松山千春は「史上最強のフォークシンガー」である、と私は思う。
千春がデビューして45年間、私は取材を通して数え切れないほど話をさせてもらったが、千春は常に筋が通っていたように思う。そんなシーンが今、私の脳裏のスクリーンには鮮明に蘇っている
1977年、千春のデビュー曲「旅立ち」を聞いたときの印象は、まず声の良さにびっくりした。それとしっとりとした叙情的なメロディーが憂いをたたえていて、ジーンと胸にしみ入ってきた。正直言って、直感で「これはいける」と思った。そこで6月25日に発表される千春のファースト・アルバム「君のために作った歌」、シングル第2弾「かざぐるま」の宣伝用パンフレットに、「とんだ掘り出し者・松山千春」という推薦文を寄せたのだった。
〈(略)松山千春は、とんだ掘り出し者だった。彼のはじめてのソロ・アルバムをじっくり聞いてみて、私はそう思わざるをえなかった。〉
1981年、千春は「長い夜」を大ヒットさせた。それまでの弾き語りフォークからハンドマイクを持ってのロック色豊かなポップな曲に誰もが首を傾けたが、千春は意にかいさなかった。
「『時代をこえて』というアルバムはかなりポップな感じになっている。人はサウンド志向とみるかもしれないが、俺にとってサウンドはオカズでしかない。極端にいえば詞もオカズなわけよ。主食はあくまでハートね。歌はハートなんだ。音楽性を求めてサウンド志向に走るってよくいうけど、俺は違う。俺はあくまで人を対象にしているからね。歌を歌って人に聞かせたい。聞いてもらいたい。たとえ音楽的に未熟でもいい。とにかく聞いてもらいたい。それが俺の歌なんだ。プロだったら、歌いたいから歌う、歌ったら伝えたい。そう思わなくちゃ」
千春のアピールは常に本音だ。いつまで経っても、今でもよぶんな衣を纏う気配はみせない。こんな音楽の原点があるからだ。
千春は昭和30年12月16日に北海道足寄郡足寄町に生まれた。父・明さんが歌謡楽団のバンドマンだったこと。母・美代子さんが民謡好きだったことから千春も歌謡曲は好きでよく歌っていたという。そんな千春が小学校6年生のときに、強烈なフォーク体験をする。
「足寄公民館で岡林信康さんのコンサートがあったんだ。見に行ってびっくりしたね。生コンサート自体が初めてだったし、それまで俺が聞いていた歌謡曲とは異質な、なにか熱いものを感じたね。正直言って、最初は、何だこれ?と思った。どれひとつ聞いても世相を皮肉ってるし、恋愛を歌っても底に人生観のようなものが流れてきた。歌を聞いて自分なりに恋愛や生き方について考えたのは、あれが最初だった」
やがて足寄高校に入ると、今度は加川良の「伝道」という歌に出会う。この歌によって千春はフォークに完全にめざめる。高校1年のときは学園祭に飛び入りで出て、岡林信康の「私たちの望むものは」を歌い、高校2年の夏休みにはアルバイトして5000円のギターを手に入れる。歌で人を感動させることを知ったのもこの時代という。
高校時代の千春はまたバスケットの名手でもあった。
「歌で人を感動させることは、バスケットできれいなシュートを決めて人を感動させることに似ていた」
バスケットとフォークの高校時代。そして高校3年でバスケットをやめてしまうと、あとはフォークにまっしぐら。必然的にオリジナル曲も生まれてきた。後にデビュー曲となる「旅立ち」もそんな中の1曲だった。
「今、俺はこんなことを考えているんだ、って堂々と歌の中で訴えられた。そのときかな、俺自身、歌は俺の最も良い自己表現手段だと認識したのは」
千春の〈歌の原点〉はここにある。それは今も変わっていない。
1979年冬、千春の歌が生まれる〈原風景〉を体感した。
足寄町の千春の実家を後にして、千春と私とカメラマンの3人は、千春の運転で、千春の愛車に乗って一路札幌へと向かっていた。足寄を夕方たったのが運悪く、狩勝峠にさしかかったとき雪が降り出し、その雪は突然吹雪に変わっていた。
狩勝峠の雪は深く路面は凍っていた。ときおり対向車線上に来る大型ダンプカーのために、路上に積もった雪が吹き上げられ視界がさえぎられた。視界がさえぎられるたびに私は一瞬ぎくっとした。そんなことにはひたすら無頓着に千春は車をぶっ飛ばしていた。
「これくらいの雪なら大丈夫よ。もっとひどいとき、俺はいくらでも走っているんだから……。楽勝、楽勝、まあ、俺に命を預けて下さいよ」
そんな千春のジョークに力づけられながらも、私は助手席から身を乗り出して前方を見ていた。視界にダンプカーのライトが入って、ダンプカーが2台過ぎたなと思った。そのとき、突然、視界が雪で真白になりとぎれた。さすがの千春もブレーキを静かにふんで車を停車させた。目の前はただ雪で真白……何も見えなかった。正直言って、「これで終わりか!」と思った。
だが、ほんの数秒後、千春は何事もなかったかのような顔をして、雪路をなんと時速60キロでぶっ飛ばしていた。
「今、こわかったでしょう。死ぬかと思った?でもね、これが北海道の自然なんだよね。俺だって、こわいよ。でも、こわがっていちゃ、何にもできないのが北海道なんだ。足寄から札幌や富良野に出る場合、この峠をわたるしかない。だから、いくらこわくても行かなければならないんだ。それが北海道で生まれた者の宿命なんだ」
そんなことを言いながら、平気で車を飛ばしている千春を見て、こいつはどういう男だ?と思わないではいられなかった。と同時に、千春の歌の真髄がわかったような気がした。
千春の歌には、人生を応援する「人生応援歌」ともいうべき歌が多い。たとえば「大空と大地の中で」「歩き続ける時」など。これらの歌には強さとたくましさがある。やはりこれはきびしい大自然の中を毎日くぐり抜けている男の心情というものだということが、大自然のきびしさに身を置いて、初めて私にはわかった。千春の歌も、話もストレートだ。大自然に直面したとき、ただ考えることは、明日に向かってひたすら突っ走ることだけだ。よけいなことを考えていては、自然の毒牙にいつなんどきやられてしまうともかぎらない。北海道のきびしい大自然をかけ抜けて生きている男だからこそ、人々の胸を打つ「人生応援歌」を千春は歌えるのだ。松山千春の歌は北海道でなければ生まれえない。そのとき、そう思った。
あれから42年という年月が流れようとしている。2枚組CD「弾き語りライブ」を聴いていると、あのときのこんなこと、が走馬灯のように駆けめぐってくる。やはり、松山千春は「とんだ掘り出し者」だったのだ。だからこそ、常に千春は「史上最強のフォークシンガー」として存在し続けているのだ。私はフォークの従軍記者としてこれからも、この目で見、この耳で聴き、この心で感じたことを伝えていくつもりである。
音楽評論家・尚美学園大学副学長 富澤一誠