この一枚

この一枚 No.34

クラシックメールマガジン 2011年2月付

~イングリット・ヘブラー/モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集~

南ドイツのニュルンベルクから南東に40kmほど列車で行くとノイマルクトという小さな街がある。この街は観光地ではないが、クラシック録音関係者には室内楽、特にピアノ録音に最適な美しい響きのコンサートホールの街として知られている。ここで録音したアーティストはブレンデル、シフ、ペライア、オピッツ、グリモー、そして今回とりあげるヘブラーなど、まるで著名なピアニストのカタログを見ているかのようである。
イングリット・ヘブラーは1960年代フィリップスに録音したモーツァルトのピアノ作品全集の素晴らしさで知られているが、80年代半ば、再び彼女を起用してのモーツァルト:ピアノ・ソナタ全集再録の企画が日本コロムビア内で検討されたとき、大きな賛成と同じくらいの反対があった。ADFディスク大賞を得ているピリスの全集のCD化が進められているときに同じプログラムを、60才代の女性アーティストを起用して、それならば有望な新人で?というのが反対の主な理由であった。
その反対を乗り越えての録音にあたって、ヘブラーは自身の録音チームをコロムビアのスタッフではなく、シュトゥットガルトの録音制作会社トリトナスに一任し、アンドレアス・ノイブロンナーがプロデューサー、エンジニアを兼務した。またピアノの調律はこれまで多くの世界的ピアニストの録音に従事してきたロベルト・リッチャーが担当した。
ドイツにはレコード会社や放送局のため多くのクラシック音楽専門のフリーの録音会社がある。その中でトリトナスはフィリップスのプロデューサー/エンジニアとして著名なフォルカー・シュトラウスが教壇に立つデットモルト音楽大学トーンマイスター・コースの卒業生で、彼の愛弟子達4名が1987年に立ち上げたばかりであった。この会社を一躍有名にしたのは、ソニーのオリジナル楽器レーベル、ヴィヴァルテの制作録音を一手に担当し、素晴らしい演奏、音質の作品を送り出したことからだっただろうか。最近はティルソン・トーマスのマーラー交響曲シリーズの録音でグラミー賞録音部門を受賞している。今回のヘブラー録音は60年代彼女の録音を行ってきたシュトラウスの紹介だったのだろうか。
調律のリッチャーはこのプロジェクトをきっかけに以降多くのDENONのピアノ録音に参加してゆくが、中でもスイスのラ・ショー=ド=フォンでのアファナシェフのブラームスやモーツァルトではピアノ選定と調律に素晴らしい仕事を行っている。
このプロジェクトが進行する中でノイマルクトを訪れる機会があった。ステージの中央に置かれたピアノに近接して4本のマイクが2本ずつペアで束ねられ、そして客席には2本のB&K社マイクが置かれていた。近接のマイクはノイマン社の無指向性と単一指向性マイクを束ねることで双方の時間差が生じず、単一による明瞭な音を、無指向による響きの豊かさと低音の延びを得るという、双方の長所を生かしたもので、録音関係者の間ではフォルカー・シュトラウス方式と呼ばれており、ここでもノイブロンナーが恩師の薫陶を受けているのが感じられる。
録音はヘブラーが丹念に、さらに丹念に練習し、納得ゆくところで進められてゆく。彼女が練習の間はスタッフはただひたすら待つのみである。おかげでノイブロンナーやその折りアシスタントを担当していたマルクス・ハイランドとも多くの話題や意見の交換が行えた。中でも印象的な一言はノイブロンナーの「僕は夏になるとシュトゥットガルトからプラハまでサイクリングするんだ。なぜプラハかって?あそこは戦争で失われたドイツの古い町並みが残っているからだよ。行くと懐かしい場所に帰ってきた気分になるのさ」。ドイツ人には自転車好きが多いが、夏休みに数百キロ離れた土地までサイクリングとは!そしてプラハが彼等にとってもどんな場所なのか、少し考えさせられた。
幾つかのセッションの後、夕食となり、その席で少しヘブラーとも話ができたが、彼女の心は会話には無く、食事の後ホールの鍵を持ってさっさと自分の部屋に引き上げてしまった。ノイブロンナーが「気にするな。彼女は夜起き出して、またホールで練習するんだ」とフォローしてくれた。なんと練習熱心な人だろう。それまで多くのピアニストの録音に従事してきたが、ここまで自己鍛錬に集中するアーティストは初めてだった。
西欧の肖像画では衣装に細かく美しいレースの刺繍が施されている絵を多く見るが、ヘブラーの演奏はまさに細く輝く糸で精巧に編まれた刺繍細工を見ているような気持ちにさせてくれる。まるでモーツァルトを際立たせるかのように、丹念に、丹念に彼の作品を美しく飾ることに専念している。さらに、6年をかけた5枚の演奏、録音が高いレベルで揃っていることもこのプロジェクトの質の良さを物語っている。
ヘブラーの新録音盤はピリスやグリモーなどの自己主張の強い演奏と比べるとその反対側に位置することもあり、当初懸念されたように発売直後は国内でも海外でもやや苦戦で、批評も辛口のものが目立った。しかしながら、口伝に「なんと素晴らしい刺繍職人なのだろう。いつまでも輝きを放ち、色褪せることはない」と評判が年々高まり、今では定盤とされるようになった。

(久)

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