音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.71

クラシックメールマガジン 2019年6月付

~「宇宙戦艦ヤマト」と書いて「愛と平和」と読む ~ 羽田/交響曲「宇宙戦艦ヤマト」 大友直人/東響ほか~

いわゆる「ヤマト・ガンダム世代」に属する私ですが、「宇宙戦艦ヤマト」も「機動戦士ガンダム」も、テレビ・映画共にちゃんと見たことがありません。周囲は熱狂していましたが、なぜか関心を持てず、どんなストーリーなのかも知らぬままボーッと生きてきました。
そんな超「ヤマト」音痴の私が、最近リリースされた羽田健太郎作曲の交響曲「宇宙戦艦ヤマト」を聴いたのは、コロムビアのメールマガジン4月号に掲載された熱っぽい宣伝コメントに惹きこまれてしまったからです。
どうやら凄い交響曲らしい。1984年、宮川泰と羽田が書いた「ヤマト」シリーズのための音楽を素材として作られ、通常のオーケストラに、ピアノとヴァイオリンの独奏、ソプラノ独唱を加えた演奏時間55分を要する大曲。単なるBGMではなく、羽田のオリジナリティが詰まった作品とあります。
しかも、演奏はこの曲の初演者である大友直人が指揮する東京交響楽団。ソリストに大谷康子(ヴァイオリン)、横山幸雄(ピアノ)、小林沙羅(ソプラノ)という豪華な顔ぶれを迎えて2018年8月に開かれた演奏会でのライヴ録音で、熱のこもった演奏に熱烈な拍手が起き、涙する人が続出したとも。
私以上に「ヤマト」を知らないはずの若いプロデューサー氏が、仕事であることを忘れたかの如くこの交響曲に入れ込んでいる。その様子が文章からひしひしと感じられました。プロフェッショナルをそこまで魅了する力をもった音楽なら、私が聴いても楽しめるのではと思い、早速音盤を購入しました。
聴いてみて驚き、そして感動しました。
確かに、これは見紛うことなき堂々たる交響曲です。フィナーレこそ、ヴァイオリンとピアノのソロを加えた自由な形式によるドッペル・コンチェルトになっていますが、序奏をもったソナタ形式、スケルツォ、アダージョと、伝統的な交響曲の形式に則って書かれている。
元々交響曲で使われることを想定せずに書かれたテーマやモチーフは、明快で見通しの良いシンフォニックなフォルムのなかで新しい生命を得て、なんと生き生きと振る舞っていることでしょうか。そして、互いに関連の薄いはずの素材たちは、まるで最初から赤い糸で結ばれていたかのように緊密に絡み合って音のオブジェを築いている。これを交響曲と呼ばずして何と呼べば良いでしょうか。
オーケストレーションもセオリーに忠実かつゴージャスなもので、大編成のオーケストラを聴く醍醐味ここに極まるといったところ。
既存の型をなぞった無難な音楽だという見方も成立するのかもしれませんが、ここは、「型にはまる」ことなく、「ヤマト」の音楽をきちんと「型にはめた」羽田健太郎の腕前の確かさをこそ褒め称えるべきでしょう。
とはいえ、この曲が交響曲として成立していること以上に、SFアニメから生まれたという背景とは裏腹に、ひどく人間臭くて、あたたかい血の通った音楽である点が、私の胸を強く打ちました。
まず、この交響曲の宮川が書いた旋律からも、羽田が肉付けした響きやリズムからも、ドラマに登場する敵の姿や、その敵との戦闘シーンが全然思い浮かばないのです。私が「ヤマト」を知らないだけかもしれませんが、第2楽章スケルツォ主部のスパニッシュ・テイスト満載の音楽は、戦闘シーンで使うには余りにも牧歌的で、憎めない善良さがあるように思えます。
その他、同じ第2楽章には「悪」を象徴するようなモチーフが一瞬出てくるし、第4楽章には、チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」の引用と思しき闘争的なパッセージもある。勿論、あの勇壮な主題歌も、両端楽章で重要な役割を果たしている。
でも、そのような場面でさえ、音楽が邪悪な響きを帯びたり、「宇宙戦争」を描写したような一大スペクタクルになったりすることはないのです。宇宙戦艦とその乗組員が勇猛果敢に闘う音の戦記にもなっていなければ、自己犠牲による救済をテーマとしたワーグナー的な陶酔に寄りかかることもない。原作がたびたび批判されたような好戦的、戦争肯定的な不穏さはどこにもありません。
このどこまでも人間臭い音楽の道筋を辿っていると、「ヤマト」への知識が圧倒的に乏しい私が、恐れ知らずのことを言ってしまえば、この交響曲「宇宙戦艦ヤマト」の核心となるテーマは「愛」なのではないかと思えてしまいます。もっと安っぽいことを言うと「愛は地球を救う」ではないかとさえ。
象徴的なのは、第1楽章、序奏に続いて提示された主題歌のメロディが、重厚なメカを表現したというショスタコーヴィチ的パッセージを原動力にして闘争的な展開を見せはするものの、やがて女性的な美しさをもった第2主題の「イスカンダルのテーマ」に優しく包み込まれるところでしょうか。
ディスクのライナーノートに掲載された羽田健太郎自身の解説文が、私の仮説を裏付けてくれているので引用します。
人は何故争うのか。どうして相手を理解できないのか。木々は緑、小鳥達は唄い、草花はその美しさを競い合う。水は豊かに空は青く、そのどこまでも限りない平和のコーラスになぜ共鳴できないのか。そんな思いを込めてこの楽章(筆者注:第3楽章)を書きました。
(筆者注:第4楽章の)最後は全員一人一人の愛と平和に対する思いを一丸としつつ、協力してユートピアを築き上げようではないかという処で雄々しく、荘厳にこの交響曲は終結を迎えます。
ライナーノートより
闘う相手は人間じゃなくて異星からの侵略者のはずですが、羽田の熱烈な言葉は、この交響曲を貫く想念、つまり、人間同士の「愛」と「平和」、英語で言えば「ラヴ・アンド・ピース」に満ちたユートピアへのやみがたい憧れをよく表しているような気がします。
そんな聴き方をしている私ですから、第2楽章のトリオと、第3楽章全体の優しい音楽がことのほか心に響くのですが、これらの部分を聴いていると、とある作曲家のことを思い浮かべずにいられません。
その人の名はアントン・ブルックナー。
例えば、第2楽章のトリオ。中低弦が刻むシンコペーションのリズムに乗って、ヴァイオリンが仄かな官能を秘めた優しい旋律を静かに歌う。弦楽合奏の各声部が絡み合い、管楽器のロングトーンがそれを包み込むうち、ハーモニーは厚みと重量感を増していく。
時折、息の長いクレッシェンドから突如音量を落として段差を作ったり、印象的な転調を挿んで局面を大きく変えたりしながら、音楽は広がりを見せていく。そして、このシーケンスをブロック状に積み重なり、ひそやかな祈りは一つ一つ階段を登りながら法悦を帯びた響きへ転化する。
このように展開していく音楽を、ブルックナーの交響曲(特に第8番の第1楽章の第2主題や同曲の第3楽章アダージョ冒頭、あるいは弦楽五重奏曲第3楽章)を連想せずに聴くことは私にはとても難しい。
第3楽章アダージョの冒頭部分も同様です。内声部の充実したハーモニーを軸に生み出される響きの広がりと官能性は、ブルックナーの交響曲の緩徐楽章を連想させずにいません。
他にも、第1楽章のクライマックスの金管の空五度の響きと弦の分散和音の音型は、ブルックナーの交響曲第9番の第1楽章のクライマックスに通ずる気がするし、第2楽章スケルツォの主部のたたきつけるリズムもどことなくブルックナーっぽい(ドヴォルザークっぽくもあるのですが)。
しかし、エンターテイナーとしてのイメージの強いハネケンさんと、ブルックナーという交響曲作曲家の名前はどうにも結びつかない。気になって、半信半疑のうちに二人の作曲家の名前を併せてネット検索してみました。そこで私は、彼がブルックナーについて言及した書籍があると知り早速入手して読んでみたのですが、確かにこんな文章がありました。
ドイツ、オーストリア系の作曲家で、いま私が最も好きな作曲家はブルックナーである。(略) その長大な音のうねりのなかに身を委ねると、たちまちその魅力にとりつかれてしまう。無限に思える曲の長さも、いつしか快感に変わってしまうのである。(略) 私もいつか、ブルックナーの交響曲を指揮するのが夢の一つである。
「新・ハネケンの音楽は愉快だ」(2003年プレジデント社刊)
思わず膝を打ちました。他のどの部分よりも深い思いを込めるとき、ブルックナーの緩徐楽章の響きをかすめ、そのフォルムを換骨奪胎したような音楽をさりげなく挿入する。そんなマニアックかつ高度な芸当は、相当にブルックナーが好きで、その語法を完全に理解した人でなければなし得ないはずですが、羽田こそまさにその人だったという訳です。
羽田は亡くなる前、入院先の病室のベッドで、ヘッドフォンでブルックナーのCDを聴きながら、指揮をするような仕草をしていたそうです。心底ブルックナーの音楽が好きだったのでしょう。
彼が交響曲「ヤマト」の楽譜を処分せずに自宅にずっと置いていたのも、自身でこの曲を指揮したいという思いと、いつかブルックナーのような巨大な交響曲を書きたいという夢を抱いていたからなのかもしれません。
しかし、その夢は遂に叶うことなく、演奏会でブルックナーの交響曲を指揮するという夢も果たせぬまま、羽田健太郎は12年前に天国へと旅立ってしまいました。今年で生誕70年であったことを思うと、今更のようにその早すぎる死が惜しまれますが、せめて、彼が遺してくれた交響曲をこうして聴けることの幸せを噛みしめたいと思います。
演奏について。
大友直人のツボを得た指揮は、さすがに、この音楽のどこが面白くて、どこがファンの心をつかむのかを一番よく知っている人のものと言えます。作曲者自身との共同作業と、客席からの反応を背中で感じとって得たものの大きさを思います。
リズムがスクエアなものにならず、常にバウンドがあり、呼吸があって、音楽に生き生きとした脈動を与えているのも素晴らしい。そして、音楽のエネルギーが蓄積から開放へと向かうプロセスを緻密に積み上げ、クライマックスで一気にパワー全開にして凄まじい盛り上がりを作るあたり、体当たり的な熱演を見せるN響との初演時のライヴ盤に比べ、格段にスケールを増した熟達の指揮ぶりです。「ヤマト」の前に演奏されたというモーツァルトの「ジュピター」もさぞかし名演だったことでしょう。
加えるに、東京交響楽団の演奏の何と素晴らしいこと!
シルクのような手触りと、渋い光沢をもった弦楽器の響きの美しさには参ってしまいます。特に前述のブルックナーを彷彿とさせる場面の上質なカンタービレや、第2楽章主部の途中で出てくる無茶振りパッセージを完璧なアンサンブルで弾きこなすあたり、聴いていて鳥肌が立ちます。管楽器も、オーボエやホルンを初めとするソロの巧さや、純度の高いハーモニーの美感には文句のつけようもない。
名匠ジョナサン・ノットと共に演奏技術に磨きをかけ、長足の進歩を見せるオーケストラの勢いと矜持を感じます。
第4楽章では、ピアノとヴァイオリンのソロが、「ヤマト」の中でも特に重要でファンの思い入れが深いという「大いなる愛」の名旋律をバラエティ豊かに奏でますが、大谷、横山の両ソリストの演奏はまさにベテランの至芸と言えます。共に安定した演奏を展開しつつ、時に聴き手の涙を誘うような「泣き」を聴かせ、時に丁々発止のやりとりを見せヒートアップしていくさまを熱っぽく描いています。
横山のピアノは、リリカルな旋律での瑞々しいタッチと、作曲者も羨むに違いない強靭で切れ味鋭い打鍵など聴きどころ満載だし、大谷のよく歌い込んだカンタービレも、惚れ惚れするほど美しい。
第3楽章のスキャットは、これもまた「ヤマト」を代表するメロディなのだそうですが、ソプラノの小林沙羅は、オペラティックに堂々と、しかし自然な佇まいを保ってのびやかに歌い上げています。羽田自身、このスキャットが意味するものは「救い」であり、「罪深き人々に差しのべられる合いの手」だと述べていますが、小林の歌はその言葉への見事な回答と言えるのではないでしょうか。
この演奏会、どうして聴きに行かなかったのかと残念に思いますが、素晴らしい演奏が鮮明な録音で音盤化されたことに心から感謝せずにはいられません。
今、我が国では、ジョージ・オーウェルの小説「1984」で描かれたディストピアが現実化したかのような出来事が毎日のように起きています。
「宇宙戦艦ヤマト」の舞台である2200年代には、アニメで描かれたような人類滅亡の危機が本当に迫るのでしょうか。その頃にはワープが技術的に可能になり、地球の放射能汚染を除去してくれるコスモクリーナーを入手できるのでしょうか。
そして、この交響曲「ヤマト」は聴き継がれているでしょうか。もしかすると、人間ではなくAIが演奏しているかもしれない。
でも、どんな世の中になろうとも、ローマ字で書くと同じであっても、地球を救えるのは「人工知能」ではなく「愛」なんだというロマンは、いつまでも生き残っていてほしいものです。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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