音盤中毒患者のディスク案内

音盤中毒患者のディスク案内 No.97

クラシックメールマガジン 2021年8月付

~正統的ハイブリッド箏曲家LEO ~ In a Landscape LEO(箏)~

若き箏曲家LEOの新盤、「In a Landscape」(COCQ-85523)を聴きました。
収録曲の一つであるジョン・ケージの楽曲名をタイトルに冠した当盤は、彼の通算3枚目のCD。八橋検校の名作「みだれ」や、自ら藤倉大に委嘱した「竜」といった箏のオリジナル曲を始め、ダウランド、バッハから、ドビュッシー、ケージ、ライヒ、坂本龍一に至る幅広いレパートリーに挑戦した意欲作で、彼にとって初めてのクラシック・アルバムです。
この「In a Landscape」は、カルチャーショックとも言うべき聴体験を私に与えてくれました。箏がこれほどまでに魅力的な音色と、どんな曲にも順応できる柔軟さを持ち、無限とも言える可能性を秘めた楽器であるということを、LEOの演奏を通して初めて知ったのです。

■衝撃のダウランド

特に、2曲目に収められたダウランドの「涙のパヴァーヌ」には心底驚きました。17絃箏を加えて多重録音で演奏されていますが、リュートの演奏で聴き慣れた曲が、違和感がないどころか、まるで箏のためのオリジナル曲であるかのように聴こえるのです。
ライナーノートにあるLEO自身の言葉の通り、「リュートと箏は相性がいい」。両者は楽器のつくりこそ違いますが、ともに撥弦楽器であり、倍音構造や音の振動波形が似ているのでしょうか、互いの音色には共通するところがある。だから、箏で弾いたダウランドに違和感がないのは、そんなに不思議なことではありません。
しかし、もしこれをブラインドテストで聴かされたら、私は混乱するでしょう。耳に入って来るのは明らかに箏の音なのに、響きの質、語り口、調律は紛れもないダウランドの音楽だからです。聴き進めるうちに「箏の響きを持つリュートが開発されたのだろうか?」と不安になるに違いない。何も知らない状態でLEOがリュートを爪弾く映像を同時に見せられたら、私は彼をリュート奏者だと勘違いするかもしれません。
最初にこれを聴いたときには、思わず笑いがこみ上げてしまいました。ダウランドは没年とされる1626年、日本に渡ってきて箏曲家として活躍したんじゃないかとか、彼は実は日本人だったんじゃないかとか、馬鹿げた想像をして自分が可笑しくなったからです。
でも、そんな妄想をしてしまうほどに、LEOの演奏は「正統的」なのです。箏の奏法を随所にとり入れつつ、ルネッサンス音楽特有の語法を押さえ、ダウランドの音楽が持つ「メランコリー」を余すところなく表現している。このことだけでも、LEOという音楽家が楽曲のスタイルや語法を正しく把握し、それを音として造型する力を持っていることがよく分かります。

■正統派のバッハ、ドビュッシー

あまりにも衝撃的なダウランドに比べると、バッハの無伴奏弦楽器のための2曲と、ドビュッシーのピアノ曲「塔(パゴダ)」は、「編曲」であることを意識させられます。原曲は弓で弦を擦って音を出すヴァイオリンやチェロ、鍵盤打楽器であるピアノのために書かれた音楽なので当然ですが、聴こえてくる音の動きは耳慣れたものなのに、眼前には見たことのない音の景色が広がっています。
例えば、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番のアルマンドでは、箏独自の奏法(右手で絃をはじいた後、左手で弦を強く押さえて音程を微妙に変える)を使った装飾音や和音など耳慣れない音が聴こえてきます。それに比べれば、無伴奏チェロ組曲第1番のプレリュードの方はストレートに演奏されていますが、低音域が拡張された17絃箏の太い音色は独特で、頂点でスケールを駆け上っていくあたりの音のテンションの高さは新鮮です。
多重録音によるドビュッシーの「塔」(冷水乃栄流編曲、21絃を弾く森梓紗との共演)でも、斬新な響きを聴くことができます。その面白さは言葉で表現しづらいのですが、ピアノの前身であるフォルテピアノとハンガリーの民族楽器ツィンバロン、そしてギターの音を全部ミックスしたような響き、と喩えれば良いでしょうか。左手で微妙に変化させた音程が倍音の余韻と絡み合い、箏の響きが蜃気楼のように揺らぎながら漂うさまも幻想的で、耳と心を奪われます。
しかし、ダウランド同様、クラシックど真ん中の音楽を箏で弾いたがゆえの違和感は皆無で、私にはやはり「正統的」な演奏と聴こえます。フレーズのとり方と呼吸、音の抑揚やイントネーション、アーティキュレーション、音楽の生理に合わせた自然な緩急などクラシック音楽の流儀を押さえ、作曲家が具体的な音として求めるものは万全に表現しているからです。だから、聴後には、バッハとドビュッシーの音楽を確かに聴いたのだという手ごたえと満足感がちゃんと残る。そこがいい。
しかも、それにとどまらず、スティーヴ・ライヒ、ジョン・ケージ、坂本龍一という現代作曲家の作品でも、LEOは箏独自の魅力を随所で発揮させながらも、原曲のもつ味わいはそのままに届けて楽しませてくれています。

■20世紀音楽をアップデートする(ライヒ、坂本、ケージ)

ミニマル・ミュージックの大家ライヒのアルバム「Different Train」に収められた「Electric Counterpoint(第3曲を収録)」。ここでLEOは、13絃、17絃の箏を使い分け、楽譜に書かれたすべてのパートを一人で多重録音しているようです。
ライヒの曲ですから、お約束のように同じパターンの音型が、少しずつ位相をずらして反復されて刻々と変容していきますが、箏の音が生み出すつづれ織りはすっかり和風の装いになっています。
これが実にカッコよくて、ハマっている。徹底的にアナログな楽器だと思っていた箏が、エレクトリック・サウンドの中でこんなにも生き生きと息づくとは想像していませんでした。いや、それどころか、硬質で切れ味鋭く高周波成分の多い箏の音が、ライヒの音楽の面白さを際立たせているとさえ言えます。LEOの「コロンブスの卵」とも言うべき発想に脱帽です。
1996年発表の坂本龍一の「1919」は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのトリオがオリジナルの編成ですが、ここではピアノの角野隼斗(かてぃん)と、チェロの伊藤ハルトシをゲストに迎え、LEOはヴァイオリンパートを箏で弾いています。編曲は篠田大介。
この曲はピアノが提示する「タンタン、タタンタン」というリズムが特徴的(ベートーヴェンが「エグモント」の序曲で、圧政の象徴として引用したスペインの舞踊サラバンドのリズムを想起させます)で、3つの楽器の無窮動の音が、のしかかってくる重圧に抗うように軋みながら前進するスリリングな展開が胸に響きます。
LEOたち3人は、オリジナルよりかなり早いテンポをとって、まさに駆け抜けていきます。同一音型を反復してアグレッシヴにたたみかけるピアノとチェロの掛け合いの中を、特殊奏法を駆使した箏が縫うように絡みつきますが、箏が入ることで、よりソリッドな質感と鮮やかな彩りが加わっているのが印象的。大ブレイク中の角野の鮮やかなピアノと、伊藤の狂気を孕み目の坐ったチェロとともに、LEOはクールな運びの中に火傷しそうなパッションを聴かせていて打たれます。
この2021年版快速「1919」では、坂本が原曲で重ねたレーニンの演説の音声は除外されていますが、革命を叫ぶ政治家の言葉とそれに反応する民衆のコメントが、LINEのタイムラインで怒涛のように流れていく場面を想像しました。25年前に書かれた音楽が、すべてが凄まじいスピードで変化する「いま」においてもリアリティを持って響くものへとアップデートされていると言えるでしょうか。
そして、アルバムのタイトルとなったケージの名曲「In a Landscape」。オリジナルはピアノまたはハープ独奏用の作品ですが、LEOは少年時代からの師であり、長年にわたって邦楽界を牽引してきた沢井一恵との二重奏を聴かせています。
ここでは楽譜の高音パートをLEO、低音パートを沢井が17絃箏を弾いていて、寡黙な対話を静かに綴っています。「一音成仏」という邦楽の理念を体現するかのように、たった一つの音にも複雑なニュアンスを込めて弾く沢井の箏に、LEOが感化されたかのように応えているのが感動的です。
驚くのは、通常8~10分で演奏する曲を沢井とLEOは何と14分をかけ、一つ一つの音を慈しむように奏でていることです。想定外の時間感覚のゆるさと箏独特の音色もあって、空前絶後の「In a Landscape」になっています。
しかし、だからこそと言うべきか、「In a Landscape」という曲は、実はこのような演奏をこそ待ち望んでいたのではないかとさえ思えるほどに、LEOと沢井の二重奏には説得力があります。
最小限にまで切り詰められた音たちが、大きな空間にぽつりぽつりと置かれていく。一つ一つの音はそれぞれ完結していて、たくさんの余白には宇宙の一切があり悠久の時が流れている。LEOと沢井が箏で描いたこの音の風景こそ、鈴木大拙から禅を学ぶなど、東洋思想に強い関心を持っていたケージが作曲時にイメージしたものなのではないかと思えてならないのです。この名曲が、箏という異質な楽器で弾かれることで、ケージという作曲家の音楽的志向がより明確化するようにアップデートされたと言いたくなります。
このように、箏という和楽器を使っても、ダウランドから坂本龍一に至るクラシック曲をここまで「正しく」演奏できるということを、LEOは身をもって示しました。
しかし、彼の本分はあくまで箏曲家です。私のようなクラシック音楽ファンを馴染みのある曲で引きつけた上で、箏のために書かれた2曲をこそ聴いてほしいというのが、彼の本当の願いなのでしょう。

■真の正統への道(藤倉大、八橋検校)

「六段の調」と並ぶ八橋検校の代表作「みだれ」ですが、LEOの演奏は運びがゆったりとしていて、例えば宮城道雄の古い録音に比べ3分ほど演奏時間が長くなっています。途中から速度を早めて緊張度を上げる場面が何度かあるので、緩急の落差が大きいのかもしれません。
しかし、箏初心者の素朴な感想に過ぎないのですが、全体を聴いて最も印象に残るのは、LEOが音そのものと同じくらいに、音と音の間にある余韻を大切にして弾いている点です。そのことは、この「みだれ」の演奏時間の長さにも明確に現れていると考えますが、邦楽における余韻の重要性は多くの人が語ることです。彼はきっと正統的な生田流の箏奏者としての道を着実に歩んでいるのでしょう。
一方、新たな伝統を担う名作を生み出すべく、藤倉大に委嘱して作曲された「竜」は、箏からこんなに面白い音が出せるのだという発見の喜びに満ちあふれた音楽で、ほかの藤倉作品同様、おもちゃ箱をひっくり返したような愉しさがあります。しかも、無尽蔵とも思えるアイディアの数々が発散することなく、音楽の大きなまとまりの中でちゃんと居場所を見つけているところが素晴らしい。
動画サイトにLEOが初演直後にこの曲を弾いた映像がありますが、彼が忙しく動きながら箏の様々な部分をはじき、はたき、叩く姿が確認できます。細かいパッセージでの両手の目まぐるしい動きは超人的で、彼が箏のヴィルトゥオーゾであることを確信させます。
しかし、それ以上に彼の演奏が魅力的なのは、作曲者が音符に込めた「音楽の喜び」が音として明瞭に聴きとれるからです。LEOはインタビューで、箏は決まりごとや制約が多く演奏は大変だが、その分、自分で音楽を作っている実感が得られるのが嬉しいと語っていますが、その実感がどれほど喜びに満ちたものなのか、この「竜」を聴いているだけでも如実に感じとれる気がします。
是非とも実演でLEOの弾く「竜」を聴いてみたいし、他の人がどんな演奏をするのかも興味が湧きます。高度なテクニックを要求する音楽なので箏奏者にとっても挑戦し甲斐があるに違いありませんし、こうして様々な解釈がなされることで、名曲が出来上っていくのですから。
このアルバムで、LEOはクラシックと邦楽の高度なハイブリッド音楽家としての姿を示しました。彼が演奏するクラシック音楽は、西洋音楽を箏の流儀で塗りつぶしたような中途半端なものでは決してありません。邦楽も西洋音楽も生まれたときから等しくそばにあり、どちらも自らのものとして消化した人からしか生まれ得ないような、自然な音楽です。同時に、彼は自らのテリトリーである箏のオリジナル曲でも、箏になじみのない私のような聴き手をも引きつけずにはおかない魅力的な演奏を聴かせてもいる。
こんなふうに、自らのうちに異質な音楽の要素が対立したり矛盾したりすることなく、ハイブリッド的に共存したLEOの演奏を聴いていると、日本古来の音楽が西洋音楽とが高い次元で止揚し、次の段階へと進化しているというたしかな実感を得ることができます。
LEOはそのムーブメントの先頭を切って走っている訳ですが、彼は自らの手で切り開いた道を今後も開拓し続けることでしょう。幾世代にもわたって大切に奏でられてきた箏の音楽の「正統」と、クラシック音楽の「正統」のどちらをも取り込みながら、自らが新しい「正統」を具現化し、次の世代へとつないでいく「伝統」を作っていくに違いありません。
将来、彼が国から叙勲されるような達人となる頃には私はこの世にいないでしょうが、彼が歩む真の正統への歩みを、少しでも長く見続けていたいと思います。そのためにも、できるだけ健康でいたいと願わずにいられません。でも、その前に「制御不能」という言葉が飛び交う私たちの社会を、なんとか協力し合って健康にしていかねばなりません。LEOが箏を制御して自分の音楽を作るのと同じように、とはなかなかいかないでしょうが。
  • 粟野光一(あわの・こういち) プロフィール

    1967年神戸生まれ。妻、娘二人と横浜在住。メーカー勤務の組み込み系ソフトウェア技術者。8歳からクラシック音楽を聴き始めて今日に至るも、万年初心者を自認。ピアノとチェロを少し弾くが、最近は聴く専門。CDショップ、演奏会、本屋、映画館が憩いの場で、聴いた音楽などの感想をブログに書く。ここ数年はシューベルトの音楽にハマっていて、「ひとりシューベルティアーデ」を楽しんでいる。音楽のストライクゾーンをユルユルと広げていくこと、音楽を聴いた自分の状態を言葉にするのが楽しい。

    http://nailsweet.jugem.jp/

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