「レコード芸術」などで活躍する気鋭の評論家、広瀬大介さんが、オペラに登場する日の当たりにくい脇役になりきり、そのオペラの魅力と鑑賞のツボを押さえた作品解説、対象映像の演出について語る、世にも不思議ななりきり一人称ガイド。
これぞ自己言及のパラドックス!ねじれの向こうに真実がみえる!
1973年生。一橋大学大学院言語社会研究科・博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『リヒャルト・シュトラウス:自画像としてのオペラ』(アルテスパブリッシング、2009年)、『レコード芸術』誌寄稿のほか、NHKラジオ出演、CDライナーノーツ、オペラDVD対訳、演奏会曲目解説などへの寄稿多数。
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最近、無味乾燥な歴史書の代表格『徳川実記』に現代語訳が登場しはじめ、うれしさを噛みしめつつも、昔苦労して読んだのは何だったのか、と一抹の寂しさも感じているところ。好きな食べ物は相変わらず甘いチョコと甘い梅酒。
《カルメン》とは
スペイン南西部の都市セヴィリア。男遍歴を繰り返す魔性の女カルメン。女に惚れ、職も許婚も棄て、破滅への道を転がり落ちた伍長ドン・ホセ。劇的なストーリーと有名曲ばかりの音楽によって、今なおオペラの最高傑作としての地位を保ち続けている。
ドン・ホセの狂おしい愛が引き起こしたカルメン非業の死から早 10年。物語の舞台のひとつ、カルメンの裏稼業・密輸業者のアジトとなっていた酒場「リリャス・パスティア」(第2幕)で、かつてのカルメンの同業者、フラスキータとメルセデスが久しぶりの再会を果たす。10年ひと昔とはいうものの、二人にとって、「カルメン殺傷事件」はいまだ生々しい記憶として残っているようだ。パスティア名物、小魚の唐揚げとサングリアを存分に味わううち、オペラ本編ではなかなか明かされない二人の心情が、酔いに任せて吐露される。血の気の多いジプシー女たちの事件放談がいま、はじまる。
メルセデス(以下M):あんたってさ、約束しても必ず2時間は遅れるね。手酌でお先にやってるよ。あたし、もう酔っぱらっちゃったじゃない。
フラスキータ(以下F):まあまあ、硬いことは言いっこなし。でも、アタシにも事情ってのがあんのよ。亭主が死んでから、家の財産管理も楽じゃないの。毎日変な奴がうちに寄って来るし、使用人は家の食器とか置物とかちょろまかそうとするんだから。気が休まる暇なんかないのよ……ってアンタ、なんなの、その唐揚げいっぱいの皿は。
M:ここの名物だからね。美味しいのよ。
F:そりゃアンタは何食べてもスレンダーだからいいかもしれないけど、アタシは色気より食い気、太る一方。メルセデス、アンタはうまくやったわね。あのいかした旦那とおアツい仲らしいし、しかも最近ダンカイロの後を継いで、親分になったっていうじゃない。あたしに寄ってくる男なんか、みんな金目当てで、ろくな奴がいやしない。食い気だけはどんどん増すもんだから、つくのはお腹周りの無駄なお肉だけ。
M:余計に男が寄りつかないわけか。
F:食べ始めると止まらなくなっちゃうのよ。まあでも、結局、あんたは愛を、あたしは金を得たって訳ね。そう考えると、あんなトランプ占いも、結構当たるもんね(註)。
M:あたしたちが出ている(って言ってもちょっと存在感薄いけど)《カルメン》に限らず、オペラの中に出てくる占いっていうのは、当たることになってるの。これ、オペラの「お約束」よ。イタリアのヴェルディって作曲家が書いた《仮面舞踏会》ってオペラあるじゃない? あれに登場するウルリカって占い師なんか百発百中よ。
F:全部当っちゃったら、占いじゃないような気がするんだけど……。
M:占いによって、その後のオペラの物語がどうなるか、あらかじめ聴き手に教えてくれてるってわけ。
F:ふーん、なるほど。アタシも今度占ってもらおうかな。
M:でも、カルメンの運命については、当ってほしくなかったけどね。そういえば、あんた、今日飲む約束した理由、忘れてないでしょうね。
F:さすがにそれは忘れないわよ。今日はカルメンが死んでちょうど10年。ウチらなりにあの女を悼んでやろう、っていうことなんでしょ。
――話が本題に入ってきたようだ。カルメンを悼んで酒場に集う。なかなか殊勝なところのある二人である。酒場の店主パスティアが、追加のサングリアとともに、イカ墨の煮込みを運んできた。
F:パスティアも随分見ないうちに老けちゃったねえ。カルメン、たしかあのオヤジに惚れてたこともあったよね。
M:随分昔の話でしょ。
F:カルメンって、男の見かけにこだわらなかったよね。男なら何でも良かったのかしら。どうでもいいけど、あんた、歯がイカ墨で真っ黒だよ。
M:美味いもの食べるのに、見た目気にしてどうすんのよ。カルメン、男の見かけはどうでも良かったみたいね。このイカ墨の煮込みのように実質本位、男だってオイシければ、見た目は二の次ってことでしょ。それとも、うちらにはわからない、あの女なりの基準があったのかしら。でも、カルメンに関わった男は、なぜかみんな、ツキをなくしていったよね。どうしてなんだろう。
F:男の鼻面つかんで、引きずり回そうとしてたもんね。「あたしと仕事とどっちが大事なんだよ?」とか平気で言ってたよ。
M:で、男の仕事がうまく行かなくなると、次の男に乗り換える、と。
F:金の切れ目が縁の切れ目ってわけね。
M:まあ、そんな奔放なことができるのも、水も滴るイイ女だったから。気っぷも良くて、下手な男なんか噛みつかれちゃいそう。タバコ工場に勤めてるときは、葉巻とオレンジにかぶりつきながら男を誘惑してたしね。
F:そういえば、あの男、ホセはまだ牢屋の中なの?
M:ホセは結局裁判で死刑になって、数年前に刑が執行されたって。あの男、もとは牧師になりたかった、ってんだろ。陰気で不器用だったし、カルメンに振り回されっぱなしだったけど、それなりにしっかり筋は通したじゃないか。金もないのに、無理してカルメンに指輪あげたりしてさ。可愛いところもあったじゃない。
F:なんか、枯れた花を握りしめて、一人で泣いているのを見かけたことがあったな。ちょっとキュンとしちゃった。でも、あのときは確か……、カルメンはもう別のオトコに乗り換えてたんだよね。
M:そう、闘牛士。あんとき人気絶頂だった奴。
F:名前は……なんだっけ?
M:エスカミーリョよ! もう忘れたの? まったくイライラする女だね。よくあの「稼業」がつとまってたもんだ。あの闘牛士、あの後、牛の角に突かれて大怪我したって聞いたよ。いまどこに行っちゃったんだろ。カルメンが死んで、あの男も気が抜けたのかね。でも、エスカミーリョと付き合おうか、って頃のカルメン、妙に「らしく」なかったような気がしない? 普段に似合わずウジウジしてたから、ちょっとイヤな予感はしてた。
F:そう?
M:まだホセも気になっていたらしいけどさ、ほら、ホセを追い回して、峠のてっぺんまでわざわざ登ってきた、いけ好かない女がいたじゃないか。カルメン、あの女のこともずっと気にしてたんじゃないかな、って。
F:ああ、その女、いま、近所に住んでいるわよ。ミカエラでしょ?
M:ちょっと、それ、ホントなの?
F:幸せそうよ。子供も3人くらい、立て続けに産んだみたいだし。
M:子供?! 結婚してんの?
F:なんで? 良かったじゃない。
M:良くない! 大体あの女は、ホセのことが好きだったくせに、ホセの母親が死にそうとか何とか言って、小細工を使ってあの男を引き戻したじゃない。あの峠の時だって、せっかく音楽が緊迫してんのに、突然、変ロ長調で、場違いな音楽で歌い上げちゃってさ。
F:ああ、確かに横で聴いてると違和感があったわ……。
M:カルメン、相当怒ってたわよ。コロッと騙されるホセも馬鹿だけど、あの女は卑怯!最低! 好きなら堂々と奪えばいいじゃない。ああいう姑息なことをするのが、カルメンは大嫌いだった。ホセも不器用だったけど、カルメンはもっと不器用だったのよ。不器用同士がぶつかり合ってあんなことに……。それなのに、あの女はホセが捕まるや否や、すぐ手のひらを返して、別の男と結婚したわけ?
F:そう言われてみれば……。
M:あんた、平気で近所づきあいとかしてないでしょうね?
F:家はちょっと離れてるから……。それに、向こうがアタシを避けてるっぽい。
M:当たり前! あんな計算高い女が、自分の過去を知ってる人間に近づくわけないわよ。
F:アンタって、人情ってものがわかってるよねえ。
M:あんたが鈍すぎるの! どうせあの女、いまの男だって、かまととぶって手に入れたに違いないんだから!
――興奮のあまり、机を叩くメルセデス。だんだんと目が据わってくる。空のワイン・デキャンタをみとめると、チッと舌打ちしながら、店主パスティアに「サングリア、もっと持ってこい!」と叫ぶ。やれやれと呆れるパスティア。しかし手馴れた対応を見ると、どうやらこの酩酊ぶり、今日が初めてではないようだ。
F:ねえ、飲み過ぎなんじゃないの……?
M:カルメンが憐れよ!! あの人、不器用なくせにきちんと筋だけは通そうとする、変に潔癖症的なところがあるから、やめろって言うのに、目の色変えて、おかしくなったホセの所に行っちゃってさ。「あんな男、見るのもイヤだけど、キチンと別れてやる。あたしを殺すつもりらしいけど、どうせ死ぬときは一緒」って。馬鹿じゃないの? だから刺されちゃったんだ。殺されに行ったようなものじゃない! ツェルビネッタみたいに、黙ってエスカミーリョについていけば良かったのよ。
F:ツェルビネッタ?
M:ドイツのリヒャルト・シュトラウスのオペラ《ナクソス島のアリアドネ》に出てくる浮気なヒロインよ。カルメンも彼女みたいに、いちいち理屈なんかつけずに乗り換えればよかったんだよ…。なに醒めた顔しちゃって。あんたはカルメンがかわいそうだと思わないの?
F:思ったわよ。思ったけど、カルメンたら、刺されたときに、不思議と穏やかな顔してたのよ。あたし、そんなカルメンの顔見るの初めてでね。怖いって言うんじゃなくて、何だか涙が止まらなかったな。カルメン、きっと、ホッとしたんじゃないかな。
M:刺されたのにホッとした? なんでよ?
F:もうホセに追い回されずに済むから? 解放されたって感じ?
M:半疑問形で訊き返さないでよ! あたしが訊いてるんだから。そうなると、あたしたちにはわからないけど、あれはカルメンなりに、幸せな死に方だったってこと?
F:そんな気もするってこと。
M:ま、確かにそうでも思わないと、やりきれないね…。
――感情の高ぶりは一気に冷め、涙を浮かべながら空のワイングラスを見つめる二人。「リリャス・パスティア」もそろそろ閉店時間。二人は連れだって店を立ち去る。それを見送るパスティア。ふと、路傍に咲く赤いカシアの花に目をとめ、それを摘む。店へ戻り、メルセデスの飲み干したグラスに花を一輪投げ込み、胸で十字を切る。
第1回・了
ビゼー 《カルメン》
グラインドボーン歌劇場2002
「念願の役柄。良いプロダクションに巡り合うまで何年も待ち続けました」名手フォン・オッターが満を持して挑戦したグラインドボーンの《カルメン》。気鋭の指揮者ジョルダンがどのフレーズにも精気を与え、辣腕の演出家マクヴィカーも全てのキャラクターを掘り下げ、血を通わせる。特典映像も含めて、名作「再創造」への道を明らかにした決定盤。
カルメン:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
ドン・ホセ:マーカス・ハドック
エスカミーリョ:ロラン・ナウリ
ミカエラ:リザ・ミルン
フラスキータ:メアリー・ヘガティ
メルセデス:クリスティーン・ライス 他
演出:デイヴィッド・マクヴィカー
指揮:フィリップ・ジョルダン
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
2002年8月17日 グラインドボーン音楽祭、イギリス