弘田三枝子は、1961年11月に東芝レコード(現:東芝EMI)から「子供ぢゃないの」でデビュー、「ヴァケーション」「渚のデイト」などカバーポップスでヒット曲を連発します。
1964年12月コロムビアへ移籍。第一弾の「はじめての恋人/砂に消えた涙」が大ヒット。「ナポリは恋人」「夢みるシャンソン人形」などカバー路線で引き続きヒットを飛ばします。
1965年7月には日本人歌手としてはじめて、10代の若さで「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出演。同年12月にはアニメ『ジャングル大帝』のテーマ曲「レオのうた」を発売するなど多彩なジャンルでの活躍も評判となります。
1966年1月、ニューヨークレコーディングされたアルバム「ニューヨークのミコ」をリリース。
1967年7月には新進気鋭の橋本淳−筒美京平コンビを起用した「渚のうわさ」を発売、後のゴールデンコンビ初のヒット曲となります。
翌68年には、アメリカ〜ヨーロッパへの音楽旅行から帰国後に行われたライヴを録音した「ミコR&Bを歌う」をリリース、日本の音楽界でいち早くR&Bに取り組みます。
1969年7月リリースの「人形の家」が大ヒット、日本レコード大賞の歌唱賞を受賞後、しばらくは歌謡界を中心に活躍していましたが、次第にジャズやポップス方面にシフトし「JAZZ
TIME」「My Funny Valentine」「IN MY FEELING」などジャズヴォーカルの名盤をリリースします。
弘田の歌唱力には定評があり、彼女のヴォーカルに感動したエラ・フィッツジェラルドから「私の養女にしたい」と言われたというエピソードも残っています。また桑田佳祐が弘田のファンであることも有名で、1983年発売されたサザンのアルバム『綺麗』には、弘田をテーマにした「MICO」という作品が収録されています。
他にも大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、スピッツの草野正宗らミュージシャンからもリスペクトされていて、1999年にはピチカート・ファイヴの小西康陽プロデュースによる弘田のアルバム『TOKYO 27:00』(TRIAD/COLUMBIA)を発売し話題となりました。
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