歌手藤山が、クラシック声楽の世界で実力を評価され嘱目されていたことは、上下巻の収録曲で実際に聴くことができる。実はその歌唱テクニックをベースにして初めて、クルーン唱法によりマイクに美しく乗せ、過剰なビブラートのない美しい日本語で歌うことが可能であった。
そして藤山の成功が、レコード歌謡の歌唱スタイルと、歌のオーディオ的空間の標準を、レコード歌謡界の黎明期であった昭和6、7年に確立させたのであり、歌手・藤山の業績はここから始まる。
藤山の歌は楷書の歌といわれるが、SP時代の歌謡曲は時間的制約もあり、比較的テンポも速く、音域も広く、間合いを表現することより、正確な歌唱が求められた。また、歌われるために、正しく伝えられることも大事だった。現在のカラオケ歌謡が歌の規範として求められていることで理解できよう。作曲家指定の音域、テンポでオケと同時に歌う読譜力と歌唱力があって成立するのが大衆歌謡歌手であった。当然、楷書的歌唱が求められたわけである。これは前提としても、この時代のレコード歌謡は、西洋音楽の日本に定着する過程で成立したものであり、基本的に歌曲的であった。西洋音楽の俗的表現のタンゴ、ラテン歌曲、シャンソン等のポピュラー、アメリカのポピュラーの影響を多分に受けていたが、そこでも美しく丁寧に歌うことは当然のことであった。

今回、藤山のレコーディング曲を概観すると、その音楽世界は大衆歌謡そのものである「影を慕いて」「男の純情」から、クラシックメロディによる「春の花束」、和製シャンソン、和製ホーム・ソング、日本歌曲と、その音楽世界はかなり広いが、基本的には「歌曲的」である。又、多くの大衆にアピールすることだけを目的とせず、いろんなジャンルの歌があったことに注目させられる。

昭和29年、藤山はコロムビアとの専属契約を終了、レコード界から距離を置くようになったが、まさにこの時代、録音もテープによる非同時録音、LP,EP盤の登場によるレコードの大衆化、大衆娯楽における浪曲、民謡、歌謡童謡の凋落と、そのテイストを根底にした歌謡曲の「日本化」と、歌謡唱法の変化が起こりつつあった頃で、怜悧で進取な藤山には、時代の変化が見えていただろうし、選択した放送の仕事の重要さも見えていたのだろう。そのメインのプロ歌手活動は、ヒット曲の多さに比べ20年あまりで意外に短い。

改めて今回の収録曲を聴いて、またその背景を見ての私観であるが、藤山がレコード歌手として活躍したのは、昭和上半期の戦争を挟む激動の時代であり、それはSP時代であり、ラジオの時代だった。何よりも歯切れよく、明るく甘く響く美しいハイ・バリトンの声は、この激動の時代の都会的な青春を表現する清新な声そのものだった。その歌は、紛れも無く時代のポップな青春ソングであった。
又、歌手藤山一郎が存在して初めて生まれ、成功し得た歌謡史上の名作も少なくなかったことに気づかされるのである。