[この一枚 No.48] 〜コチシュ/バルトーク:ピアノ作品集〜
2002年6月に「日本コロムビアのクラシックの名盤を1000円で」で、という大胆な価格設定の70タイトルのリリースで始まった「クレスト1000」シリーズ。以降、この10年間、毎年末の恒例となり、昨年(2011年)末には第11回発売を迎えている。 繰り返し発売される名盤だけでなく、数十年前にLPで発売されただけで廃盤となった、商業的には難しかったが優れた作品も復活させ、オリジナルに遡ってのジャケット写真や数々のデータ収集に大変な苦労をされてきた関係者の努力に敬意を表したい。 数年前にクレスト1000の全発売作品の売上枚数を調べる機会があった。売上上位にあるものの大半は過去に名盤とされたもので、その位置を納得できたが、中で「コチシュ/バルトーク作品集」が上位にいるのは予想していなかった。1976年LPで発売された時はそんなに音楽紙誌から推薦されず、商業的にも成功を収めたとは言い難いアルバムだった、と記憶していたのだが。 勿論、第1回発売というアドバンテージはあるだろうが、同時に70タイトルが発売されているので、単純に理由はそれだけではないだろう。一説によるとピアニストのタマゴたちの教材でバルトークの作品が取り上げられており、このアルバムはその演奏見本として購入されているという。 過去35年間、多くのピアニストを志すタマゴ達がこのアルバムを聴いて、バルトークに挑んだのだろうか。それともコチシュのリズム感に早々にギブアップしただろうか。 1970年代半ば、ハンガリーの若手ピアニスト三羽烏として、ラーンキ、コチシュ、シフという名が音楽誌、レコード誌に登場した。確か、ジャパン・アーツが日本のマネージメント会社で、75年4月には年長のデジュ・ラーンキが来日し、甘いマスクと端正な演奏で女子タマゴたちのハートを掴み、同時に日本コロムビアでは京橋中央会館でシューベルトのソナタ集、上野学園メモリアルホールでリスト・ピアノ作品集の2枚を橋本ディレクター、林エンジニアのコンビで録音した。 半年後の10月にはコチシュが来日したが、クシャクシャ髪で美男とは言い難い風貌の彼は、ラーンキほどの騒ぎはなかった。コチシュもラーンキに続き、日本コロムビアに1枚のアルバム録音を行ったが、それが今回の「バルトーク:ピアノ作品集」である。 当時、東京近郊ではピアノ録音の会場選びは、まずスタインウェイのピアノがホールにあることが絶対条件、次に2日間連続して会場が押さえられることであったが、秋の音楽会シーズンに都内でこの条件を満たす会場は殆ど無かった。結果、地下鉄千代田線町屋駅から都電荒川線を乗り継ぐという、交通の便が必ずしも良くない場所にこの春に開館したばかりで、知名度の低い荒川区民会館が録音会場に選ばれた。1300名を収容する大ホールは音楽、演劇、講演などに用いられる多目的ホールで、今日の音楽専用ホールのような豊かな響きは望めなかったが、外部騒音も少なく、比較的空いていたし、重いPCM録音機材の搬入・搬出も楽だったので、以降、日本コロムビアのソロからオーケストラまで、数々の録音が80年代初頭まで行われることになった。 代表的なものとして、76年5月高橋悠治:クセナキス/ピアノ作品集、同年6月スーク・トリオ:チャイコフスキー/ピアノ・トリオ「偉大な芸術家の思い出のために」、77年6月カントロフ/渡邉/都響:チェイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲、79年1月スウィトナー/N響:モーツァルト/交響曲第36番、第38番、同年11月、カントロフ:バッハ/無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全集、等々。 コチシュの録音でのピアノの調律担当はスタインウェイの輸入代理店所属で、日本コロムビアのスタジオのピアノ調律一切を任されている本間調律師。まだ新しく、あまり使われていないピアノに向かって、あたかも格闘するかのごとく、演奏家の意図したように楽器が鳴るように懸命の調律が成された。 当時23才、全身から若さを感じられるコチシュが着くやいなやピアノに向かい、鋭い打鍵を次々打ち込んでいくとピアノは少しずつ目覚めて、持っていた楽器の可能性を、表に現し始める。ピアノの状態、収録された音の状態や自分の演奏の出来をプレイバックで確かめて、全てに神経質なほど自分の意見を述べ、初対面の川口ディレクター、林エンジニアを説得していく。「このバルトークの録音は自分にとって大切なものなんだ」と訴えるように。 結果、強いリズムとフレーズの最後を短く切り込む民族色の強さなどが顕著に表れて、まるで若いコチシュが自国の尊敬する作曲家バルトークのピアノ作品に全身で挑んでいる、と感じられるアルバムとなった。 三羽烏の最後の一人、アンドラーシュ・シフは77年3月に来日し、武蔵野音楽大学でシューマン、また、上野学園でバッハの計2枚を日本コロムビアに録音した。シフは一番若いのに、終始、落ち着きある態度で振る舞っていたのが印象的だった。しかし、何故か、来日中に食べたカップヌードルに大感激し、「ハンガリーにはこんな美味しいものは無い」とばかりに、録音中も毎日、口にしていたのは可愛かった。勿論、橋本ディレクターが録音がうまく進むように、カップヌードルを控え室に届けていたのだが。 23才の若さとありあまる才能を惜しみなく注いだこの録音から37年。今年でコチシュも還暦を迎え、今ではピアニストとして、また指揮者として母国のみならず、世界の音楽界に大きな存在を示している。三羽烏の他の二人も音楽教授として、また大ピアニストとして世界中で活躍していて、当時の噂が嘘ではなかったことを示している。 クラシックのレコード会社にとってバルトークのカタログはとても重要とされていたが、当時、日本コロムビアの自主音源には殆ど無く、このピアノ作品の録音が最初ではなかっただろうか。以降、シフのピアノ作品集。アツモン/都響の「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」、若杉/都響の「かかし王子、中国の不思議な役人」、インバル/スイス・ロマンド響の「弦楽器、打楽器、チェ レスタのための音楽/管弦楽のための協奏曲」、インバル/フランクフルト放送響の「青ひげ公の城」、カルミナ四重奏団の「弦楽四重奏曲第1番、第2番」など、現在ではピアノ曲、オーケストラ曲、オペラ、室内楽の重要なレパートリーが少しずつ充実してきている。 バルトークのピアノ曲の録音・編集に初めて接して「凄い」と感じていたあの頃はオペラまで録音できるなんて、遠い夢だった。 (久) |
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