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[この一枚 No.47] 〜スーク・トリオ/ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第7番《大公》〜
作家村上春樹は近刊「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を一読すれば解るように、ジャズやポピュラー音楽のみならず、クラシック音楽にも大変造詣が深いことで知られているが、2002年に刊行された小説「海辺のカフカ」の中でも15才の主人公が聴くロック音楽と相対する形で、ベートーヴェンのピアノ・トリオ《大公》を「大人の音楽」として扱い、大変重要な役割を持たせている。
まず物語後半の喫茶店の場面で、ルービンシュタイン−ハイフェッツ−フォイヤマンの《百万ドル・トリオ》による1941年録音盤が登場するが、その後、図書館司書が同曲のスーク・トリオの演奏を「美しくバランスがとれていて、緑の草むらをわたる風のような匂いがする」と讃えているシーンに出会う。また、この小説を巡って作家と読者との間に電子メールで交わされた感想、批評を集めた、まるで漫画雑誌のような体裁本「少年カフカ」の中でも、村上氏はスーク・トリオの演奏を推薦盤の1枚として紹介している。
この、小説にも登場したスーク・トリオの「大公」は1961年、1975年、1983年と3回の録音盤があり、初回と2回目のピアニストはヤン・パネンカで、彼が指の故障で弾けなくなった1983年盤ではヨセフ・ハーラに入れ替わってヴァイオリンのヨセフ・スーク、チェロのヨセフ・フッフロと共演している。今回は「第2回PCMヨーロッパ録音」(1975年6月〜7月)の中で録音され、今日までベストセラーとなっている1975年盤を取り上げてみよう。
1975年6月、チェコ共和国(当時はチェコスロヴァキア共和国)の首都プラハから北東に90kmほど向かった高原の田舎町ルチャニ・ナト・ニソウ(ライナーではルチャニーと表記)、その町の小さな教会に音楽ディレクターのヘルツォーク、録音部長のクールハンなどチェコ・スプラフォン・レコードの録音クルー、そして共同制作の日本コロムビアからはディレクター2名とPCM録音技術者2名、さらにコロムビアから録音アドバイザーとして参加を要請されたデンマーク人、ヴィルモースと、3カ国の録音スタッフが集まった。この地にはスメタナ四重奏団の別荘と合宿所があり、じっくりと2枚分の録音を行いたいスメタナ四重奏団の要望で今回の録音場所に選ばれたのだった。
早速、教会の一室にモニタールームが設けられていたが、はるばる日本から運ばれてきたPCM録音機は教会内の一室ではなく、教会から数十メートル離れた死体安置小屋に据え置かれた。当時のPCM録音機はメインのアナログ/デジタル変換機が1台、記録機としての放送局用2インチVTRが2台、そして監視機器の3セットで構成され、総重量400kg近くになり、2台のVTRから生じる騒音が大きいので、隔離せざるを得なかったのだ。
推測ではあるが、最初のスメタナ四重奏団によるモーツァルトの弦楽四重奏曲の録音はスメタナの4人のメンバーにディレクター、ヘルツォークを交えた5人のチェコ語による喧々諤々の音楽上の論争を他のスタッフはあきれ顔で眺めていたことだろう。その後、同じような体験をカルミナ四重奏団の録音でも味わったので、「カルテットは録音と議論の時間が同じくらいなんだ」というのが私の持論となった。
スメタナ四重奏団の1枚目の後、いよいよスーク・トリオの録音だ。各楽器にマイクを近接して置き電気的にバランスを取るのではなく、会場の中でバランスのとれた音をマイク2本で収音するシンプルな録音方式は会場の響きとマイク位置が決め手となる。そのため残響の多い教会内には響きを押さえるために大量の毛布が吊るされた。おそらく、ヴィルモースが「やっと俺の出番だ」とばかりにクールハンとマイク位置では議論を戦わせたことだろう。結果、フォルテシモではややヴァイオリンの音がきつく感じるものの、冒頭のピアノの音は
とても柔らかで、温厚なパネンカの人柄も相俟って、まさしく「緑の草むらに囲まれた教会での演奏」がそのまま収録されているように聴こえる。
「大公」トリオに続いてシューベルトのピアノ・トリオ第1番も共に大きな音楽上の議論も無く、それぞれ2日間で録音は終了した。しかし、録音スタッフには議論するスメタナ四重奏団のもう1枚が控えており、結局、何もない高原の田舎町に2週間以上滞在することになった。
スークはこの録音の直後にフランスに移動し、ルージッチコヴァのチェンバロ伴奏でヘンデルのヴァイオリン・ソナタ全集をヴィルモースの手によりPCM録音を行っているが、この録音の時のヴィルモースの逸話が残っている。プレイバックを聴きにスークがモニタールームに入ってくるとヴィルモースは立って、自分の席をスークに譲ったそうだ。それは先祖にデンマーク海軍の英雄を持つ誇り高き彼が感銘を受けたアーティストに払う最大の敬意であった。
この逸話を教えてくれたのはこのツアーに参加した女性ディレクター、橋本さんだった。75年、まだ成田空港が無い頃の日本の会社はまだまだ男性社会で、まして独身女性の「危険な」海外出張は考えられないものだったが、女性ディレクターにも海外録音の経験を積ませたい」という洋楽部の強い熱意が会社の上層部を動かし「親御さんの承諾があれば」という条件付で稟議が降りました。橋本さんのお父様が来社し、重役に承諾書を書いて渡した、と言われている。
残念ながら彼女のコロムビア在籍中の海外出張録音はこの1回のみであったが、退職後はロンドンで生活され、当時ロンドン在住のピアニスト岡田博美さんの録音を担当するなど活躍しはじめた矢先に病に倒れ、長年の治療も叶わず、今年1月に逝去された。いつも明るく笑いながらスタジオの廊下を歩いて、ラーンキやシフの録音、編集、また久石譲さんのグループ「ムクワジュ」のトラックダウンなど、様々な音楽制作に従事された在りし日の姿を懐かしく思い出される。
(久) |
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〜スーク・トリオ/ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第7番《大公》〜