【ライナーノーツ】
1976年、ロンドンでセックス・ピストルズが1stライヴを敢行した。パンクロックの誕生である。そして同年、日本ではライヴハウス・新宿ロフトがオープンした。怒れる若者たちによるパンクの波は、瞬く間に日本にも浸透。アンダーグラウンド・シーンを中心に活発な動きを見せ始め、新宿ロフトは、それを強く後押しした。日本における最初のパンクバンドは、関東のアナーキー、九州のザ・モッズ、名古屋のスタークラブ。いずれもロフトと縁深いバンドである。また、ほぼ同時期に活躍し、パンクスから大きな支持を得たARB、ルースターズ等、めんたいロックと呼ばれた九州勢も、新宿ロフトを東京でのホームグラウンドとしていた。ビクター盤である本作は、これらのバンドから始まったパンクの流れを集約する一枚となっている。ゆえにここでは、日本のパンクの歴史を、ロフトとかかわりが深いバンドを中心に、駆け足で説明していこうと思う。
「誰にでもできる。自分自身でやれ!」というDIY精神を合い言葉に、既成の音楽業界のシステムやスタイルに反発して生まれたパンクロックは、70年代末、発信地ロンドンにおいて、音楽的により大きな広がりを持つニューウェーヴへと発展した。しかしニューウェーヴ勢の多くがポップ化し、商業的な成功を納めた80年代初頭。その流れに反旗を翻すように登場したムーヴメントがあった。ハードコアとポジティヴ・パンクである。
一切のポップ性を排除し、ひたすら速くかつ攻撃的なサウンドを爆発させたハードコア。新宿ロフトでは81年、スターリンがレコ発GIGを行ない、翌82
年にはガーゼが消毒GIG特別編2daysを敢行。ギズム、カムズ、エクスキュート(※メンバーは後にガスタンクを結成)ら関東ハードコア四天王と共に、関西からラフィンノーズ、マスターベーションらが参戦。一方、パンクの中にサイケとゴシック的退廃を取り入れたポジティヴ・パンクもハードコアと連動する形で盛り上がり、オートモッド、マダム・エドワルダ、サディ・サッズ、アレルギー(※後にデラックス)らが活躍。参考までに、この両者の流れは80年代後半のスラッシュと一部のビジュアル系にも混在して受け継がれることになる。
83〜84年、ラフィンノーズ、ウィラード、有頂天らの活躍により、インディーズ旋風が巻き起こる。これまで、あくまでアンダーグラウンドの一ジャンルであったパンクロックが、一つのカルチャーとして日本全土に浸透し始めたのである。新たにリップクリーム、ガスタンク等を加えたハードコア勢を中心として盛り上がりを見せる中、ラモーンズ直系の痛快なUSパンクを鳴らしたライダース、登場時は日本のトイドールズと謳われたアンジー、日本初のミクスチャーバンドであるレピッシュら、個性的なバンドが次々ロフトのステージを飾った。そんな中、最も猛威を振ったのが、ケンヂ&ザ・トリップス、ザ・ポゴ(※現ジグヘッド)、ニューロティカ、そしてザ・ブルーハーツを代表とするビート・パンク勢である。これらのバンドは、ハードコア勢と対バンを重ねながらも、同時にビート・シーンやモッズ・シーンとも交流を持ち、さらにそのサウンドにUKオリジナル・パンクの要素を取り入れていたため、攻撃性とポップ性を両立していた。そしてそのキャッチーさが人気要因の一つとなったのではないかと思われる。
しかし80年代後半、ホコ天バンド(※原宿の歩行者天国でライヴをしていたバンド)、イカ天バンド(※TVの勝ち抜きコンテスト番組から登場したバンド)らが絶大な人気を集め始めるようになると、インディーズ・ムーヴメントは未曾有のバンド・ブームへと転化。そして過熱に過熱を重ねて膨れ上がった末に遂に破裂、90年代初頭にブームは終焉を迎え、それに伴ってライヴハウスは氷河期時代へと突入することになるのである。ちなみにブラッドサースティー・ブッチャーズ、イースタンユース、怒髪天ら札幌勢は、この時期に上京。またケンヂ&ザ・トリップスのメンバーに呼応して始まったピロウズも、結成こそ東京だが、この前後に札幌から上京している。彼らは活動するのが最も困難だった時代を乗り越えて力と変え、現在も先鋭的なサウンドを放ち続けている。
話を戻して90年代中盤。冷えきっていたライヴハウス・シーンの起爆剤となったのが、ハイ・スタンダードの躍進だ。ビヨンズ、ニューキーパイクスや先の札幌勢に触発され、地道な活動を重ねていたハイスタ。その彼らの1stアルバムのレコ発で、本当に久々に見る、溢れんばかりの観客の群れがあったのだ。もちろん、場所は新宿ロフトである。さらに、コークヘッド・ヒップスターズ、ココバット、スーパー・スチューピッド、ブラフマン、バックドロップボム、ハスキングビーといった一筋縄ではいかないラウドかつ個性的なバンドが猛烈な勢いで登場。さらに同時期、ミッシェル・ガン・エレファント、ギターウルフらを筆頭とするガレージパンク勢も、先のラウド勢とリンクする形で人気を迫し、90年代後半は、三度目のパンク黄金期となった。そして彼らに触発されながらも自分自身の音を鳴らそうとするパンク・スピリットを持ったバンドがまた次々と登場。ナンバーガール、ザ・バックホーン、ゴーイング・ステディ(→銀杏ボーイズ)、ゴーイング・アンダーグラウンドらである。
上から押し付けられるように降ってくるポップスよりも、下から突き上げてくる逞しいロック。その中でもとりわけ自主自立の精神と個性、そして刺激に溢れたサウンドを持つのがパンクロックだ。新宿ロフトはそういったバンドを常に応援してきたし、これからもするだろう。パンクの歴史は、まだ続いている。
毎晩たくさんのバンドがステージに立つ新宿ロフトの特色を、一言で言うなら「硬派」だろう。このコロムビア盤には、特にそんなバンドが多く収録されている。
潜水艦が店内にあった開店当初こそフォーク・ロックが中心だったが、80年前後からARBやシーナ&ロケッツ、ルースターズといった九州勢が頻繁に出演するようになり、一方東京ロッカーズやアナーキーなど関東圏のパンク・バンドも、ロフトを拠点のように活動するようになったことに由来する気がする。演奏そのものの熱気はもちろんのこと、酒と喧嘩はロフトの花、と言わんばかりの当時の武勇伝は、今や伝説となっている。
だから、というわけではないが、レアなロックンロールをぶちかます、タフなバンドが生き残る。ライヴ後に客も混じって始まる打ち上げで、バンド同士の絆を強めたり対抗心を燃やしたり、互いを切磋琢磨するのが当たり前といった空気が、西新宿のロフトにはあった。そして、それを間近で見られるのも、客にとっては楽しみのひとつでもあったの
だ。
もっとも、バンドがタフなら客もタフでなければならない。店内全部がモッシュ・ピット状態になってしまったり、ぎゅうぎゅうに詰め込まれて酸欠で倒れそうになったり、観客の汗が湯気になって立ち上り、それが天井から滴り落ちてくる、などといった過酷な状況も覚悟の上でなければ、あの狭い階段を下りて行くことは難しかった。しかしそんなライヴこそ何ものにも代え難い。ロフトは特に、ハイリスク・ハイリターンなところだった。
80年代半ばになり、インディーズ・シーンが活況を呈してくると、ロフトに出演するバンドも多種多様になっていた。ポジティヴ・パンクあり初期エレクトロニカあり、ミクスチャーもいればハードコアもいた。そんな呼び方さえなかったけれど、個性的なバンドが見たければロフトに行くのが一番だった。都内に限らず地方でもライヴハウスは増
えていたが、そこは老舗の強みかロフトはラインナップがよかったのだ。そして面白いことに、スタイルは変わってもレアでタフなバンドたちであるのは変わらなかった。トレンドが変わっても、ロフトをホーム・グラウンドとするバンドを切り捨てることなく、新人にも門戸を広く開放する店の方針が功を奏していたのだろう。80年代後半、ホコ天イカ天のバンド・ブームになっても同様だった。
週末の夜にロフトでワンマン・ライヴをやる。それが目標だったというバンドに、たくさん出会った。今も、同じ夢を胸に頑張っているバンドは数多いことだろう。それが受け継がれているのは、30年にもなった歴史に負うものではなく、受け継ぐものと受け入れるもののバランスが絶妙だからではなかろうか。99
年に歌舞伎町に移転して以後も、それは変わらない。
誰かが同じことを書いていそうだが、ニューヨークのクラブCBGBは、「カントリー、ブルーグラス、ブルース」の略で、当初はそうした音楽を聴かせる店だったが、いつしかニューヨーク・パンクの拠点となり、いまや世界中のパンク・バンドが一度は演奏したいと憧れるような店である。ロフトも、日本のバンドにとってそんな存在になっている。
今井智子
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