[ディスク案内 No.02] 佐村河内守の交響曲第1番を楽しむ50の方法

この一枚

2011年7月のリリース以来、クラシックとしては異例の17万枚の売上げを記録し、今なお売れ続けているという佐村河内守の交響曲第1番のディスクを、今更ですが私も聴きました。そう、言わずと知れた大友直人指揮東京交響楽団が演奏した、日本コロムビアの世界初録音盤。

先日テレビで作曲家のドキュメンタリーが立て続けに放送されて大反響を巻き起こし、何度目かのブレイクをしている最中に私がこのCDを買った理由は、その番組を見たからではなく、部分的にはCDショップで聴いて知っていた交響曲を、全部ちゃんと聴いてみて自分が何を思うかにとても興味があったからにほかなりません。

まず、全曲を聴いてみての感想は「素直にいい曲」ということに尽きます。マーラーやショスタコーヴィチ、ベルクの音楽からの強い影響を指摘することも可能な、明確な調性をもった後期ロマン派風の大交響曲。強烈な不協和音が鳴り、激しい葛藤を表現する場面もありますが、全体的には、甘美な旋律と豊かな響きに満たされた、オーケストラを聴く醍醐味を感じさせてくれる音楽で、まったく抗し難い魅力をもっています。そして、厳格な音楽理論や、既存の形式に拘らない自由な展開をもった音楽は、聴く側がどんなイメージやストーリーを抱きながら聴いても許容してくれそうで、普段、クラシック音楽に興味のない人たち、例えばモーツァルトの交響曲ほどの長さの曲でも退屈して寝落ちしてしまいそうな人たちが、この長大な曲を聴いて涙を流して感動しているのもなるほどと思える。

でも、「素直にいい曲」なのです。「素直に」なんて書いているということは、つまり、手放しに「いい曲」とは思えない、ということです。もう少し具体的に言うと、大きく2つの違和感がある。

まず、私には、この交響曲は、ただ苦しみや悲しみに耐え忍ぶだけの人が書いた音楽に思えるのです。いや、正確に言うと、耐え忍ぶことしか許されていない人の音楽。この曲を賛美する人たちの中には、厳しい現実を描写した壮絶な音楽ととらえる人もいるようですが、私にはそうは聴こえない。ただひたすら作曲者の内面で鳴り響くものが音楽になっているのであって、絶え間ない苦しみに呻き、痛みに身を捩り、ままならぬ体を横たえ、ただ救済の時を夢見るしかないという閉塞した絶望に塗りつぶされてしまった音楽だと思える。副題になっている広島の原爆投下という悲劇への思いは、作曲家自身の激しい耳鳴りや苦痛の中にいつしか溶解してしまい、結局すべてはとてもパーソナルな悲劇へと収斂してしまっている。最後の最後に希望を感じさせるような輝かしく壮麗な響きが鳴り渡るけれど、それとて、私にはほとんど「雨乞い」のような受動的で弱々しい祈りの音楽として聴こえてくる。(この交響曲は東日本大震災前に書かれているので、実は福島は直接は無関係であり、「希望のシンフォニー」という渾名も、震災後に誰かがそう言い出しただけで、作曲者本人の預かり知らぬことらしい。)

私の最初の違和感はまずここにある。絶望の闇にうずくまり希望の光が射し込んでくるのを待つかのような祈りの響きには、とても強烈で危険な誘惑がある。この交響曲でとても印象的な場面、例えば木管の奏でる荘重なコラールや、弦楽器が綿々と歌い上げる美しい歌(特に第2楽章前半)が鳴り響くところは、甘い音楽に目のない私には余りにも魅力的に響くのですが、激しく心を動かされつつも「ちょっと待てよ」と思ってしまうのです。ひたすら聴く者の情緒に訴えかける甘美な響きに身を浸し、作曲者の心のうちにある弱々しさに過度に共感し、全身を覆っていたはずの苦痛がカタルシスを孕んだ陶酔へと転化していく法悦に貫かれそうになると、私の心が全力で抵抗する。思わず「違う!」と叫びたくなるのです。

私は、広島の原爆という「悲劇」は、人類が自ら生んだ人為的な「悲劇」であり、それを「不可避なもの」として受け容れ、そのままの位置で、そのままの姿勢でただ祈ってしまうことは消極的な諦めであり、誤りだと思っている。私たち日本人が原爆投下を「しかたなかった」と言ってしまって良いのでしょうか?佐村河内守という人を襲った病魔がもしも原爆と関係があるとしたら尚更のこと、歴史上の誤ちを正しく認識して責任の所在を明らかにし、理不尽な仕打ちに対してはちゃんと怒り、全力で抗わなければならない。ならば、聴き手である私がすべきことは、ただ音楽に感動するだけでなく、こんな音楽を生んだ悲劇を二度と繰り返さないためには何をしなければならないかを考えることなのではないかと思うのです。だから、手放しにこの交響曲の響きに浸りきって、「今は苦しくとも、祈っていればいつか希望の日がやってくる。だから耐えよう。」というような言葉を口にすることは私にはできない。それは、私の想像を超えた壮絶な苦痛と闘わざるを得ない作曲者にしか許されないはず。この曲とは直接関係のない福島の原発事故についても同じようなことが言えるかもしれません。ともかく、私という人間は、今のところは人生に絶望せざるを得ないような局面にはない、だから「そのままでいいよ、戦わなくていいんだよ。」と優しく言われてしまうと違和感を覚え、反発してしまうということなのでしょう。

ただ、これは私にとっては、容易に折り合いのつけられる違和感でもあります。身体的ハンディを抱えてしまった佐村河内守という人が、理不尽に強いられる不幸に対する体制批判やら社会告発というような怒りとか闘争心を表に出さず、祈りの音楽を書くのは当然のことだと理解できるから。いったんそう認めてしまえば、別の視点から音楽を眺めることで、自分の中の違和感とうまく共存しながら、「素直にいい曲」という気持ちにまっすぐ目を向けられます。

でも、そんな違和感を乗り越えて「いい曲だなあ」と思って聴いていても、また別の違和感が湧いてくる。このとてもわかりやすい売れ筋の音楽を「いい曲だなあ」と言ってしまう自分を、何となく恥ずかしく感じてしまうことへの違和感。とても厄介な違和感。

どういうことか。CDを購入して聴く前に見た、CDショップのHPのユーザーレビューや一部のブログ、そしてテレビ番組の予告などでのたくさんの熱狂的な賛辞を思い出し、「この人たちはもしかしてとてもナイーヴな人たちなのではないだろうか」と冷笑的に見ていた自分を思い出して胸が痛むのです。そう、ナイーヴというのは、繊細なという意味ではなく、「うぶでだまされやすい」という言葉本来の意味で、自分はそんなにナイーヴな聴き手じゃないぞ、初心者じゃないぞ、小学低学年から40年近くクラシックを聴き続けてきたベテランのファンだぞ、マーラーやショスタコ好きが喜びそうな初心者向けの曲じゃあ満足しないぞ…、なんて、まだちゃんと聴いてもいないのに、そんなことを考えながら、この曲をとりまく言説に接していたのです。

ああ、私は何と狭量な聴き手なのでしょうか。しかも、いざ実際にちゃんと聴いてみると、これが「いい曲」なのです。さっき書いたような違和感を覚えつつも、聴きながら鳥肌が立っていたりする。そうしてオーケストラの響きに体がフィジカルに反応してしまうことを恥ずかしいと思う自分を、これまた恥ずかしいと感じる。ましてや、その自分の素直な感想を表明することに恥ずかしさを覚えている自分がまた恥ずかしい、という、とってもねじれた状態になってしまった。

ああ、実にめんどくさい、厨二病的自意識過剰。もしかしたら、自分は、辛口で売っているプロの音楽評論家だとか、実に沸点の低い口うるさいクラヲタさんたちのように、一刀両断でこの曲を否定してしまいたかった。その方がかっこいいと実は思っているのかもしれない。ああ、くだらない。本当は自分はそんな人間なんかじゃなく、やっぱりナイーヴな聴き手なのだから、素直になんて言葉をくっつけず、ただ「いい曲」とだけ言えばいいのに…。

と、そのようないささか不毛な逡巡をしているうち、私は、この佐村河内守の交響曲とは、実は最も本質的には、聴いている主体に対して「お前は何者だ?」と厳しく問いかける音楽なのだと思い至りました。聴き手として、人間としての「あなた」は一体どういう人なのか、「あなた」はこの音楽から何を聴きとるのか?「あなた」は音楽に何を求めているのか?という問いです。

なぜそんなことを感じたのかは簡単に説明がつく気がします。佐村河内の音楽が、そうした「あなた」への問いを、自らに厳しく課した末の「答え」としての音楽だからであり、聴き手も同じように自分自身に向き合わざるを得ないからです。聴き手自身を映し出す全身鏡のようでもあり、リトマス試験紙のようでもあり、あるいは人によっては踏み絵にさえなってしまう、そんな音楽なのです。従って、私が感じた2つめの違和感は、とりもなおさず私自身への違和感であり、この交響曲を聴くことで、私の中に潜在していた、たくさんの矛盾を明らかにされてしまったために生じたものにほかならない。つまり、音楽学的観点から見て優れている、よくできている、とか、商業的に成功したとかいった要素を飛び越え、まず第一義的に、聴き手を裸にしてしまい、そのあり方を剥き出しにしてしまう猛烈な力をもった音楽であるというのが、私にとっての真実なのです。

勿論、私がこんなふうに自分と向き合う時間を与えてもらったからと言って、それが他の聴き手にとっても同じように真実であるとは限りません。でも、これまでに見た多くの人たちの感想などを思い起こしても、最終的に賛否どちらに振れるかは別にしても、この曲が聴き手の存在の根っこの部分に何がしかの問いかけを投げかける強い力をもっているのは間違いないように思える。

ならば、この曲を聴いたことのないクラシック音楽ファンが、当初の私のようにヘソを曲げ、食わず嫌いでこの交響曲を遠ざけてしまうのは実にもったいない気がする。いや、遠ざけていたのは私だけ?でも、そうも思えない。だって、私がいるネット空間、特にSNSのタイムラインの中では、この佐村河内守の交響曲は今までほとんど登場してこなかったからです。クラシック音楽に造詣の深い人であればあるほど、結構冷淡という印象がある。

もったいない、この交響曲を肴にいろいろと楽しみを広げられるはずなのに、と私などはとても残念に思う。例えば、詳細かつ冷静なライナーノートで長木誠司さんが言及されているアラン・ペッテションの深刻な交響曲との差異と類似点を考えてみたりするのも一興かもしれない。私自身は、ペッテションよりもむしろ、その旋律の甘美さや響きの分厚さから、最近人気が出てきているイタリアのアルフレッド・カセッラの交響曲たちの方に類似点を多く見出していて、佐村河内の音楽にあるビジュアル的な要素(もともとゲームの音楽で注目された人だし)が、カセッラの映画音楽的な華麗さやドラマティックな展開と共鳴しているように思えて面白い。

あるいは、佐村河内の「わかりやすい」音楽の潮流として、この曲を高く評価している三枝成彰氏や吉松隆氏の音楽ばかりでなく、元ジェネシスのトニー・バンクスやレディオ・ヘッドのジョニー・グリーンウッド、あるいはルーファス・ウェインライトといったポピュラー系ミュージシャンの音楽と並べてみて、今の私たちの時代の音楽を俯瞰してみるのも面白い。勿論、バリバリの現代作曲家と対比してみて、何か共通するものはないのかと探ってみるのも面白い。

あるいは、もっと違う視点から、例えば、この交響曲がコンクールで完全に無視されたという事実から出発して、ハンス・ロットやベルリオーズらの落選作、あるいは「音楽以前」と酷評された武満徹の音楽と重ねてみても何かが見えてくるかもしれない。

というように、クラシックを聴き込んだ人たち、音楽の楽しみをよく知っている人の中から、佐村河内の交響曲をいろんな切り口から聴き、めいめいの中で起こる賛否の正体を考えることで、ブームの最中には出てきようのない、もっと多様な受け取り方、楽しみ方が生まれてくるのではないか。「楽しみ方」なんて言葉を使うと、この曲にまつわる物語なり言説に感動の涙を流している人たちから叱られそうなので、「味わい方」という言葉に置き換えても良いかもしれませんが、いずれにせよ、作曲者自身は、これまでそうした側面から自分の曲が語られることを頑なに拒否していたはずで、もう少し距離を置いたやわらかい聴き方をこそ歓迎してくれるのではないかと思います。

演奏面からも、このディスクの楽しみ方は広がるはず。例えば、大友直人さんという指揮者が、この大規模な曲を堅実にまとめているのは予想通りだったのですが、実は、オケからこんなにエモーショナルで熱い音楽を引き出せる指揮者だったということに今更ながら気づいた。これまで余りにも身近な存在過ぎて、不当に軽く聴いてしまっていたのかもしれない。大友さんは、ちょうど群響のシェフに就任したばかりで、指揮者の成熟を実演で確かめることができるのはとても楽しみなことです。それに、先日のMUSAのリニューアルオープンの演奏会で素晴らしいブルックナーを聴かせてくれた東響の美しい音色、精緻なアンサンブルには耳をそば立てられるものがある。在京のオケには、奏者の名前を全員諳んじていそうな熱狂的な常連ファンがたくさんいて、オケ好きの人たち独特の楽しみ方はいくらでも成り立つ。古典を弾いている時とは全然違う贔屓の団員さんの姿や音に触れる楽しみは大きいはずです。あるいは、アマオケの人たちならば、豊醇なオケの響きを楽しみながら、いつかこれを自分たちも演奏してみたいなんて思うかもしれない。とにかく、この曲はいろんな切り口から楽しむことのできる音楽のはずで、それだけ多くの人を引き寄せるだけの間口の広さをもった音楽だと私は思います。

いつになるかは分かりませんが、日本の「クラシック音楽村」で始まった盛大な「佐村河内祭り」もやがて落ち着くはず。もの珍しさから祭りに参加した一見さんたちも去っていく。その時こそ、踏み散らされた地面を均し、祭りの後片付けをした上で、「クラシック音楽村」の住人の宴が始められるのかもしれない。賛否両論をワイワイと言い合いながら、佐村河内の音楽だけでなく、私たちの音楽への愛情を深め、音楽が生まれる土壌をさらに豊かにし、新しい聴き手を楽しい宴に招き入れて「日本クラシック音楽村」をもっともっと魅力的なものにしていく。そうすれば、「日本クラシック音楽村」が、佐村河内守やフジ子ヘミングのCDや、ベルマンの「巡礼の年」のCDを慌てて買うような「一見さん」たちも、躊躇することなく飛び込んでいけて、かつ、劣等感を感じることなく気楽に抜けることもできるような、楽しげで、でも奥深くて肥沃な「場」ができれば、私たち聴き手自身の手でエキサイティングな新しい動きを生み出すことができるんじゃないだろうか…。

などと、佐村河内の交響曲の内容からは随分と離れ、まったくお花畑な妄想に走り、それを脳天気に書いてしまう私は、やっぱりナイーヴな万年初心者的なのでしょう。でも、ナイーヴな聴き方をして楽しむことが許されるのはアマチュアの特権です。この既得権益は何があろうと死守したい。そのためにも、どんな音楽でも、聴いているときには、うっかりナイーヴな人間に戻ってしまおうと強く思います。


アルバム 2011年7月20日発売

交響曲第1番《HIROSHIMA》
COCQ-84901 ¥2,800+税

★商品紹介ページはこちら>>>

粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。
http://nailsweet.jugem.jp/

[音盤中毒患者のディスク案内] インデックスへ

ページの先頭へ