと思ったら驚くべきことを言い出した。
「はあ??」
「結構上の先輩と付き合ってるんでしょ?知らなかった」
「おらんおらん、って、何でそんな話になっとるとよ?」
「先輩の中で噂になっとるよ。『新入生のくせに手を出すのが早い』って」
このサークルに入って二ヶ月経ったので分かってきたが、ここは誰と誰がどうなっただのというゴシップが本当に大好きだ。「誰にも言わないで」と口止めされた話が、二日もすればサークル全員の知るところとなる。秘密が作れないのだ。そのため、サークル内でカップルになった場合、順調に行っている間はいいが、ひとたび問題が起こると大変だ。もともと何の拘束力もない、「楽しい」から参加するという緩い集団なので、そうなったときには相場は決まっている。二人のうちどちらかサークルに中心的な役割を持っている方が残り、もう一方は消えていく。ごくまれに両方残る場合もあるが、その二人がほとんど会話も交わさず適当な距離を置いて楽しそうな振りをしているのを見るのは、本当に痛々しいものがある。先輩たちが部室や飲み会で話す話題は音楽の話よりも、むしろそういうものばかりで、新入生の多くは少々うんざりしていた。しかし、なぜ僕がそういうことになったのだろう。
「それ全然違うって!先週打ち上げで話しただけやもん」
「そうなの?」
「うん、それにそこくらいしか接点ないやろ上の先輩となんて」
「ふうん。ていうか、意外と黒ちゃんて軽いのねえ〜」
和美はなじるように言った。
「なんやそれ」
「そんな軽い気持ちでラブホテルとか行っちゃうんだ」
「えっ…」
「先週あのあと二人でラブホ街に消えていったのを見た人がおるって」
どうやら「あちら側」では大変なことになってしまっているらしい。それでロビー入って来たとき先輩から何だかジロジロ見られたのか…。これからサークルに行きづらい。もうロビーに戻りたくなくなった。
「黒ちゃん、大学生になって変わったよね」
この一言には僕も腹が立った。
「なんや、そういうお前だって変わったよ」
「なんでよ」
「お前こそ人前でイチャイチャしやがって」
「私がいつ誰とイチャついとったんよ!」
「打ち上げで、先輩と」
「打ち上げで!?バッカやないの。あの時は先輩に相談に乗ってもらっとったと」
「何の相談よ」
「そんなん知らんわ」
「知らんわけなかろうもん」
「あんたに教える義理はないって言いよると!ホント変わったね。悪い方に」
「お前もたい。変なパーマかけよるし」
和美の動きが止まった。僕は続けた。
「似合ってとるとでも思っとるんか」
頭では良くないと分かってはいたが、言ってしまった。明らかに言い過ぎだ。和美は一旦悲しそうな目をして、次の瞬間、その気持ちを振り絞るようにきっと僕を睨んだ。
「あんた本当に最低ね」
和美はそう言うと、僕の後ろの方に視線をずらした。
「ほら、噂をすれば」
僕が後ろを振り返ると、向こうから黒い服の女の人が歩いてくるのが見えた。
「『彼女』が来たよ。良かったね!」
和美はそう言うと理恵さんがいる方とは逆の方向に小走りになって去っていった。僕はその場で突っ立っていた。理恵さんが近付いて来る。この状態で、ロビーには絶対に戻れない。理恵さんとはそのままその場で立ち話をした。先週のことについてひととおり理恵さんから謝罪があった。
「さっきの子は、新入生?」
「あ、はい、高校の同期なんですよ」
「ふうん、そうなんだ…同期ね」
「いや、別に何もないですよ」
「え、私何も言ってないよ」
そう言うと理恵さんはくすりと笑った。僕がうろたえているのを見透かしているようだった。
「良かったね一緒に入れて。大事にしたほうがいいよ。先輩後輩のつながりもあるけど、
最後に残るのは同期のつながりだから」
「…はい」
「ていうか、好きだったりして?」
「いや、全然」
「あ、そう〜」
そう言うと理恵さんは思わせぶりな顔をした。僕は視線を逸らした。逸らした視線の先に、誰かが歩いてくるのを認めた。どこかで見たことのあるすらっと背の高い男…そう、ナギサさんだ。
「あ、あれ、ナギサさんですよね」
「え、あ、うん…そうね」
理恵さんの声は暗くなった。ナギサさんは黒の皮ジャンに紺のジーンズという、いかにもな格好をしていた。そして、隣にもう一人、ナギサさんの肩くらいまでの身長で、ナギサさんにピッタリとくっついて手をつないでいる女性がいた。ナギサさんはその人の手をほどき、肩に手を回して言った。
「よう、秋山、久しぶりい〜。隣の君は?例のバンドやりたいって子?」
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第17話 テレスト〜一本道
|
ナギサさんとその彼女、僕と理恵さんはその順番で一人ずつサークル棟のロビーに入った。新入生はもちろん、大部分の先輩はナギサさんを知らないようだった。十二人ほど座っている先輩グループのうち、より年長と思われる二、三人が声を上げて出迎えただけだった。彼女の方もサークルに何度か顔を出したことがあるようで、その二、三人は彼女にも挨拶をした。僕は先輩たちの今までとは桁違いに気まずい入場を急いで済ませ、理恵さんとはさっさと別れて(そういう乱暴な気持ちはなかったが、客観的には明らかに「さっさと」だった)ナギサさんらと三人で三階の部室に行った。部屋ではギター二人とベースとドラムが何やらロック色の強いセッションをしていて、僕らは彼らをすり抜け、奥の扉を開いて幅が一メートルくらいあるベランダに出たのだった。ナギサさんの彼女はベランダには来ず、部室に散らばっている漫画を手に取って読み始めた。古びたパイプ椅子に座るなり、ナギサさんはタバコに火をつけた。
「で、どうしようか?」
「あ、はい、あの、曲があるので、とりあえず、それを」
「うん、じゃあ聴いてみるよ」
緊張で震える手で持参したMDウォークマンのイヤホンを渡し、再生ボタンを押す。曲は「エンドレス」ほか三曲入っていた。ベースとドラムはなし、ラジカセの一発録りでエレキギターとボーカルを入れただけだ。それでも曲の輪郭はある程度分かるはず・・・。いやしかしプロでやっているような人にそれを聴かせるのは失礼だったかも知れない。ミスタッチもそのままだし、今更恥ずかしくなってきた。自分の曲を目の前にいる人に聴かせて、聴き終わるのを待っている時間ほど長いものはない。そんなことを考えてしばらくすると、ナギサさんは一曲目がまだ終わりきらないうちにイヤホンを当てたまま言った。
「なかなか面白いね」
僕にとって「なかなか」嬉しい言葉だった。「面白い」というのは分析的な褒め言葉で、具体的には曲のコードや展開の工夫や、仕掛けがよく考えられているということだろうと僕は受け取った。聴きやすさを意識しつつも、実はAメロからBメロをまたいでベースラインはずっと半音ずつ下がっているという美しさがあったり、転調(曲のキーを途中で変えてしまう技法、「流れ者」のコード進行を分析して習得した)を曲中に何カ所も入れていたりするところが密かなこだわりだったので、そういうところをナギサさんが一聴して気付いたのはさすがだし、やっぱり分かってくれるんだ、という嬉しさでいっぱいになった。反面、最上級の言葉という訳ではなかった。音楽とは「面白」さを分析することではなくて、感動することによって初めて価値が表れてくるものだ。この曲を聴くと、なんだか知らないけど胸が高鳴るとか、どうしても泣いてしまうとか、そういう「得体の知れない感覚」を求めて音楽は存在するわけで、それは言葉で表せるようなものではあり得ない。その「感覚」を端的に表す最上級の言葉、それは「良い」だ。「面白い」にとどまっても仕方がない。「面白い」によって、「これ、イイよ」というとっても曖昧ながらしかし神秘的で奥の深い最終解答的な一言を引き出すことができないと、何の意味もないのだ。もしかするとナギサさんは、そこまでには至らないけれど本人が目の前で評価を気にしているから、一定のおべっかで「面白い」と言ったのかも知れない。そんな気がして、僕は少しがっかりもした。もっとも、明らかに、僕はたったの一言に過剰反応し過ぎていた。
「面白いじゃん。聴きやすいね」
ナギサさんは中級の褒め言葉を今度は二つ並べた。やはりラジカセじゃなくて、ちゃんとしたMTRで録音すべきだった。しかし僕は礼を言った。
「ありがとうございます」
「二曲目も三曲目も、それはそれでまた、いいね」
「あ、ほんとですか」
せっかくの最上級賛辞が「それはそれで」という前置きで台無しになった。大体一曲目が「いい」じゃなくてそれ以外が「いい」わけがないのだ。
「これをバンドでやりたいと」
「はい、メンバーはこれから・・・でもライブとかに出るのって、どうすればいいんでしょうか」
「ライブハウスにデモテープ持っていけばいいんだよ」
「持っていけば出られるんですか?」
「最初に大体昼のライブでオーディションがあるけどね」
「やっぱり、難しいんですか?」
「簡単だよ。っつっても俺ら最初三つ受けたうち一つ落ちたけどね。ははは」
「マジっすか」
サカノボルトを落とすようなライブハウスなんて、本当にどうかしてる。
「曲も面白いから頑張って練習すりゃ多分大丈夫だよ。あとはどこに出すかだなあ。
東京には腐るほどライブハウスあるしね。やっぱりいいブッキングしているハコに出ないと」
「そうですよね。どこらへんがいいですかね」
「そうだなあ・・・まあ少なくとも黒田君の音楽性だと下北中心かな。なんか紙ある?」
僕は鞄から大学ノートを取り出して一枚破り、ペンとともにナギサさんに渡した。ナギサさんはすらすらとよく分からない名前を五つほど、汚い字で書いた。
「ここらへんだとまあいいんじゃない。こことここは結構敷居が高いけどね。あと最近できたここもいいかもね」
と指を差しながら教えてくれた。
「今は何でもできるんだから、早くいろいろやっておいた方がいいよ」
「はい、ありがとうございます」
僕はついでに、気になっていたことを訊いてみた。
「ナギサさんは、新しいバンドとか見つけたんですか?」
「うーん、ヘルプで知り合いのバンドのドラムを何回か叩く程度かな」
「じゃあ、正式メンバーのバンドは、まだ?」
「うん、そうだね・・・」
なんだか歯切れの悪い感じだった。やはりあそこまで行ったバンドに代わるバンドなんて、そうそうないのだろうか。
「というか、もうやんないかも」
「え・・・」
「就職するんだ」
僕は二の句が継げなかった。この細身で長身で、革ジャンを着たジョーイ・ラモーンさながらのロックアーティストが放つにふさわしい言葉ではなかった。思わず僕は、
「そんな、いいんですか」
「何でよ。俺の人生だよ」
「すいません、でも、ナギサさんだったら」
「いやいや、少なくとも俺はセッションミュージシャンとしては全然だしね。
ドラムの腕だけで食っていくなんて無理だね、たまたまいい曲書くバンドに入りでもしないと。
でもそんな他人頼みで食わせてもらうなんて俺は嫌だし。ハヤトみたいに曲でも書けるんだったら
まだいいんだけどさ。俺は、プロでやっていくにはやっぱり厳しいよ」
その世界は自分には関係がないのかも知れないが、それでも少なくともその世界に憧れてこれから始めようという僕にとっては悲しい言葉だった。ナギサさんは続けた。
「そういう意味でサカノボルトは、俺にとって最初で最後のチャンスと思ってやったんだ。
それぐらいあれに賭けてた。何度もメンバーとやりあったよ。
だけど結局ハヤトがソロでやるって言い出しちゃって、まあこれも運命かなっと、思うわけよ。それにねえ」
ナギサさんは親指を立てて、後ろの部室の方を指した。
「もっと大事にしなきゃいけないもんがあるしね。女一人守れないで何がロックだってことですよ。
そりゃあ好きなことやって食えればいいけど、それは贅沢だと思うし。俺はやるだけやったわけだし、悔いはないよ」
理恵さんから聞いたナギサさん像とは、似ても似つかない言葉だった。以前とは考えが変わってしまったのだろうか。だとすると、「若い頃の遊び相手」に図らずもされてしまった理恵さんが不憫に思えた。
「俺はあいつを幸せにするよ」
「理恵さんじゃなくて、ですか」
「なにそれ。お前なんか知ってんの?」
「いや、ちょっと・・・」
「参ったなあ。サークルじゃそういうキャラになってんのかあ」
「いやそんなことないです」
「俺はいつでも真剣だよ。そんときもそう。でもあいつにとって俺は自分に無いものを
投影する存在でしかない気がしたんだ。俺って言えば、破天荒で天才肌で気分屋で・・・っていう、
あいつとは正反対のものだよね。でも俺はそれだけじゃないから。そこを分かってくんなそうだったから
付き合えなかった。今の彼女は、本当の俺を受け入れてくれてる」
ナギサさんの「本当」って一体何なんですか、と訊こうとして、やっぱりやめた。何となく理恵さんに同情しているせいか、「破天荒」なところだって全部「本当」じゃないか、と思ってしまう。ナギサさんの「本当」は、実のところ願望も混じっているような気がした。ただ、その願望がもう定まっているのだから、あとは自分で選んだその道を行けばいいのかも知れない。いつかはその願望も、現実になっていく。そうやって人は変わっていくのだろう。ナギサさんがプロのロックドラマーを辞め、一人の女を守る男に変わっていくように。
「もうこんな時間かあ。俺、そろそろ行くわ。まあまた連絡してよ。ライブも行くからさ」
そう言ってナギサさんは立ち上がった。ドアを開けて部室に入ろうとしたそのとき、
「そうそう、まだあんまり人に言ってないんだけど」
部室の方を向き、彼女にもう行くよ、と目配せをして、続けた。
「実はもう三ヶ月なんだ」
彼女は、少しぽっちゃりはしているものの、さすがにそういう風にはまだ見えなかった。僕は二人と別れたあと、ベランダの椅子に座ってぼーっと外を見ていた。目の前には緑色の草が生い茂る空き地が広がり、その向こうには生協や、灰色の講義棟が立ち並んでいる。生協の自動販売機のそばで、理恵さんが数人の同期らしい女の人達といるのが小さく見えた。こちらのサークル棟からそこへと細長い一本道が続いていて、ナギサさんたちが腕を組んでこちらからあちらへゆっくり歩いて行く。生協までたどり着くと、彼らは理恵さんと仲良さそうに挨拶を交わし、すぐに見えなくなった。そのあと理恵さんは同期の会話にも入ろうとせず、ずっと黙っているように見えた。
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第18話 テレスト〜うだうだ
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六月になっても、雨は降らなかった。新緑がきらきらと輝いていて、青い空が連日続いていた。しかし行事は進むもので、サークルでは早くも八月の夏合宿に向けたいくつものバンドが練習を始めていた。「黒田バンド」も、スガシカオをやるべく「スカシガオ」と名前を変え、初日練を迎えた。案の定、最初は誰もちゃんと覚えておらず、不安が残る出来だった。練習が終わって昼の一時、四人で隣の生協食堂で定食を食べた後、ベースの川崎とドラムの松中は講義に向かった。
僕も受けるべき授業はあったが、新人ライブが終わった頃から何となく、行く気がしなくなって、週二十コマあるうちの半分はテスト前に誰かからノートを借りて対応すればいいや、と考える体たらくであった。最初の一ヶ月半は僕も、向学心に燃えて全て出席していた。しかし、もともとこの大学の中身なんて知らないし、当然そんな状態でここで何がやりたいのかというと、何がやりたいわけでもない。それを探すのが今の時期なのかもしれないが、こんなにも早くやる気をなくしてしまったという事実から考えると、正直言って東京に出て来られれば大学なんてどうでも良かったのかも知れない。いや・・・やはりどこかで「キャンパスライフ」に期待していたような気もする。そのイメージはこうだ。大学では、これまでの受験目的の味も素っ気もない勉強から解放されて、「経済とは」、「文学とは」、「政治とは」、そして「人間とは」という命題についてリベラルな発想で探究していく。これが「勉強」ではない、本当の意味での「学問」なのだ。学会トップレベルの教授からドラスティックな「知の洗礼」を連日受けて一年経った頃には知識人への仲間入り・・・極端に言えばそんな、甘美で曖昧な幻想を抱いていたのだろう。しかしいざ入学して講義を受けてみると、「教授」はテキストの内容をうだうだ説明しているだけだったり(喫茶店でテキストを読んでいる方がよっぽど能率がいい)、関係のない世間話が大部分だったり、ほとんどの学生が興味のない細かいところばかり突っ込んで延々と喋ったり。もちろん面白いと思えるものもあったが、基本、講義の先生からは「この内容に興味があるならご自由にやってくれ」と言われているようだった。なぜならば、「学問」とは自分から「問」いかけて「学」んで行かなければならないものだから。与えられることを期待しても無駄なのだ。大学の講義は図書館の入り口で図書の分類配置図を読んでいるようなものだった。配置図を読んでも何も面白くない。そこから踏み込んで、自分が本当に知りたいことは何かを明確にし、各フロアをかけずり回って本を探して来ない限り、何も得られない。自分に相当なエネルギーがない限り、そんな能動的な行動はとれない。要は、何をやるにも、結局自分次第ということだ。大学に行っても、バンドをしても結局それだ。どこに行っても、よく耳を澄ますと、「君は、何をするために生まれてきたの?」という声が聞こえる。僕は十九、二十歳そこらのガキだ。英検の資格も運転免許もない。そんな奴にそんなこと分かるわけないじゃないか。しかし、まずはそこを考えないと何も行動を起こせない。だから、それを決めるのが何よりも大切だ。そういう合理的な理由から、僕は主体的に授業を放棄するようになったのだ。
およそそんなような内容のことを、残されたジャイアンと僕とでもっともらしく語りながら、どこか暇のつぶせる場所がないかとぶらぶらと探し、結局サークル棟の屋上にたどり着いた。今日は少し風が強い晴天で、棟の周りにはそこここに整然と配列された桜や銀杏の木の葉が音を立てて揺れていた。ぼろぼろの木のベンチが異なる方向を向いて放置されていて、僕はその一つを選んで座った。ジャイアンは僕の右手にあるベンチにかがむように座り、煙草を吹かしていた。しばらくどうでもいいことを話したが、何を話したのかはお互いすぐに忘れてしまった。二人の記憶に残る会話は、ジャイアンがこう切り出してから始まった。
「そういやさあ」
「ん?」
「前にもらったお前の曲、良かったって俺言ったっけ?」
「いや、ないけど」
照れくさくてありがとうとは言えなかった。
「結構良かったで。他にも曲書いてんの?」
「うん。今ちょっとね」
ナギサさんに話を聞いてから、特に進展もなく、バンドのことは誰にも言わずに曲を書き溜めていた。
「あのさあ、お前さあ、俺とバンド組まない?」
「もう組んどうやん」
「いや、オリジナルのちゃんとしたバンド」
「ああ・・・」
それは僕も考えていたことだ。
「お前が曲書いて、俺が歌ってさ。お前とやったらやれる気がするよ」
「ジャイアンもオリジナルやりたいっちゃね」
「そう。俺は、自分の歌で人を泣かせたい」
「ああ」
「俺とお前とやったらプロになれるよ」
「え、プロ?」
「そう。やるんやったらプロ目指さんと。音楽で飯を食うって最高やろ」
「そりゃまあ・・・でも、よくそんなこと言えるねえ」
あの、ナギサさんが食っていけない世界だ。僕もそうだが、プロの厳しさを何も知らないジャイアンが自信を持ってそんなことを言うことが理解できなかった。
「ジャイアンが考えるほど、甘くないんじゃないの」
「お前は何でそんなに弱気なの。そんなお前が思うほど大したことやないって。
この世にプロミュージシャンなんて何万人とおるで。気持ち次第よ気持ち次第」
「そうかな・・・」
僕は少し性格の悪い男のように、ジャイアンの言うことに疑問を投げかける振りをして、心のどこかでその甘い考えを馬鹿にしていた。
「お前街歩いてみて思わん?渋谷のでっかいテレビにいろんなバンド映ってさ、大体のやつ、
そんなにいいか?コンビニに入ったら入ったでさあ、どうしようもない曲しかかかってなくてさ。
可愛いだけで歌の下手な女が『好き好き』みたいな安直な歌歌ってさ。あんなん完全にやっつけ仕事やで。
パン買う気力も失ってさっさと出たくもなるわ。そりゃあ、いろんな作曲家に書かせとるんやろうけど、
採用される曲があんなレベルやろ。他のもたかが知れてるよ。お前ならあん中でも全然やってけるって」
ジャイアンの語気が次第に上がってきた。日頃温厚な彼がこんな風になるときは、音楽の話で盛り上がるときしかない。
「アイドルとかと一緒に考えても仕方ないやろ。ロックバンドとかとは市場が違うんだから」
「あんなんクソやで。ゴミ。巷はゴミで溢れてる。もっといい音楽もあるけど、今売れてる奴らはほんまくだらんわ」
「確かに別に興味ないの多いけど。全部が全部じゃないしさ」
「お前そんな状況で自分の力もったいないと思わんの?あいつらが『プロ』かたって偉そうにしとって、
そいつらひきずり落としたいって思わんの?」
「プロでやってくには、いろいろあるやろ」
「いろいろって、何やねん」
「・・・さあ」
「お前には気概ってもんがないな」
ぽつりとこぼれたこの言葉にはさすがに反応せざるを得なかった。僕はジャイアンを少し睨んだ。ジャイアンは構わずに続けた。
「みんな最初はアマチュアやん。そっからプロになるには、まずは気持ちやて」
「俺だってバンドやりたい気持ちはあるよ。自信もあるし」
「・・・そうなんや。じゃあ、やろうや」
「一緒に?」
「ああ」
僕はコンクリートの床に目線を落として、しばらく考えてから噛みしめるように言った。
「それはできん」
「なんで?」
「それは・・・」
「まだ決心つかんの」
「いや、俺が歌いたい」
ジャイアンは僕の眼を見た。僕もそれに視線を返し、またコンクリートの床に戻した。
「お前、そうなの?」
「うん、そのために曲を書いた」
「プロ目指すん」
「いや、やってみて考える」
「考える」はちょっと勇み足だったと、言った後思った。
「お前と会ったときからうっすら思ってたけど、やっぱり結局自分で歌いたいか・・・」
ジャイアンは新しい煙草に火をつけ、二回ふかしてから、もう一度訊いた。
「じゃあ、俺とはやらんのやな」
「うん」
「そうか、残念だ」
そう言うと、ジャイアンは立ち上がってシャツのよれを直した。
「バンドはいつ始めるの」
「うーん、まだメンバー決まってないんだけど」
「俺を振ったならな、相当なもんじゃないと許さんで。じゃあ、俺実験あるから」
「うん」
ジャイアンは背を向けて階段を下りて行った。僕一人だけが残った。自分のことは、あくまで自分で決めればいいことだけど、その決定は他人の行く先にまで影響を与えてしまう。もしあそこで、僕が「うん」と言っていれば、ジャイアンの人生も変わったかも知れない。いや、そうすればまた新人バンド組みの時のように迷惑をかけるだけ。これでいいのだ。中途半端なことをしていても、自分で責任を取ってそれで済むことなら、「自分の勝手」と言えもするだろうが、そういうわけにもいかないのだ。ああ言ってしまった以上、下手なことはできないな。もう自分とは何だとか、悩んでいるような時間はない。うだうだと考えているとすぐに西日が差してきた。気がつけばいつも夕方。僕は「またか・・・」と独り言をつぶやいて、屋上を下りた。大学に入ってからというもの、少し考え過ぎているようだ。
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第19話 帰り道〜賭け事
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結局夏合宿までは曲作りと「スカシガオ」の練習に費やされ、メンバーを集めて練習を開始する頃にはもう秋になっていた。メンバーは、結局「スカシガオ」のベース川崎とドラム松中との三人になった。とはいえ三人ともサークルのコピーバンドが忙しく、オリジナルはとりあえずその合間を縫って、ゆっくりとセッションが重ねられていった。そのうち秋の学園祭の準備で忙しくなり、気がついたら年末になっていた。ものごとを始めると、有り余っていた時間が途端に短いものになってしまう。年末になって、四、五曲仕上がってきたというとき、僕はそろそろライブハウスに出演してみようと思うようになった。
いつかナギサさんにもらったメモをもとに、渋谷と下北沢のライブハウス三つほどにデモテープを持って行った。まず出演に先立って、デモテープで審査があるという。テープ審査を通ると、オーディションを兼ねた昼の部のライブに出演することになる。昼の部で合格すれば、夜の部に出ることができる。夜の部には、インディーズ、メジャー問わずプロのバンドが出演している。ここまで来ればいっぱしのオリジナルバンドの仲間入りだ。とりあえずの目標は、三つのうちどれかのライブハウスで、夜の部に出ることだった。
年が明けるとライブハウスから連絡があり、春にオーディションライブを合計三本やることになった。目標が決まった僕らは俄然やる気になって練習した。結果は、二勝一敗。まずまずの成績だ。
待望の夜の部最初のライブは、五月に決まった。サークルの新人ライブをやってから、ちょうど一年になる。いよいよライブまであと三日となったとき、僕はいつものようにライブの宣伝用に作った簡単なチラシを持って土曜日の部会に顔を出した。今日みんなに声をかけて、ライブに来てもらうのだ。和美もいたら声をかけようと思ったが、まだ来ていないようだった。入学した当時より、和美とはあまり話さなくなってしまった。思い返してみればそれは、ナギサさんと会った日の口論がきっかけだったのかも知れない。あれからどちらも謝ることなく、そこから少し距離が出来てしまった。話すきっかけもなかったのだ。ライブに誘うというのは、距離を近づける良い口実になると思った。
僕はもうD年になっていて、たくさんの新入生が部室に来ており、彼らにもチラシを配った。
「へー、黒田さん、ライブハウスで演奏してるんですか」
新入生の男の一人がチラシを読んで言った。
「いや、これからだけど。良かったら来てよ」
「はい、行けたら行きます!お金いるんですか」
僕は当たり前だろと思いつつも、
「う、うん」
「二千円か、俺金ないんすよね」
「え、そうかあ・・・じゃあ、安くするよ」
「本当ですか!」
安くすると言っても、自分が安くした分のチケット代の差額をお店に払うということだ。こいつに約束したら、他の人たちも安くしなければいけない・・・困ったことを言ってしまったもんだ。
「おい、松田!そんな値切ったりすんなよ」
もう一人の新入生が言った。ボーカル志望の斉藤という男だった。
「ちゃんとお金を払ってライブ見ろよ。失礼だろ。そうですよね、黒田さん」
「あ、ああ・・・」
「すいません」
松田が申し訳なさそうに言った。斉藤は続けた。
「黒田さん、ライブ俺も行きたいです。オリジナルやるなんて、かっこいいですよね!」
「いやいや・・・そうだ、お前の方こそ新人ライブ格好良かったよ。ミッシェル、ハマってたよ」
斉藤は長髪で細い体で背が高く、歌も叫ぶような感じで、歌っているときの彼はまさに、ミッシェルガンエレファントのボーカル、チバユウスケにそっくりだと思った。新人ライブだからと、上からの目線で見ていた僕、いや僕以外の上級生も含めて大いに度肝を抜かれた。僕は背も小さく、そんなにルックスがいいわけでもない。僕は彼の天性の身体が素直にうらやましかった。
「いやあ〜、そんなことないっすよ」
斉藤が少し照れると、松田が口を挟んだ。
「でもこいつ酒飲むと泣くんすよ。ったくお前オフステージでももうちょっとカッコ良くなれよ〜」
「うるっせーよ」
斉藤は笑いながら松田の頭を腕で軽く締めた。松田は痛がりながら、僕の後ろに何かを見つけた。
「あ、和美さん」
振り向くと和美が右手を軽く上げて立っていた。斉藤と松田は和美と挨拶をして、新入生の男グループの輪に入って行った。僕は和美にライブのことを話そうと思ったが、話しかける前に和美は言った。
「黒ちゃん、オリジナルでライブやるんだって?」
「うん、良かったら来て」
僕は誰に対しても「良かったら」という枕詞がないとライブにおいでという内容の言葉が出て来ない。和美とは久しぶりに会話した気がする。
「うーん、行けるかな。バイト次第だけど。でも多分行くよ。チケットいくら?」
「二千円」
「じゃあ、今買っとくね。チケットくださいな」
僕は鞄からチケットを一枚取り出し、二千円と交換した。
「博多弁、結構薄まってきたね」
「そうねえ、東京に来て一年やけんね。・・・あ。黒ちゃんと喋るときは戻るね」
和美は少し笑って、続けた。
「自信のほどは?」
「う〜ん、どうかな」
「駄目よそんなんじゃ。二千円払うんだからそれなりのものを見せてよね」
「おお、こわ」
「もし良くなかったら、今度二千円分のご飯おごってよね」
和美はちょっとおどけたように言った。
「いいよ」
「本当に?お寿司がいいな。回ってない方の」
「いや大丈夫。頑張るから。じゃあ逆にもし良かったら?」
「良かったら?そうねえ、・・・黒ちゃん何がいい?」
「俺が決めると?」
「何か一つ言うこと聞いてあげるよ」
「まじで」
僕は考え込んでしまった。なかなか気の効いた望みが思いつかない。何でも聞いてくれるんだろうか?そう思うと少しドキドキしてきた。身体が固まる。僕は和美に悟られるんじゃなくいかと不安になった。
「思いつかんと。じゃあライブのときまでに考えとってね」
「う、うん、考えとくわ」
そう言うと僕は、何だか居づらくなって外に出た。そしてしばらく構内をふらふらとうろついた。今日も天気は快晴で、空は恐ろしいほど青い。今日も普通に和美と話せたし、しばらく距離が遠くなっていたのは、僕の方が逃げていただけかも知れない。ちゃんと向き合えば、今みたいにやっぱり緊張するのだ。こんな気持ち、ない方がお互いうまくやって行けるのに。これをなんとかしないと、ずっと和美との関係は微妙なままだ。完全に離れて火種を消すか、もっと踏み込むか。結局この二つしか方法はない。何かを失うのが怖くて、どちらを取る勇気も今までなかった、ということだろう。せっかく和美がチャンスをくれたんだ。これを機会に、なんとかしよう。そう思うと、部室へ向かった。五時から、オリジナルバンドの練習をすることになっていた。ともかく、ライブが良くないことには話にならない。今日が、最後の練習だ。
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第20話 帰り道〜開演前
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下北沢駅南口を下りて、マクドナルドから左に入る道をまっすぐ進んで行くと、なだらかな下り坂に商店街が続いている。すると左手にファーストキッチンが見えてくる。そこを過ぎて右手にあるケンタッキーフライドチキン向かいのビルの地下二階に、CLUB QUEというライブハウスがある。まさに今日、出演する場所だ。僕は肩にエレキギターをかけ、エフェクター類のずっしり入ったリュックサックをしょって、よたよたと歩きながら、入り時間の四時四十分ちょうどに入り口までたどり着いた。
入り口の受付カウンターには、ブッキング担当の吉田さんがいた。この吉田さんにデモテープを持って行き、オーディションライブも観てもらったのだ。吉田さんはいたく気に入ってくれ、オーディションの時も親身になって駄目出しをくれた。僕は吉田さんに挨拶した。
「こんにちは、今日はよろしくお願いします」
「おはようございます!今日、頑張ってね」
どうやらこの業界では午後五時前でも「おはようございます」というらしい。中に入ると、すでに別のバンドがリハーサルをしていた。さすが夜の部、リハーサルから格好いいし、上手い。
リハーサル開始時間直前になって、ベースの川崎とドラムの松中がやってきた。僕らはセッティングをしながら、あれこれとライブの運び方について話し合った。三人とも気分は高揚しているが、不安で何か話していないと落ち着かないかのようだった。リハーサルで実際に音を出す。気持ちよくなって熱唱するが、曲の合間にベースの川崎が口を挟んだ。
「黒田、リハであんまり喉使いすぎない方がいいよ。本番で出なくなるから。
お前いつも二時間の練習の最後の方は声枯れてるもんな」
川崎はいつも冷静なことを言う男だ。それもそうだなと思ったが、実は既にもうちょっと危ない気がしていた・・・僕は喉をさすった。
リハーサルが終わり、前売りチケットの予約リストに名前を記入していく。ジャイアン、和美、サークルの同輩三名、理恵さん、サークル後輩の松田、斉藤ほか三人、高校時代のクラスメイト一人。以上十二名が、今回のライブのお客さんだ。開演は七時、僕の出番は一番目。
リハーサルが終わって、本番までの待ち時間は本当につらい。緊張で何をする気も起きない。練習をしようにもあまり歌うわけにもいかない。僕らは手持ち無沙汰にQUEの近くにあるファーストキッチンで時間をつぶしていた。
すると、携帯が鳴った。画面には「新垣ナギサ」と表示されていた。
「はい、ナギサさんですか?」
「おう、今日ライブだよね。間に合いそうなんで行くよ。チケット一枚お願い」
「あ、ありがとうございます!でも、ナギサさんはいいですよ。ゲスト枠に入れておきます」
「おいおい、何言ってんだよ。ちゃんと払うよ」
「いやそんな、俺なんかのライブにナギサさんが、申し訳ないです」
「えー?お金とれないようなライブだったら、サークルでやってりゃいいんじゃないの?」
「・・・はあ」
「だろ?楽しみにしてるよ」
ナギサさんがそう言うと電話が切れた。
「ナギサさん、なんだって?」
ベースの川崎がコーラを飲み干して訊いた。
「チケット買ってライブに来るってさ」
「うわあ・・・こりゃ頑張らないとな。相当」
「うん」
そう言って携帯をたたむ指がよく見ると震えていた。本番まで、あと三十分だった。
「そろそろ行こうか」
ベースの川崎は言った。できることならこのまま、逃げ出してしまいたい。僕らはトレイを持って席を立った。
ファーストキッチンの入り口を出ると、QUEの裏の通用口に向かおうとした。そのとき、
「黒田!」
振り返ると、ジャイアンがいた。和美と斉藤、松田も一緒だ。
「みんな、来てくれたの」
「来いって言ったのお前やで」
「そうか」
「お前らも頑張れよ。俺が居なくて不安やろうけどな。ガハハ」
ジャイアンはベースの川崎とドラムの松中に檄を飛ばした。その輪の中に、斉藤、松田も入って笑っていた。和美は僕の方を向いて、訊いた。
「黒ちゃん、ライブ良かったときの望み、考えた?」
「あ、いやあ」
実は前日の夜遅くまで、何と言おうか考えていた、というか、言おうか言うまいか考えていたのだ。でも考えれば考えるほど、分からなくなった。ディズニーランドに誘う、一緒にライブを観に行く、それとも付き合ってくれと言う・・・。しかしそれらは全て、「ライブが良かったら」という前提がある。一種の賭けのようなものだ。何かを賭けたとき、その何かは自分で選択できる領域を離れて、自分にはどうすることもできない運命に預けられる。結果が出たら強制的に従うしかないのだ。選択に迷ったとき、どうしていいか分からないときにはとても便利な手段だ。どうして自分で決められない?なぜそんな賭け事に自分の気持ちを乗せてしまう?
「そのことなんだけどさあ」
「何?」
「音楽の善し悪しで何かを決めるのってどうかなあって。音楽は音楽やん」
「はあ?何言っとうと?そんなに重いことじゃなくない?」
和美はちょっと笑いながら、いぶかしげな顔をした。
「そんな賭け事みたいなことするの、なんか音楽に悪いかなあと思って」
「あ、そう。いや、別にいいよ。黒ちゃん、相変わらず面白いこと言うね」
「その代わり」
「?」
「今週の部会さ、少し早く来れない?一時くらい」
「来れるけど、どうしたの?」
「ちょっと話したいことがある」
和美は何が何だかさっぱり分からないようだった。
「なんか分からんけどいいよ。一時ね。サークル棟で?」
「うん、屋上かどっかで。また連絡するよ。もう行かな。じゃあね」
「あ、そうやね、じゃあ、頑張ってー」
和美は手を振った。他の男たちもそれぞれに手を振って、僕はそれに応えて楽屋に行った。急いでシャツを着替え、楽器のチューニングをする。吉田さんが楽屋のドアを開けて顔をのぞかせた。
「じゃあ、七時ジャスト開始で行きますので!」
「はい、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
僕と川崎は言った。ついにこのときがやってきた。もう心臓はバクバクだ。入場する前に、僕らは三人顔を見合わせた。僕は言った。
「川崎」
「何?」
「俺さあ、最後の曲、カポタスト外し忘れるやん?」
「ああ、リハんときも忘れてたな」
ギターのネックの部分に挟んで弦を押さえ、曲のキーを変えるでっかい洗濯バサミのような器具を、曲によって取り外しするのだが、僕はつけ忘れたり、外し忘れたりすることが多かったのだ。
「もし本番中忘れてたらさ、俺に思いっきりケリ入れてよ。そんくらいせんと気付かんから」
「え、いいの?」
「いいよいいよ」
僕はドラマーの方に顔を向けた。
「松中も頑張ろうな」
松中は僕らの方をじっと見つめ、何か言いたそうだった。
「黒田、川崎」
「何?」
本当に口数の少ないドラムの松中の鼻息が荒かった。何か意を決したような顔つきをして、どもりながら言った。
「歴史を、塗り替えてやろう、な!」
僕と川崎は吹き出した。こんなときに、何を言うかと思えば・・・。でも、おかげで少し緊張がほぐれた。僕は言った。
「松中、お前とバンドがやれて嬉しいよ」
僕ら三人は円陣を組んで右手を重ね合った。
「かけ声どうしようか」
「何でもいいんじゃない」
「松中、じゃあお前何か言ってよ」
「え、俺?うーん」
「早く」
「よし、わかった」
沈黙が五秒間流れた。そして一喝、
「フラバルス、レッツゴー!!」
CLUB QUEの、ステージへのドアが開いた。
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第21話 帰り道〜嘘じゃない
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ステージに上って、自分の立ち位置に向かう。一番目なので、楽器はリハーサルが終わった時点で既にセットアップしてある。ギターを肩にかけ、ボリュームを上げる。ちらと客席の方を見る。僕のお客は合計十三人しかいないはずだったが、客席にはあと十人ほど余計にいた。詰め込めば二百五十人ほど入るこのライブハウスの広さから考えて、客席から見たらスカスカだったろう。しかし、ステージ上の僕から見たら、ビックリするほど多くのお客さんに囲まれている気がした。何十もの顔が敷き詰められていることに恐ろしさを感じた。
合計六曲。一曲目「テレスト」という比較的激しい曲からスタートして、最初から上げていこうという狙いだ。僕は左手で最初に押さえるべきコードを確かめた。ドラムのカウントが入る。カッコよく入るぞ。僕は思い切り足を踏み込み、力強く歌い始め、同時にギターを思い切り掻き鳴らした。
「・・・カリッ」
ギターは鳴らなかった。他の全ての音が肩透かしを食らった。僕の右にいるベースの川崎と右後ろにいるドラムの松田が一斉に僕を見たのが分かった。打楽器と低音しか鳴っていないのだ。歌は裸も同然だ。
その歌も動揺で明らかに乱れていた。歌詞もまともに歌えない。ところどころ「ウララ、ウララ」と誤摩化している。
すぐにライブハウスのスタッフが二人ステージに上がり込み、僕の後ろにあるギターアンプをチェックし始めた。アンプの不具合か。このアンプはライブハウスのものだ。全くどうしてくれるんだ、と僕は心の中で思いながら歌い続けた。アンプのメンテナンスくらいちゃんとしてろよ!せっかくの夜の部初出演が、台無しになってしまったじゃないか。こんなライブハウス、もう出るもんか。僕は何度も演奏を止めてギターの音を出して仕切り直そうと思ったが、その勇気もなく、演奏は極度に不安定ながら続いていった。客は一様に、明らかに僕らの動揺を見て取って、心配そうな顔つきをしていたようだった。
ジャーン・・・シンバルとベースの余韻が空しく響く。結局激しいはずの一曲目がギターレスで不発なまま終わってしまった。後ろではスタッフがまだアンプを触っている。僕は思い切りスタッフを睨んだ。スタッフは困り果てていた。どこも不具合はないようだ。おかしいな・・・僕は前を向き、足下を見る。そして気付いた。足下のエフェクターからシールドケーブルが外れていたことに!そもそもギターからシールドで足下のエフェクターにつなぎ、ここで音を変化させて、さらにシールドでアンプまでつないで初めて音が出る。エフェクターからシールドが外れてしまえば、当然音は出ない。僕はようやく事の次第を思い当てた。僕が曲の最初に思い切り前に踏み込んでギターを鳴らそうとしたそのとき、誤ってエフェクターとシールドを接続している部分を踏んでしまい、シールドが外れてしまったのだ。僕はすぐにシールドをエフェクターに差し込み直し、スタッフの方に寄っていって、小声で言った。
「す、すいません、シールド外れてました」
ギターを鳴らすと、ちゃんと音が出た。
「大丈夫ですか、よかった」
そう言ってスタッフは元の位置に戻ろうとした。
「ほんと、すいません!」
沈黙の中、会場中に謝罪の声が響く。僕はステージの上で、小さくスタッフに頭を下げた。その一部始終を、二十数名の客は見ていた。僕は客席に背を向けて固まっていた。殺されそうな視線を一身に背負って、客席の方を振り向くことができなかったのだ。それでも、僕は二曲目を演奏しなければならない。僕は下を向いて情けなく客席の方に身体を向け、下を向きながらマイクの位置を探して近づき、ドラムのカウントを待った。
「ワン、トゥー、スリー」
二曲目「ロシアンヌ」が始まった。前を向けないのでまともに歌えない。声が震える。歌詞はところどころ「ウラララ」。ギターの音は戻ったものの、もはやライブでも何でもなく、生き恥をさらしているに過ぎない。
「ロシアンヌ」も不発に終わり、ここでMCを挟む予定だったが、構わず僕は三曲目を歌い出した。何を喋っても事態はさらに悪くなるだけだと思ったからだ。曲をやっていればまだ格好はつく。歌いながら、考えていた。
サカノボルトのハヤトだったら、どんなライブをするだろう。きっと一発目のギターから決まっているし、たとえ音が出なくても堂々としていられるだろう。それが彼の生き様であるかのように。僕はステージに立って、あのときの新宿JAMのハヤトのような姿を客に観せたかった。憧れられたかったのだ。しかし現実は、あまりに違う。ステージとは、ハヤトのような選ばれた人間が立つべき場所だったのだ。僕はステージに立てるような人間ではなかった。新人ライブであれだけのパフォーマンスを見せたジャイアンの方が、余程その資格があった。一番情けないのは、客に観せているはずなのに、その客席に目を向けられず下を向いていること。前を向くという動作は本来とても簡単なことだが、それも出来ない。お客は二千円を払わされて、下を向いた男の感動できない歌を聴かされている。本当に申し訳ない。ナギサさん、期待してもらったのに、本当にごめんなさい。みんな、お願いだから、これ以上僕を見ないでくれ。
そんなことを考えつつもどんどん曲は漫然と過ぎていく。このままでは、僕の中には何もなかったということになる。東京に出てきて、知らない新人バンドの知らない曲をエンドレスで聴いていたこと。その曲に心を震わされ続けたこと。それらが全部嘘になる。見ず知らずの人間にここまでの感動を与えてくれる音楽って、素晴らしい。僕もそういう音楽が作れるバンドがやれればいいな、と思ったサカノボルトのライブ。そして雨に降られて風邪を引き、一人曲を作って、この曲たちなら、もしかしたらやれるかも知れない、と心のどこかで思った根拠のない自信。そいつらがみんなみんな嘘になるのだ。ここで何もしないで情けないまま終われば、僕は本当に終わりだ。東京に来てからの僕は全部嘘でした。父親の言う通り、早く福岡に帰れ。
ライブはもう最後から二曲目「ラストショー」に入った。僕がイントロを弾き始めると、突然、右から足が飛んできた。僕は胴体を思い切り蹴られ、左に倒れ込んでしまった。ステージの中央の方を見上げると、川崎が背を向けて自分の立ち位置に戻っているところだった。案の定、僕はカポタストを外し忘れてしまっていた。川崎は約束を果たしたのだ。僕はカポタストを外して、気を取り直して「ラストショー」のイントロを弾いた。もう、メチャクチャだ。茫然自失の状態で一番を歌った。次は二番のAメロだ。ああ、もう歌ってられるか。僕は曲の構成を無視して、前かがみになり、この曲のキーのコード、Aコードを力の限りに掻き鳴らし続けた。そして爆音が響いているのをいいことに、鬼のような形相で、思い切り叫んだ。口はマイクから離れているから、どうせ誰にも聞こえやしないさ。
「ぐあああ、くっそおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
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!!!!!」 |
そう叫びながらギターの弦を引きちぎろうとした。本当に一弦が切れた。二番は終わり、次は間奏に入る。と言っても二番を歌っていないのだから、そのまま間奏が続いたとした方が正しい。しかし「本来の間奏」になると、
ベースとドラムが激しくなる。いや、今日はいつもより激しい。ドラムとベースの顔を見渡すと、尋常じゃなくなっている。ベースはえらく大股を開いて腕を大きく振りながら弾いているし、ドラムは力の限り叩いていて、今にも歴史が変わりそうだ。僕の無茶苦茶に反応して、頭を振り乱している。必死というより、むしろ楽しそうだ。僕は今の今までこの二人を置いてけぼりにしていた。一人で戦っていたのだ。このステージは、この二人のものでもあるのに。いや、この三人のものだ。ごめんよ川崎、松中。僕はようやく前を向いた。間奏が止み、ドラムが止まって静かになり、歌とベースだけが響く。僕はようやく、前を向いた。歌詞は残り少ないが、自信を持って歌えた。アウトロも盛り上がって終了した。客席からは初めて、まともな拍手と、少しだけだが「ヒュー!」と歓声が起こった。
水を飲んで、ギターのチューニングをする。僕は前を向いて、このライブ初めてのMCを始めた。
「こ、こんばんは・・・フラバルスです。今日は・・・ありがとうございます」
やっぱりだめだ。上手く喋れない。でも、あと一曲しかない。このままじゃ絶対終われない。僕はせめて、最後の曲に込めた気持ちだけでも喋ろうと思った。
「僕は、・・・福岡から・・・東京にやってきました。大方のCDは置いてきました。
というか、もともとそんなにCD持ってません。えーと、なんだっけ。何の話だっけ」
客席の知らない女の人の顔がたまたま見えたが、小声で「ガンバレー」
と言っていたようだった。口の開け方で分かった。
「あっ、そうだ。・・・えーと、たとえ三千枚のレコードがあって、それをまんべんなく聴くよりも、
一枚でも二枚でも、・・・一曲でもいいから、本当に、大好きな曲があって、
それを二十四時間一曲リピートでずーーーっと聴いている方が、僕は素晴らしいと・・・思います。
そういう僕も、そんな曲との出会いがあって、一曲リピートし続けて、・・・その度に前を向けたし、
一歩踏み出すことが出来たし、挙げ句の果てには、自分が思いもしなかったような、こんな場所に立ってる。
あの出会いがなかったら、今こんなところにいないと思います」
ようやく呼吸が整ってきた。頭の中は話をまとめようといっぱいいっぱいだった。また「ガンバレー」の口パクが聞こえてきた。
「何だっけ・・・あ。今度は僕が、音楽を作る側になって、僕の歌う曲が、
一人でも、二人でも、十人でも、百人でも、五万人でも」
「五万人」にいきなり数字が飛んだところで客席からは失笑が出た。笑うなよ。
「十万人でも、何人でもいいけど、誰かの心の中で、『エンドレス』な曲になってくれれば幸いです。
最後の曲は『エンドレス』」
間髪を入れずドラムがカウントを入れた。素晴らしいタイミングだった。この日ようやくまともな演奏が始まった。そういえばこの曲を作ったとき、これは行ける、と思ったんだっけ。それは、全く根拠のない自信・・・あのときのジャイアンと同じだった。僕は歌いながら客席を見た。右後ろの方にジャイアンがいた。腕を組んで、仁王立ちでこっちを見ている。まばたきもしないで、じっと。何かを伝えるように。
「みんな最初はアマチュアやん。そっからプロになるには、まず気持ちやて」
僕をバンドに誘ったときの彼の言葉が蘇ってきた。この現実を見ない言葉を、僕はずっと馬鹿にしていた。しかし、これは本当だったのだ。僕のエンドレスな音楽との出会い、バンドへの憧れ、自分への根拠のない自信。それらは、自分が否定した瞬間に全部、嘘になる。こいつらを全部「本当」にするためには、最低条件が一つ。自分がまず信じるしかない。そう、まず「気持ち」なのだ。ずっと嘲笑しながらもどこかむずがゆかったジャイアンの言葉。実は僕が必死に押し隠してきたものだったのだ。ジャイアン、今ようやく、分かったよ。
あっという間に最後の曲が終わり、僕ら三人は深々と一礼をした。総じてボロボロのライブだったが、達成感は大きかった。二十数名の目撃者からは、予想の半分くらいの勢いでしか拍手をもらえなかった。なあんだ。そんなものだったのか。でも、いいさ。またライブをやればいい。僕の音楽は嘘じゃない。次こそは、最高のものを見せてやるんだ。僕はもう一度おじぎをして、楽屋に戻った。
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最終話 帰り道〜エンドレス
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僕らは楽屋で終始笑顔だった。三人で固い握手を交わした。
「確かに出来は悪かったけれど、またライブやりたいよね」
川崎はタオルで汗を拭きながら言った。
「おう、またやろう!次こそ歴史を変えないとね」
僕は松中の方を見た。松中は照れたような顔で応えた。
「お、おう」
汗だくの衣装を脱いで、普段着に着替える。三人で客席スペースに行くと、僕らのライブのときよりも二十人ほど客が増えていた。すぐにジャイアンや和美、斉藤、松田に声をかけられ、談笑した。ジャイアンは僕の肩を叩いて言った。
「なかなか散々やったな。けど最後の二曲には、かなりのソウルがあったで」
和美は僕に笑いかけながら、一言、
「黒ちゃん、面白かったよ」
と言った。面白かったって、どういうことだろう。
「みんな、ありがとう」
斉藤は、いたく感動した様子で僕に寄って来て、握手を求めて来た。
「ほんと、最高でした」
「そ、そう?」
正直それは言い過ぎだと思ったが、僕は斉藤の気持ちが嬉しかった。しばらく喋っていると、突然後ろから肩を叩かれた。振り返ると、ナギサさんと理恵さんが並んで立っていた。
「よう」
「あ、ありがとうございます!」
「かっこ良かったよ」
理恵さんが言った。
「いや、とんでもないです」
ナギサさんはビールを片手に、ニヤニヤしていた。
「黒田くんてなかなか熱いキャラなんだね」
「いやあ、あの、あんなんですみませんでした・・・」
「おいおい、ライブをやった人間が客に対してそんなこと言ったら全部台無しになっちゃうでしょ。
開き直ってりゃいいんだよ。次頑張んなよ。でもある意味、ほんとにいい『ライブ』だったよ。
何だか俺もまたやりたくなっちゃった。やっぱり趣味でもバンドは続けようかな。
今度サークルででも一緒にやろうよ」
「ほんとですか!?」
話は尽きなかった。色々喋っているうちに、次のバンドの演奏が始まった。僕は最後のバンドまで、客席で観た。いずれもギターの音が出ないようなトラブルなんかなく、安定したパフォーマンスを披露していた。僕は素直にいいライブをしているなと思った。でも、曲のクオリティーは、負けていないとも思う。
最後のバンドの演奏の頃には客席は満員で、ライブが全て終了すると、大勢の客が雪崩のように店の出口に向かった。その流れに乗って、ジャイアンたちや和美、ナギサさん、理恵さんと次々に店の出口に向かって行った。和美に向かって僕は言った。
「じゃあ、またね」
「うん、じゃあまたね!えっと、次の部会に何時だっけ?」
「一時ね。またメールするよ」
「うん、待ってるね」
そう言うと、和美は後ろを向いて出て行った。斉藤がそれに続いた。僕は和美の後ろ姿が見えなくなるまでじっと見ていた。そんな僕の様子を見ていたジャイアンは、僕に近づいて来て言った。
「黒田、男を見せろや!」
「な、何だよ!」
ジャイアンは僕に向かって親指を突き立てて、去って行った。まったく、奴はどこまでが冗談でどこまでが本気なのか分からない。
客がほとんど出払ってしまうと、がらんとした客席はライブの華やかな雰囲気をすっかり失って、急に狭くなった気がした。店員が客席の掃除を始めた。僕らバンド三人は受付カウンターに呼ばれた。ライブの精算だ。そこには吉田さんが待っていた。
「おつかれっした!」
吉田さんは驚くほど明るい声で語りかけた。
「あ、、お疲れさまでした」
僕も一応できるだけ大きな声で返そうとしたが、蚊の泣くような声しか出なかった。ライブは自分なりに収穫はあったものの、吉田さんにだけは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せっかく期待して誘ってくれたのに、まるで観せ物にならなかったからだ。
「今日、どうだった?」
「いやあ、すいません・・・」
「いやいや、でも、最後の方は熱かったよね。気持ちが伝わって来たよ。
その気持ちを忘れずに、これからもっと場数を重ねていけば、もっと良くなっていくんじゃないかな」
「はい・・・」
「ところで、君らは学生?まだバンドを始めて間もないんだよね」
「そうですけど」
「どうするの?これから本格的にやって行くつもり?」
三人は黙った。「本格的」という言葉が何を指すのか、他のメンバーの解釈を伺うかのように、川崎と松中は顔を見合わせた。僕は答えを出しそびれている彼らを尻目に、思い切って言った。
「はい、このバンドで食って行きたいです」
「お、おい」
川崎と松中は動揺を隠さなかった。
「おお、それは気合い入ってるねえ。自信、あるの?」
そう訊かれてまた一瞬ひるんだが、僕は一つ呼吸を置いて、こう言った。
「よく、渋谷の大きいテレビにいろんな歌手が映ってたりするのを見るんですけど、
僕の中でほんとにいいなと思える音楽って、少ないなといつも思うんですよね。
コンビニに入っても、下らない曲しかかかってない。今、巷はゴミで溢れてると、僕は思います。
そのゴミを、掃除してやりたいんです」
吉田さんはしばらく呆気にとられていた。あーあ、言っちゃったよコイツ、というような顔だった。
「そ、そりゃあ、ずいぶんな自信だねえ・・・どこからそんな自信が湧いてくるの?」
「根拠は、ないです」
吉田さんは失笑した。
「フフフ、・・・いやごめんごめん。でも、そういうの大事だよ。MCでも言っていたね。
多くの人に曲を聴かせたいって。それってなかなか大変なことだけど、これから頑張ってよ。
そうそう、次のライブなんだけどね、君らがその気なら、こっちも気合い入れて誘うよ。
そうだなあ、次は七月なんてどう?」
雑踏の中、居酒屋やコンビニのネオンライトが身長差の大きい二人を照らす。和美と斉藤は下北沢の駅に向かっていた。斉藤は和美を見下ろして言った。
「今日、どうだった?」
「最後の方はまあまあね。相変わらずギターはメチャクチャだったし・・・。まあ、一生懸命さは伝わってきたよね」
「俺的にはすげー良かったんだけど。いつかもらったMDにさ、黒田さんのデモ入ってたけど、
あの『エンドレス』って曲がかなり好きなんだよね。あれがライブで聴けたのが嬉しかった」
「そう・・・。そういえば冗談で言ってたよ。もしメジャーデビューしたら、
最初に出すCDの一曲目はあれにするんだって。でも私は『ラストショー』の方が好き。
まあ、あの真面目くんな黒ちゃんがバンドマンになるなんてまず想像できんけどね」
「なんかさあ・・・。俺らがサークルでやってるコピバンなんて結局まねごとなんだなって」
「そう?別にそんなことないんじゃない?オリジナルだろうとコピーだろうと、
演奏する人のオリジナリティーは出せると思うよ」
「そうかなあ」
二人はしばらく黙って、賑わう商店街を歩いた。居酒屋、雑貨屋、それにカフェが建ち並ぶこの通りは、車が一応通れることになってはいるが、一日中ごみごみしていて、ほとんど歩行者天国のようである。若者が多いこともあって、自由な雰囲気と活気にあふれている。それがこの街の魅力だった。駅が近づいてきた。
「ねえ、和美さん」
「『さん』付けはやめてよー。もう付き合ってるんだから」
「いや、でもずっとそう呼んでたし」
「まあいいけど」
和美は斉藤の右腕にぐっと肩を寄せて、手をつなぎ、指を絡ませた。
「俺も自分の曲作って歌いたいんだけどさ」
「うん、いつか言ってたよね」
「和美さん」
「もう、何よ」
「俺も、音楽で人を感動させることってできるかな」
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