宮田大エルガー:チェロ協奏曲/ヴォーン=ウィリアムズ:暗愁のパストラル

DISCOGRAPHY ディスコグラフィ

宮田大

エルガー:チェロ協奏曲/ヴォーン=ウィリアムズ:暗愁のパストラル

[ALBUM] 2019/10/30発売

エルガー:チェロ協奏曲/ヴォーン=ウィリアムズ:暗愁のパストラル

COCQ-85473 ¥3,000+税

エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
Edward Elgar: Cello Concerto in E minor, Op.85
1. 第1楽章 Adagio - Moderato
2. 第2楽章 Lento - Allegro molto
3. 第3楽章 Adagio
4. 第4楽章 Allegro, ma non troppo
5. ヴォーン=ウィリアムズ/マシューズ:暗愁のパストラル
Ralph Vaughan Williams/David Matthews: Dark Pastoral for cello and orchestra

2019年8月25日-26日 City Halls(イギリス/グラスゴー)にて録音
Recorded on 25-26 August, 2019 at City Halls in Glasgow
宮田 大(チェロ) Dai Miyata, cello
トーマス・ダウスゴー(指揮) BCCスコティッシュ交響楽団
Thomas Dausgaard (conductor), BBC Scottish Symphony Orchestra

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初演から100年−英国最高のコンチェルトに新たな呼吸が吹き込まれる
心の奥底を震わせるチェリストが描き出す哀切と希望のエルガー


日本人として初めてロストロポーヴィチ国際コンクールで優勝し、国際的な活動を繰り広げるチェリスト・宮田大。待望の初コンチェルト録音となる今作はグラスゴー(イギリス)にて、名匠トーマス・ダウスゴー指揮・BBCスコティッシュ響との共演で、エルガーのチェロ協奏曲を収録。初演から100年を迎えるチェロ屈指の名曲を、気品と哀切に溢れる、宮田大の圧倒的な演奏で歌い上げる。



-「高貴さ」と、振幅豊かな感情表現とを圧倒的な説得力で両立させた、紛うこと無き新時代の名演と言えるだろう。
(矢澤孝樹/音楽評論)


-宮田大の素晴らしいチェロが崇高な美を思わせる音色で曲の最後を締めくくる。まさにこの曲にふさわしい理想的な名演だと思う。
(デイヴィッド・マシューズ/作曲家)

【ライナーノーツより】
高貴にして感情的(エモーショナル)な挽歌
〜宮田大のエルガー:チェロ協奏曲
矢澤孝樹(音楽評論)

冒頭の数小節で、奏者のその曲へのスタンスや熱量がたちどころに測られてしまう協奏曲がある。言うまでもなく、この盤で宮田大が演奏しているエルガーの《チェロ協奏曲 ホ短調》作品85だ。独奏チェロが一切の伴奏無しで、いきなり聴き手の胸を貫く重音を直球で投げ込むこの冒頭に、いささかでも逡巡や余力を残していたなら、ここから始まる感情の劇は十全に機能しないまま終わってしまう。独奏チェロは、ベートーヴェンの第5交響曲の冒頭主題にも比肩する重み(しかも「感情」の量はより多い)を、ひとりで背負わねばならないのだ。
パブロ・カザルスが「ドヴォルザーク以降に書かれたチェロ協奏曲の最高傑作」と呼んだこのエルガー晩年の傑作にして実質的な「白鳥の歌」(理由は曲目解説で詳述)は、とりわけひとりのチェロ奏者の名と強く結びつけられてきた。ジャクリーヌ・デュ・プレ、28歳にして多発性硬化症のために演奏活動の停止を余儀なくされ、42歳で世を去った悲劇の名チェロ奏者である。弱冠16歳でのプロ・デビューにおける演奏曲目であり、その後の2度の公式録音をはじめ数々の名演によって彼女の代名詞となったのがエルガーのチェロ協奏曲だった。その、楽曲の悲劇性と情念そのものに化身した演奏は、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチに自らのレパートリーからはずす決断をもたらすほどの衝撃をもたらし、以後もこの名作を演奏・録音する数多のチェロ奏者にとっての桎梏(しっこく)となった。

しかし、当盤の宮田大の演奏は、まさに冒頭の数小節から、デュ・プレとは異なる風景を拓く。情念の噴出で聴き手の胸倉をつかむのではなく、深い呼吸で一気呵成に弾き切られる和音が、逆に広大な空間へと聴き手を解き放つのだ。
決め手となるのは情念の多寡ではなく、楽譜の指示に対するスタンスである。デュ・プレの演奏は曲に対する圧倒的な「憑依力」と引き換えに、いささかの楽譜からの逸脱もまた否定できない。この曲の冒頭で言うならば、エルガーがnobilmente(高貴に)と指定していることを、デュ・プレの演奏だと、ともすれば忘れがちになる。
宮田大は、感情表現の強力な武器であり(かつ諸刃の剣ともなる)ヴィブラートを抑制し、和音そのものの美しさを十分に引き出し、nobilmente を十分体感させながら(それはむしろやや忘れられがちなピエール・フルニエの名演に連なる系譜かもしれない)、かつストラディヴァリウスの名器を、地鳴りのような低音を基盤に存分に鳴らしきることで、響きと感情を雄大なスケールの中で融合させる。ここで保障された広大な空間が、楽曲を単なる慟哭の歌に終わらせず、1918年という大きな時代の変化のただ中にすっくと立つ、後期ロマン派、そして英国でそれを支えたヴィクトリア〜エドワード朝時代ヘの気高い白鳥の歌としての曲の姿を、輝かしく照らし出す。
エルガーがいかに豊かな音楽的創意をこの曲に込めたか、宮田大のアーティキュレーションやフレージングへの細やかな配慮に富む演奏はそれを存分に伝えてくれる。ソナタ形式の定型に当てはまらない第1楽章が、同じ重音の響きで始まるJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番第1楽章をモデルのひとつにしているのでは?と思わされたのはこの演奏が初めてだったし、第2楽章の疾走感と明晰さのバランスも素晴らしい。第3楽章には宮田大という音楽家が持っている「高貴な歌謡性」の美質が存分に発揮されている。そして、このところスウェーデン室内管弦楽団での初期ブルックナー交響曲や、BBCスコティッシュ交響楽団を率いてのシベリウス:《クレルヴォ交響曲》などで分析力と表現の大胆さを両立した瞠目の名演を聴かせているトーマス・ダウスゴーが手兵BBCスコティッシュ響と共に、とりわけ終楽章においてチェロとみごとに方向性を一致させた当意即妙の「室内楽」を聴かせる。これは単なる比喩ではなく、この時期のエルガーの他の大作が室内楽曲であることを考えれば事実なのだが、管弦楽がこの曲においてはかつてのエルガーの分厚い豊麗さをかなぐり捨て、チェロの親密な対話相手を務めていることを(必要とあらば爆発力でチェロに挑みかかることも)、ダウスゴーは実感させるのだ。

思い返せば、21世紀に入ってから、この曲はデュ・プレの重力圏から逃れようという秀演の録音が相次いでいた。クライン、ガベッタ(2種)、ヘッカー、ケラス、ワイラースタイン等々…。その中にはいわゆるHIP(Historically Informed Performance)的な発想に基づく「ブラッシュ・アップ」の試みも含まれているが、こうした積み重ねの先に現れた宮田大とダウスゴーの演奏は、精細な楽譜の読みによって実現される「高貴さ」と、振幅豊かな感情表現とを圧倒的な説得力で両立させた、紛うこと無き新時代の名演と言えるだろう。
あたかもマーラーの交響曲第6番終楽章のハンマーのごとく再帰する、冒頭のいわば「運命の主題」が終楽章の最後に出現するとき、そこにもはやnobilmente の指定は無い。そして宮田大もまた、冒頭とは異なる激しさでその主題に臨むが、それこそが「正しいバランス」なのだ。怒涛の如く終結した協奏曲の追悼曲のように、ヴォーン・ウィリアムズ/マシューズの《暗愁のパストラル》が仄暗い叙情を聴き手の心に広げてゆく。みごとなひとつの時代への挽歌である。そしてそれは演奏の力によって、未来を指し示してもいるのだ。