音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.20

クラシックメールマガジン 2014年12月付

~「それから」と「これから」~最近の新譜から(吉松、福間、スクロヴァチェフスキ)~

早いものでもう12月。あっという間に2014年も終わりです。
この時期になると毎年同じことを思うのですが、今年もいろいろなことがありました。
消費税、集団的自衛権、解散総選挙。STAP細胞。号泣議員。噴火や土砂災害。民族紛争。エボラ出血熱、デング熱。青色LED、私はマララ。オリンピックとW杯。ありのままに。
そして、あのこと。
もうずっと前のことのように思えてしまいますが、あれは今年の2月のことでした。と言っても、私は今ここで、「あのこと」について書くつもりはありません。コロムビアの「それから」について書きたいと思います。
私たち聴き手は、まるで何事もなかったかのように日々を過ごしていますが、コロムビア側は、あれだけ売れていた音盤の売上が完全に消えたのですから、普通に考えていろいろな影響はあるのではないでしょうか。例えば、最近の「レコード芸術」誌では、毎月掲載されていた新譜広告がなかったり、今後の発売予定が一点もアナウンスされなかったりというケースが見受けられるようになりました。きっと広告費削減の一環なのでしょうが、ファンとしてはちょっと気がかりな状況ではあります。
とは言え、今年コロムビアからリリースされた新譜には、魅力的なものがたくさんありました。それは私だけがそう思っているだけではないはずです。例えば、タワーレコードの国内盤の年間売上トップ10には、バッティストーニの「ローマ三部作」、モルゴーアSQの「原子心母の危機」、そして、伊福部昭関連のCDの一つとして広上/東響の「プロメテの火」の3点がランクインしているからです。トップ10入りしたのは、アリス=紗良・オットとトリスターノの「スキャンダル」(ユニバーサル)を除けば、クロスオーバー系、吹奏楽、コンピレーションアルバムですから、クラシック「ど真ん中」の人たちのアルバムとしてはコロムビア勢がほぼ独占。特にバッティストーニのレスピーギは、コンサートゴーアーからもディスクファンからも絶賛された注目のディスクでした。
その他、専属アーティストたちの充実した新譜、デビューアーティストの鮮烈な登場、待ち望まれていた過去音源の復活など、不利な状況の中でも、コロムビアは私たちファンの飢えを癒してくれるような活動を展開していますし、それが商業的にも一定の成功を収めたというのは、お世辞抜きで凄いことなのではないかと思います。
このコーナーでも、今まで取り上げることができなかった新譜がいくつかあります。今月はその中から特に印象に残ったものを数点ご紹介することにします。
まずは、吉松隆の交響曲第6番「鳥と天使たち」。併録の、三村奈々恵の闊達なマリンバと、山形交響楽団のノリの良さが快い興奮を呼び起こすマリンバ協奏曲「バード・リズミクス」も良いのですが、吉松氏の12年ぶりとなる交響曲が印象に残りました。
「空を飛びひたすら歌を囀る自由な鳥と、人間を傍観しながら透明にただ浮遊する天使の絵が描かれた『音のおもちゃ箱』」という宣伝文句そのままの音楽。「左方の鳥」「右方の鳥」と名付けられた両端楽章には、鳥の鳴き声を模したフレーズや、空を飛ぶ鳥の姿を思わせるような音型の上昇や下降がそこかしこに見られますし、第2楽章の「忘れっぽい天使」は、吉松氏がライナーノートで書かれているように「座敷わらし」が出てきそうな懐かしげな雰囲気が美しい。
しかし、この交響曲は、鳥や天使の姿を外側から描いたものではなく、鳥や天使の視点から人間世界を描いた音楽として私には聴こえます。吉松氏の曲に特有の独特の浮遊感を楽しんでいるうち、音楽の紡ぎ手である「私」自身が鳥や天使になりきって人間世界を見ているように思えて、聴き手としての「私」もその視点に同化してしまうからです。そして、地に足がついていないということはこんなにも心地良いことなのか、地上の重力から解放されるとこんなにも地上のことがよく見えるのかというような、きっとこの音楽の本質とはあまり関係ないであろう独善的な感慨に身を浸してしまいます。
この「上から目線」は、私にとって大きな効用があります。心に引っ掛かったままの過去や、今日あった嫌なこと、明日以降の気の重いことを軽々と超えていく自分をイメージできるのです。くたびれた自分をとりあえず脇に置いておいて、イメージの世界の中で軽やかに羽ばたくことができる。私の心を煩わす日々の雑事を「傍観」ではなくて、「達観」できるようなような気持ちになれる。
吉松氏というと、例の騒動の際、ご自身のブログで冷静な意見を述べておられました。吉松氏もある意味当事者だった訳で、関係者へのある種の気遣いはあるに違いないにせよ、ダメなものはダメと厳しく批判した上で、私たちにとって「交響曲」とは「クラシック音楽」とは一体何なのだろうか?という問いを投げかけておられたのが印象的でした。吉松氏が、あの騒動の真っ最中にも、正気を保って忌憚のない意見を述べることができたのは、ご自身がまさに「鳥と天使」の視点をお持ちだからなのだと思います。はるか上空からでも「地上の星」を正確に見つけ出す鳥の目と、人間界の出来事の本質を「達観」できる天使の目を持っておられるということ。
鳥と天使の視点を持つ、「達観」するということは、実は私という聴き手の願望なのかもしれません。「翼を下さい」の歌詞にあるような「哀しみのない自由な空」などは現実にはあり得ず、翼を持つこともできないので、せめてその哀しみを「達観」できるような高い視点を持ちたいという願望。もしかすると、吉松氏が鳥をモチーフにした音楽をたくさん書かれるのも、悪戯っぽいユーモアを音楽に盛り込まれるのも、氏の心の中に私と同じ願望があるからなのではないかと考えると、この交響曲がますます身近なものに感じられます。そんなの勘違いだよと笑われてしまいそうな幼稚な感想ですけれども、いずれにせよ、この「鳥と天使たち」が私にとってのセラピスト的な存在の音楽となっているのは間違いありません。
また、「音のおもちゃ箱」という趣も私にはとても好ましい。ベートーヴェン、チャイコフスキー、シベリウス、ショスタコーヴィチの交響曲第6番や自作「メモ・フローラ」などが引用(ショスタコーヴィチはちょっと分かりにくかったですが確かに第1楽章のモチーフが引用)されているあたりの茶目っ気も楽しいし、時折顔を出すビートの効いたノリのよい音楽は、最近吉松氏がオーケストラ編曲を手掛けたエマーソン・レイク&パーマーの「タルカス」を思わせ、聴いていて胸が躍ります。不思議な魅力をもった、印象深い音楽です。
演奏は、2013年7月に大阪でおこなわれた初演の模様をライヴ収録したもの。飯森範親指揮いずみシンフォニエッタ大阪は、平易で親しみやすい外見とは裏腹に、アマチュアには絶対に演奏できない高度な技術を要求する音楽であるにも関わらず、ライヴとは思えないほどに精度の高い美しいアンサンブルを聴かせていて、この曲の魅力を余すところなく伝えてくれます。特に弦の透明な響きと、木管の生き生きとしたソロは本当に素晴らしい。ナマで聴きたかったという思いがある反面、優秀な録音で聴けて本当に良かったと感謝せずにいられません。新しい魅力的な交響曲の誕生を喜ぶとともに、今後、演奏機会が増えることを希望します。
秋になって発売された福間洸太朗の「火の鳥」と、スクロヴァチェフスキと読売日響のショスタコーヴィチの交響曲第5番ほかの2枚も、他レーベルのものも含め、私が最近聴いたディスクの中では出色のものでした。
特に、凄いらしいと風の噂に聞いていた、福間の弾くアゴスティ編曲によるストラヴィンスキーの「火の鳥」はまさに圧巻の演奏です。「凶悪な踊り」で聴かせる目もくらむような超絶技巧、「子守歌」の甘さに溺れないノーブルな歌い口、「終曲」の壮大な盛り上がり、いずれもフィギュアスケートの難易度のジャンプが鮮やかに決まった時に感じるような「美」を感じさせるもので、まさに鳥肌が立つ思いで聴きました。また、「展覧会の絵」「イスラメイ」といった大曲でも硬質のピアニズムが爽快な快演を聴かせてくれていますが、私としては、その間に挟まれたグリンカやチャイコフスキーの小品にとても胸を打たれました。何度繰り返して聴いても、みずみずしく透明な抒情をたたえた美しい音楽が、しみじみと沁みわたってきます。フランス音楽に造詣の深い彼が、洗練されたセンスでロシア音楽を弾くというのは、フランス語がロシア貴族の公用語であったことを考えれば正当なアプローチですが、それをここまで見事に具現化できるのは彼の音楽家としての卓越した技量あってこそのこと。素晴らしいアルバムだと思います。
90歳を超えてなお矍鑠たる活躍を続けるスクロヴァチェフスキが、かつてシェフを務めた読響と一心同体となってショスタコーヴィチの音楽に肉迫するさまにも胸を打たれずにはいられません。特にテンポ指定など解釈上の議論が今も絶えない終楽章では、その余りにも大胆で激しい表現に腰を抜かすほどに驚いたのですが、現在の巨匠の真骨頂は、むしろ、第3楽章のような静謐な音楽や、カップリングのベルリオーズの「ロミオとジュリエット」の愛の場面で聴かせてくれる慈愛に満ちた音楽にこそあるのかもしれません。いずれも、哀しくなるくらいに純度の高い表現でありながら、同時に血の通ったあたたかさを感じる音楽で、特にベルリオーズは、紋切型の言葉になってしまいますが、もはや崇高とさえ感じるような演奏でした。
こうして時を同じくして発売された福間とスクロヴァチェフスキのディスクを並べて聴いてみると、吉松氏の交響曲で感じたものと同質の「達観」を見出すことができます。彼らが「目先のことや細かなことに迷わされず、真理・道理を悟る(出典:「デジタル大辞泉」)」という姿勢で、音楽に、人間に、そして世界に向き合っているのだということを、彼らの奏でる音楽を通して感じずにいられないのです。その「達観」こそが、「鳥と天使」の視点から人間界を描いたような交響曲や、フランス音楽の視点から見た洗練の極みのようなロシアのピアノ曲の演奏、「証言」という偽書の呪縛から解放された普遍的な地平に立ったショスタコーヴィチの解釈を生みだすのではでしょう。思いを高く、視野を広く持つことの大切さを、音楽を通して実感することができたのは、私にとってとても大きな収穫でした。
こうして印象に残った新譜を思い出すだけでも、今年のコロムビアの新譜からは、いい音楽をたくさん聴かせてもらったという実感にたどり着きます。多くの人から受け容れられるような音楽を創り出すのは容易なことではないし、かと言って、一部の好事家にだけ評価されるようなものだけを閉じて作っていれば良いというご時世でもありませんから、スタッフの方々は、私たち聴き手が思っている以上に大変な苦労をしてディスクを制作されていると想像しますが、こんなにも素晴らしい成果を生み出しておられることに対し、心からの敬意と感謝の意を表したいと思います。
コロムビアの「それから」の次に来る「これから」は、どんなものなのでしょうか。厳しい状況はまだ続くのかもしれませんが、きっとまた心に残るようなディスクを届けて下さることでしょう。今年よく聞いた言葉の中に「好循環」というのがありますが、作り手が心から作りたいと思うものを心をこめて作り、その熱意が聴き手に伝わって音楽が世の中に広がり、その広がりが作り手の創造力をさらに高めて良い音楽がまた作られる、という好循環が生まれることを心から期待したいです。
前述のディスクに関して、聴き手として一つお願いがあります。
吉松氏とスクロヴァチェフスキのCDはコンサートのライヴ録音で、いずれも演奏後には会場の拍手が収録されているのですが、どの曲でも、拍手が起こるより前に一人だけ「ブラボー」と叫ぶ聴衆の声がくっきりと録音されています。いわゆる「フライングブラボー」。コンサート会場でこれに遭遇して美しい音楽の余韻がかき消されてしまうと、とても哀しい気持ちになるのですが、繰り返し聴くことを前提としたディスクの場合は、哀しさが増幅されてしまいます。なるべく寛容な聴き手でいたいとは常々思っているのですが、美感を欠いた叫び声を耳にすると、該当箇所をマスキングする、最後の音だけリハーサルの録音で差し替える、など何らかの処置をして頂きたかったという思いにかられてしまいます。今後もライヴ録音の占める割合は増えていくと思われますので、そのへんのところは是非とも一考をお願いしたいところです。
長くなってしまいました。そろそろこのへんで今年はお開きと致します。
皆様、この一年、本コーナーをお読み頂き、どうもありがとうございました。
どうかお体に気をつけて、良いお年をお迎えください。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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