Borderを越えて!
菅野祐悟君が「交響曲」を書いた!
これは、まさに快挙だ。それにはワケがある。作曲家の仕事が、ふたつに峻別されているからである。この峻別には2種がある。
(1)ポップスとクラシック。
(2)劇伴と純音楽。
今を生きる人間にクラシック(古典)というのも、音楽に純と不純の区別があるのかと思うから純音楽というのも、ともにおかしいと思うが、ここは話を分かりやすくするため、敢えて用いておく。
で、この峻別に従えば菅野君は、ポップスの人であり、劇伴の人だ。そういう人はふつう「交響曲」を書かない。
例外はいる。「道」「太陽がいっぱい」「ゴッドファーザー」などで著名な映画音楽の大家ニーノ・ロータ(1911〜79伊)は「自分は純音楽の人間」と公言し、交響曲もオペラも書いた。交響曲を10曲も書き、他方映画やTV音楽もおびただしく書いてきた不肖僕にも、似たところがあるだろう。しかしこれは、前記の(2)のみに関わる話であり。ポップスの人である菅野君は(1)においても、つまり二重に、例外的存在なのである。
この曲で意識と無意識の境界線を探ったと菅野君は言う。しかし同時にそこに僕は、作曲家の仕事に横たわる峻別の境界線を越えてしまえ!という気概を聞いた。この曲の「The Border」というサブタイトルに、僕はその勢いも感じるのである。
菅野君は、この曲で少しの迷いも衒(←てらとルビ)いも見せない。真っ正直に自分の音楽を展開する。強い筆力、極めて自然な語法、そして見事なオーケストレーションだ。音を精緻にスコアリングしていく作業ではなく、すべてをパソコンで処理する傾向がある世代のなかで実に稀有、というほかはない。
実をいうと、僕は少し羨ましかった。僕は、たとえば大河ドラマの音楽と同じ語法で交響曲を書くことはできないと考えてしまうタイプだから。純音楽(使いたくない言葉だが)においては、クラシック(使いたくない言葉だが)の流れに乗る「現代音楽」の人間だ、という「業(ごう)」から逃れ得ない。だが、菅野君は、自由だ。そののびやかさで、聴く者の心に迫っていく。それをつづけていってほしい。
次、すなわち「第2番」以降が楽しみだ。
池辺晋一郎(作曲家)