もみじと、りんごと、おばちゃんの家
震災から、やがて2年が過ぎようとしていた冬のある日のことです。津波で子供を亡くしたお母さんたちの、その後の日々を伝えるテレビ番組を見ました。「復興、復興っていう声を聞くのが辛い、だって復興できないものを失くしてしまったから」と呟いた、若いお母さんの嘆きが胸に刺さりました。
あの日、思いがけず別れを告げたたくさんの命は、同時に多くの未来を連れ去りました。子供であれば、まだ蕾だった物語のその続きを。暦を待たずに成長してゆく喜びと、折々の驚きを。大人であれば、年を重ねて深まってゆく笑顔の味わいを、並んで生きることの安らぎを。人生を共に分かち合ってきた人の姿をもしそこに見つけられないとしたら、その悲しみをどんな風に受け止めたらいいのでしょう。被災地に立った人影は、生まれ育った町でありながら、知らない場所に迷いこんだ迷子のように所在なげに見えました。
歌を愛し、その仕事に携わる僕らは、震災直後、たくさんの歌を被災地に届けました。それこそ、メロディからこぼれんばかりのエールを込めて。でも、それらの歌が最初の役目を終えて静まったあとも、埋められない空白を心に抱えて生きる現実は少しも変わっていません。そんな人たちの心に寄り添えるような次の歌を、僕らはもう作ったのだろうか、もう届け終わったのだろうか、そんな自問をしている頃のことでした。
「作りたい歌があるんだけど」友人である作曲家の都志見隆さんにそう話したのは、仕事帰りの地下鉄の中でした。電車の唸り声を払いのけながら彼は、「それ、是非つくりましょうよ」と快諾してくれました。
何か大げさな歌を作ろうと思ったわけではありません。ただ、おばちゃんの家にお線香をあげに行く少女の姿を通して、人生の宝物を失った人の悲しみと、それを気遣う周囲の人たちのやさしさを、過ぎ去る季節の景色の中に描けたらと思いました。
半年かかって歌ができました。ところが、歌ってくれる人がなかなか見つかりません。更に1年、じゃあ都志見さんが自分で歌って、自主制作で被災地に届けようよと準備を始めた矢先、「最後の雨」の中西保志さんが手を上げてくれました。「ぼくが歌ってみましょうか」と。彼の歌が、やっと僕らの「秋日傘」を開いてくれました。
今年の夏の日差しが翳れば、震災から5年目という節目の時はすぐそこです。時間は魔法だと言います。確かに月日が和らげてくれる痛みがあります。でもその傍らに、癒されることのない悲しみがあるのも事実です。そんな悲しみを見守っている人たちが近くにいることを、もし歌の姿を借りて届けられたらと願いました。
作詞家 康珍化