タイムズ・スクエア (N.Y)
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2000年のある日、シンガーを夢見て暮らしていた楠野紋子のもとに、一本の国際電話が入った。
「一緒にセッションしよう!」
声の主は、インコグニートのジャンポール・ブルーイ・モーニック、その人だった。 それより数ヶ月前、楠野は単身NYを訪れている。「ちゃんとした社会人として歌手を目指すため、精一杯努力して行こうと思った」大学に合格したにもかかわらず、「やはりショービズの中心地で何かを実感したい」と知己のつてを頼りに飛び出したのだ。
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インコグニートとのセッションをやった スタジオの入り口
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ユニオン・スクエアのフラットに住み、むさぼるようにライブを見続けた3ヶ月、楠野は言語を越えて人々をつなぐ音楽の魔力に魅せられる。そんな彼女のNY生活の最後に強烈に心を動かされたライブ。それがインコグニートだった。「この人たちに曲を書いてもらえないかな」と、常人なら夢のまた夢として思いつきもしない言葉を、楠野はステージに憧れの視線を送りながら無邪気につぶやいていた。
その気持ちが導いたのか、帰国後、インコグニートが日本人とセッションしたがっているという情報をいち早くキャッチ。そして躊躇なく彼らのもとにデモ・テープを送る。その大胆な行動が、冒頭紹介したウソのようなホントの話を生んだわけだ。それはまさに、音楽の魔力を信じた楠野紋子が「つながった!」と実感した出来事だったに違いない。
小さい頃から歌が好きな子だった。いや、好きなだけでなく、その歌声がコンテスト番組などで評判となり、美空ひばりの追悼ドラマでは幼少期の役に抜擢されたこともある。しかし、思春期にポップ・ソングに目覚めると、その栄光は逆に大きなコンプレックスとなり、過去のキャリアを一切口にしないという複雑な経過もたどった。大学入試を頑張ったのは、歌以外の何かにあえて心血を注ぎ、それでも歌なのか?と自分に決断を迫るためだったのかもしれない。 |
LONDONで借りていた部屋のキッチン
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LONDONのスタジオでの作業風景
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インコグニートの誘いでロンドンに行った彼女は、5ヶ月間毎日のようにスタジオに通った。家族のように接してくれるメンバーとのセッションの中で「音楽を生みだす根元のようなものを見て、また感じたまま表現することの大事さを知ることができた」という。生涯忘れられない貴重な体験になったことだろう。楠野紋子にはギフトとしての歌声がある。だからこそ歌を巡っての葛藤も多かったはず。デビュー・マキシ「Try Again」には、そんな彼女の歴史と意志が確かに息づいている。「歌とつながりたい。歌を通して人とつながりたい」と別れ際に楠野が言った言葉が、切実さをもって凛と耳を叩いた。
'02年1月21日 藤井美保 |
スタジオ街なのだ!!
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