「レコード芸術」などで活躍する気鋭の評論家、広瀬大介さんが、オペラに登場する日の当たりにくい脇役になりきり、そのオペラの魅力と鑑賞のツボを押さえた作品解説、対象映像の演出について語る、世にも不思議ななりきり一人称ガイド。
これぞ自己言及のパラドックス!ねじれの向こうに真実がみえる!
1973年生。一橋大学大学院言語社会研究科・博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『リヒャルト・シュトラウス:自画像としてのオペラ』(アルテスパブリッシング、2009年)、『レコード芸術』誌寄稿のほか、NHKラジオ出演、CDライナーノーツ、オペラDVD対訳、演奏会曲目解説などへの寄稿多数。
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最近、無味乾燥な歴史書の代表格『徳川実記』に現代語訳が登場しはじめ、うれしさを噛みしめつつも、昔苦労して読んだのは何だったのか、と一抹の寂しさも感じているところ。好きな食べ物は相変わらず甘いチョコと甘い梅酒。
《アンナ・ニコル》とは
マーク=アンソニー・タネジの新作オペラ《アンナ・ニコル》。2007年にその波瀾万丈の生涯を閉じたばかりのプレイメイト、アンナ・ニコル・スミスのオペラが誕生というニュースに、英語圏で話題は沸騰。そこで、このオペラについて近親者の意見を訊くべく、母親ヴァージーの記者会見が設定された。当日にはスペシャル・ゲストも予定されていたと言うが、どうやら遅刻しているようで…。あ、こんなことを言うのは野暮だとわかってますが、もちろんこれは筆者の妄想が多分に加味されたフィクションですから、本当にこんな記者会見があったと思わないでくださいね、読者のみなさま。皆存命の人物ですが、あくまでも「なりきり」ですから。
司会: えー本日は沢山の報道関係者にお集まり頂きー、感謝申し上げます。これよりー、記者会見をはじめたいとー存じます。まずはー、アンナ・ニコル・スミスの母親、ヴァージー・アーサーさんにご挨拶頂きます。
ヴァージー: ヴァージーでいいわ。アンナの母親、ヴァージーです。こんな所にはほんとうは出てきたくないんだけど、うそ、いつわり、憎しみ、すべての負の感情の代名詞にされ、実像が歪められ、汚されて、悪女にされてしまった娘の名誉を回復するには、あたしが頑張って語るしかない、って思うの。そうでしょ。喪った娘のために、あたしは残りの生涯を捧げるの。日本にもいるんでしょ、そういう母親。どこだかの国に連れ去られて、娘を取り戻すために頑張っている母親が。あたしもそのひとの気持ち、すごくよくわかる。だって、あの娘の良さを一番よくわかっているのはあたしなんだもの。あたししかいないんだもの…。
司会: えーヴァージーさんは、今回のオペラ化にあたり、作曲者のマーク=アンソニー・タネジさん、およびー台本作家のリチャード・トーマスさんに、いろいろと条件を出されたと伺っておりますので、えーそのあたりのお話しをお伺いできればとおもうのですが。
ヴァージー: ほんとうは、オペラにされるのだって気が進まなかったの。娘がただの笑いものにされるようなものだったら、絶対許可を与えなかったと思うわ。でも、運命に翻弄され、傷ついたひとりの女の生涯を描き、その思いをこの世にとどめたい、記憶に残るものにしたい、っていうから、許可したの。だから、本当にあったことだけを描いてちょうだい。変な脚色は絶対なし、っていう条件を出したのよ。まあ、それでも、できた作品はちょっと細かすぎると思ってるの。そもそも舞台にあたしをださなくても良かったわ…。
司会: えーたとえば、どのあたりがー細かすぎるのかと。
ヴァージー: あたし、アンナの色恋沙汰の話とか、豊胸手術とか、結婚の顛末とか、そういうセンセーショナルなところがすごく取り上げられるんだと思っていたの。もちろん取り上げられてはいたけど。そしたら、本当に生い立ちから順番にはじめるのね。だって、あたしたちの故郷、マヘイアまで出てくるとは思わなかったわ。そう、「メキシア Mexia」って綴るんだけど、テキサス方言ではマヘイアって発音するの。なんでって言われても困るわ。
司会: えーここでアンナさんの内縁の夫としてご高名な弁護士、ハワード・K・スターンさんが到着されました。
ヴァージー: (小声で)スペシャル・ゲストってアイツだったんだ。なんであたしと同席させるかな…。
スターン: どうもどうも、遅れてすみません。スターンです。お母さん、あのエピソードはアンナの人柄を描くためには必要なんですよ。頭は良くないかもしれないけど、純朴でひとを本当の意味で人を疑うことを知らない、聖女のようなアンナを描くためにはね。
ヴァージー: 知ったこっちゃないわ。「頭悪い」って、身内の恥をさらされているようで気分が悪い。大体、あんた、あたしの前に顔を出さないで、って言ってるじゃない。
スターン: お母さん、こんな公の場でそんなことを言わないでくださいよ。内縁とはいえ、一度はアンナと結婚の誓いを交わした仲なんですから。
ヴァージー: うるさい!馴れ馴れしくしないでちょうだい。そもそも生まれた娘はDNA鑑定で、あんたの子供じゃなかった、っていうじゃないか。娘ダニーリンの実の父親にはスターンを含む三人の男性が名乗りを挙げました。2007年に行われたDNA鑑定の結果、ラリー・バークヘッドが父親である可能性がほぼ100%と判断されています。オペラ本編にこの人が登場しないのは、いろいろと大人の事情があるのでしょうかね。の面下げてあたしのまえに顔をさらしてるのさ!
スターン: まあまあお母さん…。
ヴァージー: お母さんって呼ぶな!司会: あーヴァージーさん、お話しを先に進めていただいてもーよろしいですか…。
ヴァージー: あ、あら、ゴメンナサイ…。ええ、この男が出てきてちょっと取り乱してしまいましたわ…。とにかく、フライドチキンの店でバイトしたときに最初の旦那と結婚して、子供産まれて、すぐに離婚して、ウォールマートでバイトして、ストリップ劇場で働いて…、って、前半生はほとんどしっかりなぞられてる。ここまでアンナの生い立ちを描いて、誰が面白いのかしら、って、正直思ったのは事実よ。
スターン: それも、いわゆる「アメリカン・ドリーム」を描くためには必要なんですよ、お母さん。これ以上ないほどの玉の輿に乗ったアンナのサクセス・ストーリーを効果的に演出するには、それ以前の生活をできるだけ貧相に、哀れに、みじめっぽく描くほうがいいんです。
ヴァージー: 何をしたり顔に…。まだお母さんって言ってるし…。
スターン: (徐々に興奮し、超早口で)高校中退のアンナにとって、小さな息子を育てるための生活資金を稼ぐためには、ストリッパーになるしか道はなかった。アンナの豊胸手術だって、ストリップ劇場で働くという環境から考えれば、アンナにはほとんど選択の余地はなかったはずですよ。もっとも、舞台で歌っているエファ=マリア・ウェストブロークさんは、まるでアンナに生き写しなルックスですし、胸のボリュームもそりゃあすごいもんで…。舞台ではさらに強調しなくてはなりませんから、そのうえさらに大きな胸パットを入れていたようです。その胸パットのために、アンナを歌ったウェストブロークは、Independent紙のインタヴューでこんなことを言っていますよ。「一生のうちに、こんなに友達がいたことなんてないわ。みんな私に抱きつきたがるのよ。」って。 その必要なかったと思うんですけどね…。
ヴァージー: でも、あの娘は、その胸と引き換えに、持病の腰痛を患い、一生涯薬を飲み続けなくてはならなくなった。薬を飲む、ということに抵抗感がなくなって、手を出してはいけない薬にも手を出した。アンナはもともと意志が強くないから、勧められるままにそういうものに手を出してしまうのよ…。(スターンに、ドスの利いた声で)あんたも唆したんでしょ。
スターン: え、そ、そんなこと、あるわけがない。はははははは。むしろ止めた方ですよ。ま、まあ、その胸のおかげで、かの石油王、J・ハワード・マーシャルに巡り会い、結婚することができたんですから、まさにアメリカン・ドリーム・バストですよ!
ヴァージー: あたしは、アンナがあのよぼよぼの老人と結婚すると聞いた時、心臓が止まるかと思ったわよ!よりによって、あんな年寄りと!大金持ちとかどうでもいいわ。あたしはアンナにそんな教育をしたつもりなんかないってのに!
スターン: (小声で)まあそういう教育の成果だったんでしょうね…。
ヴァージー: (記者たちに向かい、机をバンバン叩きながら)あたしには全部わかってたのよ。きっとこの老人は3年も経たないうちにすぐに死ぬ。家族はきっとアンナのことを良くは思わない。遺産相続でアンナを外そうとして、揉めにもめるはずだから、そんな危険なところには近づいちゃダメって、口を酸っぱくして言ったんだけど、あの子は聞いてくれなかった。それにしても、結婚して1年ちょっとで死んじゃうなんて、あの老人も罪作りよ。アンナを弄んだのよ。あの娘、本当にあの老人を愛していたのかしら。本当のところはあたしにもわからない。
スターン: アンナはあまり、自我というものがない女だったかもしれませんね。一見気が強そうに見えるけど、その時々の状況で、強いことを言って引っ張る人の方へと流されていく。自分で決断しているように見えても、実は人が決めたことに従っているだけだったりする。
ヴァージー: あんたもそうやってアンナを引きずり回したくせに。そう、リチャードとマーク=アンソニーは、その点を描くに当たっては、情け容赦なかったわね。第1幕は徹底したサクセス・ストーリー。第2幕は徹底した転落の物語。第1幕で盛り上がるだけ盛り上げておいて、転落の人生を綴る第2幕を見るのは辛かったわ…ラリー・キング日本人にはあまり馴染みがないかもしれませんが、CNNで25年間、自分の名前を冠したトークショー番組「ラリー・キング・ライブ」を持ち続けていた超有名人です(2010年に終了)。日本で言うならば、久米宏とか、みのもんたとか。のトークショーでは、あんたも含めていいようにおもちゃにされるし。孫のダニエルが死ぬ下りなんか、未だに観られないもの。
スターン: 彼らも言うとおり、本当のことですからね。波瀾万丈の人生を歩んだひとは、それだけでオペラになってしまう、ということなんでしょうか。
ヴァージー: わかったようなこと言っちゃって…。大物ぶって何様のつもりかしら…。
司会: えーそれではここで、ご出席のみなさまのご質問を受け付けたいと思います。
記者: ○○新聞です。この題材をオペラ化するにあたって、お二人が音楽面で注文をつけたことはあったのでしょうか。
ヴァージー: 音楽?あたしには音楽はわかんないから、特に何も言わなかったわよ。でも、あんまりヒャーとかドシャーンとか、あたしが聞いて訳わかんないような音楽にするのはやめてちょうだい、ってお願いだけはしたわ。お蔭で、アップビートな曲が多くて楽しめた。第2幕のはじめで、レッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズと、ウェザー・リポートのピーター・アースキンが出てきたときはテンションあがったわねー。
スターン: ルーズ・チューブのジョン・パリチェリはあまりお気に召しませんでしたか、お母さん。ぼくが好きなナンバーは、豊胸手術が終わった後でアンナが自分の希望と愛を歌う 「祈っていい 夢見ていい 望んでいい 挑んでいい」”You can pray, you can dream, you can wish, you can try.”ですねえ。あれこそアメリカン・ドリームを目指すすべての人に捧げるべき、最高の歌ですよ。スターンはあまり気がついていないようなので補足しておくと、このナンバー、曲のあちこちで、まるでライトモティーフのように繰り返されます。もちろん、オペラの終結部に近づけば近づくほど、皮肉に満ちた、そして哀愁を帯びたナンバーとなっていくのが、タネジの情け容赦のないところかもしれませんが。あれを聴くたびにこう、胸が締め付けられる思いがしますねえ。
司会: えーあーすみません、実はもう文字数が超過、じゃなかった、予定されていた時間が過ぎようとしているので、最後に一言、お二人にまとめて頂きたいのですが。
ヴァージー: 正直、皆さんにこのオペラを観て頂きたい気持ちもありますし、身内の恥をさらすような気もしますし、思いはいつも複雑です。でも、これによって、アンナというひとりの人間がどう生きて、どう死んだか、皆さんの記憶に残るようならば、これ以上の喜びはありません。
スターン: お母さん、さすがいいことを仰る。ぼくもいまだに、アンナに必要以上の薬を飲ませたんじゃないかみたいに疑われ、裁判に引きずり出され、悪の権化みたいに言われている。もう慣れましたけどね。このオペラだって、ぼくをどちらかと言えば揶揄して描いている。ぼくは大人だから、怒ったりはしませんよ。でも、ぼくの心境だって、皆さんが思っているほど単純じゃないことは知ってほしいですね。ぼくだって、人並みに、一人の人間として、アンナを愛し、アンナの死を悲しんでいることは知ってほしいな。
ヴァージー: ふん、どこまで偽善者なんだか…。
スターン: (突然ブチ切れる) おいてめえ、いままで黙って聞いて、おまえをたててやったが、どこまで人をあしざまに言えば気がすむんだ、表出ろ。
ヴァージー: 望むところよ、今日こそ決着を付けてやろうじゃないの!
二人、連れだって会見場を後にする
司会: (やれやれ、ああ見えてあの二人、いがみ合っている割には、いつもああやって一緒にいるよなあ。結局同類相哀れむ、いやよいやよも好きのうち、「決着」ってなにをするつもりなんだか…)あっ、こ、これで会見を終わります!
皆さま、あくまでフィクションですからね。
第12回・了
タネジ:歌劇《アンナ・ニコル》 コヴェント・ガーデン王立歌劇場2011【輸入盤】
コンヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤル・オペラ・ハウス)の委嘱作品として2011年2月17日に世界初演され、ロンドン中の話題をさらった大注目の新作オペラ、マーク=アンソニー・タネジ作曲、リチャード・トマス台本の《アンナ・ニコル》が早くもDVD&ブルーレイで登場。豊胸手術による巨乳で知られたPLAYBOY誌の元モデル、大富豪と結婚するも、薬物の過剰摂取により突然死した実在のアンナ・ニコル・スミスの物語を、キッチュにシニカルに歌い上げた痛快作!
ジャズ風に味付けされた音楽と、ウェストブロークの鮮烈な演技、ジェラルド・フィンリーの巧みにして不気味な歌いっぷり、パワー全開のパッパーノの指揮で、瞬く間に見るものをアンナ・ニコル・ワールドへと連れ去る、極上のエンターテイメント・オペラ。
http://columbia.jp/annanicole/
2011年2月26日 コヴェント・ガーデン王立劇場