エジソンが1877年に蓄音器を発明、ベルリーナが10年後平円盤型の蓄音器(普及した蓄音器の原点)を発明、演者、話者ががそこにいなくとも声が聞ける蓄音器は急速に注目を浴び、日本でも明治30年ごろから蓄音器、レコード盤が世に出回りだした。日本蓄音器商会が明治43年に設立され、昭和2年英米コロムビアが資本参加、そして現在にいたる日本コロムビアは110年の歴史を誇り、NHK朝の連続ドラマ「エール」に登場するコロンブス・レコードのモデルである。
当CDは、日本コロムビア創成期から昭和20年までにコロムビアとその関連会社がリリースしたレコード史上貴重な音源を編集したもので、歌謡曲の大ヒットの他斬新で珍しい企画性のある曲も取り上げている。
明治・大正・昭和初期のレコードはレコード会社が企画制作した流行を狙った楽曲を収録したものではなく浪曲、義太夫、民謡、俗曲、演歌、唱歌など巷ではやっている曲がレコード化された。
大正3年芸術座の劇中歌「カチューシャの唄(復活唱歌)」が関西の倒産寸前のオリエントレコード(後にコロムビアに吸収される)から発売され大ヒット、新しいレコード企画の方向が示され、翌年には「その前夜」の劇中歌「ゴンドラの唄」もヒットした。当CDには収録されていないが演歌師による「船頭小唄」「籠の鳥」「のんき節」も世に広がりレコード化された。また新興娯楽の映画が歌のヒットをもとに製作されるようになった。
また社交ダンスの隆盛とともに洋楽曲が“ジャズソング”として輸入されたり、和製ジャズソングが生まれ、「
青空」「アラビアの歌」「
月光価千金」「
ニッポン娘さん」「
君恋し」とヒットレコードアイテムになった。その後「
山の人気者」「
小さな喫茶店」「
お祖父さんの時計」もスタンダードになった。宝塚歌劇も人気となり「
すみれの花咲く頃」「
モン巴里」もレコード化された。
昭和6年、ギター、マンドリンという新しい楽器サウンドによる古賀政男の「
酒は涙か溜息か」「
丘を越えて」「
影を慕いて」「
サーカスの唄」が世に出されヒット、レコード歌謡の時代が到来した。それまではほとんど小唄調の“ご当地ソング”とご当地行進曲で、古関裕而が「
福島行進曲」で作曲家デビューしたのも当然な状況で、コロムビアも新しいレコード小唄を模索していた。
中山晋平、佐々紅華、鳥取春陽等に次いで、古賀政男、古関裕而、江口夜詩、池田不二男、佐々木俊一、大村能章、服部良一、竹岡信幸と個性的で才能ある作曲家が登場、レコード界は自力で流行歌を作り繁栄の時代を築いていった。
コロムビアは専属作家古関の「
船頭可愛や」「
愛国の花」、池田の「
幌馬車の唄」「
並木の雨」「
雨に咲く花」「
花言葉の歌」、竹岡の「
人妻椿」「下田夜曲」「
シナの夜」「
白蘭の歌」、服部の「
山寺の和尚さん」「
別れのブルース」「
一杯のコーヒーから」「
湖畔の宿」「
小雨の丘」「
蘇州夜曲」「
おしゃれ娘」「
私のトランペット」「
東京見物」、テイチクから復帰した古賀の「
誰か故郷を想わざる」「
なつかしの歌声」「
新妻鏡」「
夜霧の馬車」「
崑崙越えて」「熱砂の誓い」「
ネクタイ屋の娘」と多彩な曲を生み出した。
昭和初期に無声からトーキーに進化した映画は、娯楽の王としてレコード音楽のヒットに大きく関わり、上記のヒット曲の多くは映画から世に広まった。昭和4年の「
蒲田行進曲」から翌年の「
麗人の唄」と無声映画ながら主題歌は一応の成功をおさめ、トーキー時代に入ると映画主題歌は歌の重要な宣伝媒体となり、主題歌のヒットは映画の成功につながった。
コロムビアと蜜月だった松竹の音楽作家でもあった万城目正は大衆歌謡の極致ともいえる「
旅の夜風」「
純情二重奏」により文芸歌謡を確立した。また、奥山貞吉と並びコロムビア専属編曲家として活躍した仁木他喜雄の「
めんこい子馬」「
お使いは自転車に乗って」も映画主題歌であり、ヒットを目指しコロムビアのディレクターは映画会社に入り浸り、プロデューサー、監督と親交を深めていたようだ。
南アジアが戦略、経済的にも重要になり「
南の花嫁さん」「
南から南から」と明るく軽快な南方歌謡も大いに歌われ、子供むきの佐々木すぐるの「
お山の杉の子」もまた戦後も一部詩を変えても愛唱されるほど国民的ヒットとなった。昭和15年発売の八洲秀章の「
高原の旅愁」もまた、戦後大きな愛好者を獲得した抒情歌謡の先駆けとして歌好きに愛唱された。
コロムビアを筆頭にレコード界は昭和14年歌謡曲百花繚乱のような第一次黄金期を迎えたが、戦局の深刻化とともには軍国戦時歌謡主体のレコード時代に加速突入した。それでも三井財閥系の御曹司朝吹英一を中心としたカルア・カマアイナスは、社会的に恵まれた“お坊ちゃまバンド”であったが、質の高い日本洋楽を創造し学生層に支持された。「
陽炎燃えて」が代表作である。
この稿では、西條八十、高橋掬太郎、佐藤惣之助、野村俊夫、島田芳文、サトウハチロー、藤浦洸と綺羅星のような作詩陣に言及しなかったが、その個性的で技術ある職人技が無くば、作曲家による多様なヒットメロディーは生まれなかったことは確かである。
ボーナス・トラックは「エール」の主役モデル古関に関連した曲である。早稲田大の応援歌「
紺碧の空」製作の動機となった慶應の名応援歌「
若き血(堀内敬三作曲)」は慶應OBの藤山一郎が母校のために歌ったもの。伊藤久雄の「
紺碧の空」は伊藤のいとこが、早大応援団に所属しその縁で新人作家古関に委嘱された。「エール」の応援歌設立の話は事実に近い。
「
六甲おろし ~大阪タイガースの歌~」は昭和11年プロ野球が発足の際大阪タイガース(現阪神タイガース)の球団歌として委託制作された。コロムビアのエース若林忠志が阪神に引き抜かれたことに絡み作られたと推測される。「
コロムビア応援歌(晴天直下)」はコロムビア野球部が都市対抗野球で準優勝した昭和10年に作られ野球部が廃部となった後の昭和末まで、社内で歌われていた。作詩作曲は佐藤、古関コンビにより「六甲おろし」にその遺伝子を遺している。
(太字はCD収録曲)
三木 容