東京佼成ウインドオーケストラA.リード自作自演集

DISCOGRAPHY ディスコグラフィ

東京佼成ウインドオーケストラ

A.リード自作自演集

[ALBUM] 2015/02/18発売

A.リード自作自演集

COCQ-85248-52 ¥7,040 (税抜価格 ¥6,400)

5枚組

直営ショップで購入

CD1
ロシアのクリスマス音楽 [作曲年:1944 / 録音年:1981]
バラード〜アルト・サクソフォンのための(独奏:下地啓二) [1956 / 1981]
音楽祭のプレリュード(フェスティヴァル・プレリュード) [1957 / 1981 Live Recording]
シンフォニック・プレリュード [1963 / 1987]
サスカッチアンの山 [1967 / 1989]
パッサカリア [1967 / 1992]
ミュージック・メーカーズ [1967 / 1981]
ジュビラント序曲 [1969 / 1991]

CD2
「ハムレット」への音楽 [1971 / 1987]
アルメニアン・ダンス パート1 [1972 / 1991]
アルメニアン・ダンス パート2 [1975 / 1991]
パンチネロ [1973 / 1982 Live Recording]
第1組曲 [1974 / 1991]

CD3
オセロ [1977 / 1987]
第2交響曲 [1977 / 1994]
第2組曲(ラティーノ・メキシカーナ) [1979 / 1981]
魔法の島 [1979 / 1981]
春の猟犬 [1989 / 1991]
ラッシュモア [1980 / 1987]

CD4
第3組曲(バレエの情景) [1981 / 1990]
ヴィヴァ・ムシカ! [1983 / 1994]
小組曲 [1983 / 1990]
エル・カミーノ・レアル [1985 / 1989]
ゴールデン・ジュビリー [1986 / 1991]
エルサレム賛美 [1987 / 1989]
サリューテイションズ! [1988 / 1989]

CD5
第3交響曲 [1988 / 1989]
カーテン・アップ [1990 / 1991]
春のよろこび [1990 / 1992]
第4組曲(シティー・オブ・ミュージック) [1992 / 1994]
第4交響曲 [1992 / 1994]
エヴォリューションズ [1993 / 1994]
主よ、人の望みの喜びよ [J.S. バッハ・作曲 / 1981 Live Recording]

(旧KOCD-3554〜8)
作曲・編曲・指揮:アルフレッド・リード

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佼成出版社のカタログより選りすぐりの名盤をお求め易い価格で再発売する、吹奏楽銘盤選の第2回発売。
吹奏楽の神様、アルフレッド・リード(1921-2005)の自作自演をCD5枚組にまとめた、全吹奏楽ファン必携のBOXセットです。指揮者としての活動も活発で、親日家でもあったリードは、東京佼成ウインドオーケストラと数多くのアルバムを遺しており、ここには3曲の交響曲を含む代表的な33曲が選られ、作曲年順に収録されています。日本吹奏楽指導者協会会長や全日本吹奏楽連盟副理事長等の要職を務めた吹奏楽の泰斗、秋山紀夫氏による解説は、旧盤にはなかったものです。



アメリカの偉大な作曲家アルフレッド・リード博士が亡くなってはや10年になろうとしています。
リードの死後、アメリカの吹奏楽作品には見るべき作品が殆ど無く、彼の才能がいかに偉大で、それを継げる才能のある作曲家がいないことを物語っており、改めてリードの作品の素晴らしさと、そうした作品を残してくれたことの有難さを思い知らされます。
そのリードは、生涯に約250曲の作品を残しました。交響曲5曲、組曲7曲などを含むオリジナル作品が101曲、バッハ、ヨハン・シュトラウス、ミュージカル、映画音楽、「想い出のサンフランシスコ」、「枯葉」等のポピュラー音楽を含む編曲作品が75曲、管弦楽や弦楽合奏のための作・編曲が21曲、ソロ・アンサンブルのための作・編曲が32曲、合唱のための作・編曲14曲、マーチング・バンドのための作品9曲等です。
これらの膨大な作品のうち、リード自身が指揮して、東京佼成ウインドオーケストラと録音した曲は84曲におよんでいます。
その中から33曲を厳選して編集されたのがこの5枚組のアルバムで、リードの死後10年を記念するのにふさわしい企画と言えるでしょう。
内容は、交響曲3曲、組曲5曲、シェイクスピアのシリーズから3曲、序曲その他20曲、サクソフォーン独奏1曲、バッハからの編曲1曲で、まさにリード作品のベリー・ベストが収録されており、彼の作品の偉大さを十分堪能させてくれるでしょう。

アルフレッド・リードの生涯

◆少年時代
アルフレッド・リードは1921年1月25日、ニューヨークのマンハッタンのほぼ中央東33丁目で生まれました。両親はウイーン出身のオーストリア人で、第1次大戦を逃れてアメリカに移住しました。
父のカール・フリードマン(1885〜1956)はレストランを経営し、母エリザベス・リード(1889〜1937)は歌が上手で、店のレストランで歌うこともあったそうです。
父も音楽が好きで蓄音機とクラシックのレコードを沢山持っていて、リードは小さい時からそれを聞いて、小学校に入学する頃にはレコードの全部の旋律を覚えて歌うことができました。10歳の小学生の時、学校に楽器店のセールスマンが来て管楽器を宣伝し、リードはコルネットが気に入り、早速両親にトランペットを買ってもらいました。中学校には小編成のオーケストラがあり、そこでトランペットを吹きました。
◆高校生時代
高校生の頃には、バンドでアルバイトが出来るほど上達しました。そして、夏休みには、ニューヨークから150キロも離れた山の保養地のホテルのバンドで演奏しており、このホテルに急にアイルランドの政治家が宿泊することとなり、歓迎のための楽譜が無かったため、リードが急いで編曲し、その時から作曲や編曲に興味を持つようになりました。
作曲に興味を持ったリードは、ピアノと音楽理論、和声学、対位法の勉強を始め、また専門のトランペットもそれぞれの先生について学びました。とくにハンガリー出身のピアニスト、ポール・ヤーティン(Paul Yartin)には厳しい指導を受け、吹奏楽が嫌いだったヤーティンはリードにオーケストラを聴くよう勧めたそうです。このころ彼は仕事上の名として本名のフリードマンでなくリードという短縮した名前を使うようになり、その後1955年になって正式にリードと改姓しています。
◆ラジオ放送ワークショップ時代(1938〜1942)
1936年に高校を卒業したリードはレッスンを続けていましたが、1937年春には母親を亡くしています。
当時ニューヨークには、音楽家を養成しラジオ放送の技術を教えるナショナル・ユース・アドミニストレーション・ワークショップ(全国青少年放送研修組織)というプログラムがあり、リードは1938年からこのワークショップに参加。既に音楽知識と技能を十分持っていた彼は、すぐ音楽放送番組制作部門に配属されました。彼はここで、当時の有名な指揮者や作曲家のアシスタントとして音楽番組の制作を担当し、オーケストラの副指揮者も務め、後に師となる作曲家のヴィットリオ・ジャンニーニとも知り合い貴重な経験を積みます。
1940年、市内に新たに開店したレストランに父が勤務することとなり、その店の娘マジョリーと知り合い、2人は1941年6月20日に結婚します。リード20歳。
◆米国陸軍航空隊軍楽隊時代(1942〜1946)
1941年、アメリカも第二次界大戦に参戦し、1942年9月、リードは召集を受けてコロラド州デンヴァーの第529陸軍航空隊軍楽隊に配属されました。彼はここで副指揮者を務める傍ら、放送の経験を生かしてラジオ番組の制作、解説者として活躍し、同時にいままでは馴染みの薄かった吹奏楽に深く携わるようになります。その結果1944年に彼の最初の吹奏楽曲「ロシアのクリスマス音楽」(Russian Christmas Music;出版は1968年)が作曲されました。
◆ジュリアード時代(1946〜1948)
1946年春、陸軍航空隊を除隊したリードはニューヨークに戻り、ジャンニーニが作曲の教授だったジュリアード音楽院に入学しました。ここで2年間作曲を学んだリードは、NBC放送から誘いを受けます。ジュリアードの学位が欲しかったわけでなく、ジャンニーニについて作曲を学ぶことが目的だった彼は、ジュリアードを中退して、NBC放送に勤務することとなりました。
◆放送局時代(1948〜1953)
リードはNBC放送とCBS放送に3年間、ABC放送に2年間、合計5年間放送局で音楽番組の制作、録音、作曲、編曲と多方面に亘って働き、あらゆる分野の音楽に深い経験を積みました。その結果、彼は作曲家として自立する道を選ぶことにしました。
◆ベイラー大学時代(1953〜1956)
放送局を退職した彼は、ニューヨークにあるチャールズ・ハンセン出版社の専属作曲家になりますが、彼の才能を認めた会社では、リードがジュリアードを中途退学して、学位を取らなかったことを惜しんで、テキサス州ウエイコーのベイラー大学(Baylor University)に派遣してくれました。そこでリードは、大学オーケストラの副指揮者をしながら音楽学部で理論も教え、かつ自分自身も勉強して、3年間で学士号と修士号を取得しました。同時に吹奏楽の在り方についても、研究を深め、「バランスの取れたクラリネット・コワイア」と言う本も出版しています。
◆ハンセン出版社時代(1957〜1966)
1956年にベイラー大学から修士号を受けてニューヨークに戻ったリードは、1957年にハンセン出版社の編集主任に昇格しました。この頃、子供に恵まれなかった彼は、2人の男の子を養子に迎えています(その内の一人は韓国人と結婚し、現在は2人の娘とともにフロリダに居住。韓国人の女性は離婚)。
またこの頃からリードは、吹奏楽曲を意欲的に作曲・出版するようになりました。
1960年、ハンセン出版社はフロリダ州に移転し、リードもフロリダに移住しました。
◆マイアミ時代(1966〜1993)
1966年にリードはハンセン出版社を退職し、フロリダ州コーラルゲイブルズにあるマイアミ大学の準教授として迎えられました。彼はこの大学で長年の放送や出版社での経験を生かして、新たに設けられた「音楽産業学」の講座を担当しました。
この課目は音楽産業に関連するすべてを学ぶ、画期的な新しい学科でした。
リードは大学で教える傍ら、マイアミ大学音楽部長だったウイリアム・リー博士(Dr. William Lee)が編成したオール・アメリカン・ユース・オーナー・バンド(All American Youth Honor Band)の副指揮者として南米に3年連続して演奏旅行に出かけ、その功績により、ペルーの首都リマのペルー国立音楽院(Conservatorino Nacional de Musica)から1967年に博士号を授与されました。
1968年にはマイアミ大学音楽学部の教授に昇任し、こうして1970年代から90年代にかけて円熟期を迎え、「アルメニアン・ダンス」などの名曲を次々に生み出してゆきました。
1980年8月からは退任したフレデリック・フェネルのあとを継いでマイアミ大学ウインド・アンサンブルの指揮者に就任し、作曲に指揮に大活躍しました。
この活動は、1993年5月に彼がマイアミ大学を定年で退職するまで続けられました。
◆日本やアジアでの活躍(1993〜2005)
リードの名声は日本でも1965年の吹奏楽コンクールの課題曲に彼の「シンフォニック・プレリュード」が、取り上げられ、さらに1970年には「音楽祭のプレリュード(Festival Prelude)も課題曲となってますます人気が高まり、その他の多くの曲も自由曲として演奏されるようになりました。
こうした人気の高まりの中で、1981年3月東京佼成ウインドオーケストラの招きで初来日が実現し、それ以来リードは日本中に知られるようになりました。
その後リードは殆ど毎年のように日本を訪れていましたが、マイアミ大学退職後の1994年からは洗足学園音楽大学の客員教授として、日本での滞在時間が長くなり、その間洗足学園のウインド・アンサンブルのヨーロッパ演奏旅行や、アメリカ演奏旅行を成功させました。また1995年、浜松市で開催されたWASBE世界大会にも、洗足学園ウインド・アンサンブルと共に出演しました。
2000年12月には、フレデリック・フェネルとともに台湾を訪問。韓国済州島には1997年8月以来、2001年、2003年の3回訪問し、チェジュウ・ウインド・アンサンブルの指揮にあたりました。
そして、2005年9月17日、心臓発作のためフロリダの自宅で亡くなり、マジョリー夫人も後を追うように2007年12月に亡くなりました。
リードの追悼演奏会は、日本では2006年5月4日に東京で、アメリカでは2006年9月17日にマイアミ大学で行われました。
以上

(C)秋山紀夫