1965年(昭和40年)は私にとって思い出深い年だ。なにか自分のまわりの空気が濃密になってきたようで、空気が吸いにくく、いつも息が苦しく、ゆっくり歩こうと思っても歩けないような、そんな日々を過ごしていた。私は20歳の頃からシャンソンの訳詩という仕事をなかばアルバイトのように、なかば本職のようにして食いつないでいたが、そのお蔭もあって、普通の人より4年遅れてだが大学(立教大学文学部フランス文学科)をこの年に卒業できた。
まわりの空気が濃密になるという感覚、あれは何から来るのであろう。バルザックの小説の若き主人公が大都市のパリに向かって「今度はおれとおまえの一対一の勝負だぞ」(ペール・ゴリオ)とか、きらびやかな社交界にたいして「これがぼくの王国なんだ!ぼくが服従させることになる世界なんだ」(幻滅)と言って闘志を燃え立たせたあの青春の思い上がりによく似ている。が少し違う。なぜならそこには自分の目的とするものが周囲の期待とまさに合致し、これこそが自分のなすべき仕事であると確信して奮い立つような高揚感がすでにしてあったからである。そしてそれは時を追って形をなしていく。たとえば『知りたくないの』が『恋心』のB面として発売されたのがこの年であり、つい2年前に偶然出会った石原裕次郎さんに勧められ、生まれて初めて作詩作曲した『涙と雨にぬれて』がレコーディングされたのもこの年であった。この歌が私にとっての初ヒット曲となったのも『知りたくないの』がB面の曲でありながらもじわじわと人気を呼んで売れはじめたのも翌年のことであるから、1965年の私は己に迫りつつある得体の知れぬ歓喜と興奮を先取りして勝手に胸苦しくなっていたのである。それは予兆または予感であった。
そして66年(昭和41)は山のような作詩依頼が舞い込み、それを寝る間も忘れて仕上げた。それらが年が明けると次々と発売され、世の中に私の書いた歌が突如としてやたら流れるという、夢のような事態が出来した。『恋のハレルヤ』『恋のフーガ』『知りたくないの』『知りすぎたのね』etc。
こうして私の作詩家人生がスタートした。あれから今年で50年である。途中、オペラの台本を書き演出をやり『歓喜の歌』の日本語詩を書いてクラシック音楽界とかなり深い付き合いをした。また劇の台本、ミュージカルの台本や訳詩を担当して演劇界とも交わった。振り返ってみて自分のやってきた仕事の多さにわれながらあきれる。しかしそれは色々なものに興味をもったことの証明でもあるが、ついに落ち着くべき場所を発見できなかった人間の漂泊の足跡でもある。
一時は、作詩は己の天職ではないかとまで思ったことがあったが、心の奥底には小説を書きたい気分が絶え間なくあった。それはシャンソンの訳詩を始める前からすでにしてあった。私の人生はシャンソンの訳詩と歌謡曲の作詩に出会ったことで成立したものであることは十分承知しているが、私の潜在意識の中には作家になりたいという希望もまた絶ちがたいものとしてあった。もう残りの人生もわずかである。急がねば、そんな思いで挑戦したのが初めての小説『兄弟』である。そして2作目の『長崎ぶらぶら節』が第122回直木賞を受賞した。それが2000年である。小説がベストセラーになり、ドラマ化され映画化され舞台化され、私の交友関係はいっきょに広まった。そういうことの次第で『なかにし礼と12人の女優たち』というCDが企画された。このCDは私の作詩家・作家生活50周年記念と銘打って発売される。これほどの作詩家・作家冥利につきることはあるものではない。女優の皆さんに感謝だ。